先週末からHNKをはじめTV番組は冬季オリンピックで占有されるようになった。私は雪で家にいる機会が多かったが、しかしそれでも、オリンピックの番組をあまり見る気が起こらない。それは冬のスポーツに馴染みが薄いことに加えて、日本選手への応援を煽り立てるような番組のありように嫌気が差してきたからである。「金メダル確実」、「悲願のメダルを狙う」、「メダル10個以上目標」等々、多くのTV局のニュースや特番で競技者個人にスポットを当て、メダルを狙うのが使命のような雰囲気を作り出す。そして「狙うはメダル」、「金以外は要らない」などの言葉を引き出し、なにか選手が日の丸を背負って必勝を誓い、それを日本国民全体が応援しているかのような演出に、薄気味悪ささえ感じるのである。
マスコミは民衆の耳目を引き付けるものを常に捜している。それがだんだんエスカレートして行くと、ストーリーを作り次第に脚色していく。そしてそれが行き過ぎてくるとヤラセにまでなってしまうのであろう。一方聴衆も安易にストーリーに乗っかって刺激や感動を得ようとしているように思われる。TVやインターネットで美味しい料理、珍しいスイーツ、旨いラーメン店など紹介されると、人は何時間でも行列して自分もそれを体験しようとする。世間で評判の物、話題の物は自分でも体験していないと話題についていけないといと思うのだろうか。マスコミが脚色し、タレントを使って演出をする。人はそれに操られ賛同し満足している。なにかそんな図式が多くなってきたようにも思うのである。
そんな世俗の風潮の中で、最も象徴的だったものが、先日の佐村河内守のゴーストライター事件であろう。NHKスペシャルで「音を失った作曲家」として取り上げられ、一躍「日本のベートーベン」として時の人となった。そしてそれが切っ掛けで交響曲第1番 “HIROSHIMA”のCDが18万枚売れ、演奏会のスケジュールがビッシリと詰まっているとか、それが世間を欺むくニセ作曲家であった。本人の問題もさることながら、これはマスコミが加担して作り上げられた虚像なのである。
記事を見る限り佐村河内という男は希代のペテン師のようである。彼の履歴には・・原爆被爆者の両親の元に生まれ、4歳で母親からのピアノの英才教育が始まる。10歳でベートーヴェンやバッハを弾きこなして、「もう教えることはない」と母から言われ、以後は作曲家を志望したとされる。中高生時代にして楽式論、和声法、対位法、楽器法、管弦楽法などを独学。17歳で原因不明の偏頭痛や聴覚障害を発症したとされ、高校卒業後は、現代音楽の作曲法を嫌って音楽大学には進まず、独学で作曲を学んだとある。
またNHKの番組中では作品の構想が浮かばず苦悩する佐村河内の姿や、障害者や東北大震災の被災者と佐村河内の交流などが描かれて行く。薬の飲み過ぎで立つことすらできずに床を這いまわるシーン、あるいは東日本大震災の被災者名簿を見たあと深夜の公園で一人苦悩し、風速10m零下2℃の海辺に6時間あまり佇む。さらに2日間全く寝ずに闇の中からやっとつかみ取った旋律が「ピアノのためのレクイエム」になったなどと紹介されたようである。まさしく迫真の演技だったのであろう。
ドキュメンタリーとは本来制作者の意図や主観を含まぬ事実を伝えるものであはずである。しかし今はそれが大幅に脚色と演出されたドキュメンタリー風ドラマとして視聴者に伝えられているのではないだろうか?、我々はマスコミの報道を鵜呑みにしやすい傾向にある(特に公共放送のNHKは)。そしてもう一つ、人はドラマ性に乗りやすく感情移入しやすい傾向がある。TVドラマはフィクションであるから当然面白くあるのは良いとして、報道番組やドキュメンタリー番組はあまり脚色を加えず、見る側が自分の中でストーリー展開できるよう、材料だけを提供してくれればいいように思うのである。何から何まで(美味しさや感じ方まで)押し付けで放送しているのではないだろうか。これでは人は考える力や感じる力を失ってしまう。
TVだけでなく新聞各紙を比べてみても、その捉え方や書き方で全く違ったニューアンスになる。特に政治問題を取り上げた記事などは右から左まで千差万別である。では自分はどのスタンスに立つのか、マスコミの扇動に乗らず主体性を持ち続けることはなかなか難しいことである。できれば「物事の本質を見通す優れた判断力」を持っておきたいものである。そのためにはマスコミの言い分から、少し身を引いて客観視してみる、そして書き手や作り手の意図を探る。そんなスタンスも必要なのかもしれない。
マスコミは民衆の耳目を引き付けるものを常に捜している。それがだんだんエスカレートして行くと、ストーリーを作り次第に脚色していく。そしてそれが行き過ぎてくるとヤラセにまでなってしまうのであろう。一方聴衆も安易にストーリーに乗っかって刺激や感動を得ようとしているように思われる。TVやインターネットで美味しい料理、珍しいスイーツ、旨いラーメン店など紹介されると、人は何時間でも行列して自分もそれを体験しようとする。世間で評判の物、話題の物は自分でも体験していないと話題についていけないといと思うのだろうか。マスコミが脚色し、タレントを使って演出をする。人はそれに操られ賛同し満足している。なにかそんな図式が多くなってきたようにも思うのである。
そんな世俗の風潮の中で、最も象徴的だったものが、先日の佐村河内守のゴーストライター事件であろう。NHKスペシャルで「音を失った作曲家」として取り上げられ、一躍「日本のベートーベン」として時の人となった。そしてそれが切っ掛けで交響曲第1番 “HIROSHIMA”のCDが18万枚売れ、演奏会のスケジュールがビッシリと詰まっているとか、それが世間を欺むくニセ作曲家であった。本人の問題もさることながら、これはマスコミが加担して作り上げられた虚像なのである。
記事を見る限り佐村河内という男は希代のペテン師のようである。彼の履歴には・・原爆被爆者の両親の元に生まれ、4歳で母親からのピアノの英才教育が始まる。10歳でベートーヴェンやバッハを弾きこなして、「もう教えることはない」と母から言われ、以後は作曲家を志望したとされる。中高生時代にして楽式論、和声法、対位法、楽器法、管弦楽法などを独学。17歳で原因不明の偏頭痛や聴覚障害を発症したとされ、高校卒業後は、現代音楽の作曲法を嫌って音楽大学には進まず、独学で作曲を学んだとある。
またNHKの番組中では作品の構想が浮かばず苦悩する佐村河内の姿や、障害者や東北大震災の被災者と佐村河内の交流などが描かれて行く。薬の飲み過ぎで立つことすらできずに床を這いまわるシーン、あるいは東日本大震災の被災者名簿を見たあと深夜の公園で一人苦悩し、風速10m零下2℃の海辺に6時間あまり佇む。さらに2日間全く寝ずに闇の中からやっとつかみ取った旋律が「ピアノのためのレクイエム」になったなどと紹介されたようである。まさしく迫真の演技だったのであろう。
ドキュメンタリーとは本来制作者の意図や主観を含まぬ事実を伝えるものであはずである。しかし今はそれが大幅に脚色と演出されたドキュメンタリー風ドラマとして視聴者に伝えられているのではないだろうか?、我々はマスコミの報道を鵜呑みにしやすい傾向にある(特に公共放送のNHKは)。そしてもう一つ、人はドラマ性に乗りやすく感情移入しやすい傾向がある。TVドラマはフィクションであるから当然面白くあるのは良いとして、報道番組やドキュメンタリー番組はあまり脚色を加えず、見る側が自分の中でストーリー展開できるよう、材料だけを提供してくれればいいように思うのである。何から何まで(美味しさや感じ方まで)押し付けで放送しているのではないだろうか。これでは人は考える力や感じる力を失ってしまう。
TVだけでなく新聞各紙を比べてみても、その捉え方や書き方で全く違ったニューアンスになる。特に政治問題を取り上げた記事などは右から左まで千差万別である。では自分はどのスタンスに立つのか、マスコミの扇動に乗らず主体性を持ち続けることはなかなか難しいことである。できれば「物事の本質を見通す優れた判断力」を持っておきたいものである。そのためにはマスコミの言い分から、少し身を引いて客観視してみる、そして書き手や作り手の意図を探る。そんなスタンスも必要なのかもしれない。
政府、官僚、学者、マスコミ、評論家、電力会社は寄ってたかって虚構を構築し、無垢な国民を欺き、自分たちに都合のよい方向に誘導し、世論を操作して膨大な利権や天下り先を手中にしています。
憲法改正、原発推進、地球温暖化、エコ推進、年金etc 特にNHKは公正中立でなければなりません。国民から聴取料を強制的に取っているのですから。国民は騙されないようにしたいですね。