会社の隣にある梅公園の梅が咲き始めた。咲き出すと、なんとなく春の訪れを感じる。
梅は桜とちがって、咲き方も散り方もゆっくり、 1月上旬から咲き出すもの、
3月中旬から咲き出すものなど300種以上の品種があり、さまざまなようである。
例年近隣や散歩で梅を見るが、どこと比べてもこの公園の紅梅が一番最初に咲くように思う。
お正月から1週間してこの公園を通りかかると、ほころび始めた梅の花を見ることが出来る。
まだ外気温は冬の真っただ中なのに、もうこの寒空に紅色の花を咲かせ始めている。
時には春を感じさせる暖かい日差しの下に、時にはみぞれ交じりの冷たい雨の中で、
天候や周りの状況には全く影響されず、自分の中に組み込まれた時計に従って咲くように思える。
天候がどうあろうが、世間がどう変わろうが、人がどうもがこうが、梅にとっては何の関係もない!
そんな信念を梅の中に感じるほどである。だから私の中でこの梅が四季のスタートになっている。
この花を見る度に、「もう春になるのか?」と毎年同じ気持ちを起こさせてくれるのである。
梅が咲きはじめると、菜の花が咲き、桜が咲き、ボタンが咲く。
ツツジになり、アヤメになり、バラが咲く。やがてユリやアジサイの季節になる。
夏にはダリヤやヒマワリが暑さに負けじと咲き、秋にはコスモスやまんじゅしゃげやキクが咲く。
1年間の花暦、そのスタートが梅公園のこの梅<八重寒紅(やえかんこう)というらしい>である。
私の中で四季に対する感受性や花や植物に対する愛着が生まれたのはごく最近である。
家と会社の往復、周りを見る余裕もないままに60歳まで来た感じがする。
60歳を越して一区切りがついたからなのか、周りを見渡す余裕が出来たのかもしれない。
通勤の途中の家々の庭木の花に目がとまり、散歩の間に見る花々を楽しみにするようになった。
歳を取ったからであろうか、残り少ない人生に草花の生命を見て愛おしく思うからなのだろうか。
母親は庭に花壇を作って何時も花を植えていた。百日草、ひな菊、スイトピー、スイセン、など、
晩年病に倒れ、体が弱ってきてもまだ庭に降りて、花壇の傍に座りこんで雑草を取っていた。
「いいから、草は俺が取っておいてやるから休んでいてよ」そう言っても、
母は「こうして土に触っている時が一番落ち着くのよ」そう言って、止めようとはしなかった。
もともと農家出身の母にとっては土と暮らす生活は体の中に組み込まれた本能のようなものだろう。
四季折々、変わることなく繰り返していく生命のサイクル、そんな中に自然を感じ愛おしさを感じる。
歳を取ると、人もまた自然の一部、生命のサイクルに組み込まれていることを実感するようになる。
さあ、今から四季の変化が始まる。精一杯その変化を体全体で感じてみようと思う。
梅は桜とちがって、咲き方も散り方もゆっくり、 1月上旬から咲き出すもの、
3月中旬から咲き出すものなど300種以上の品種があり、さまざまなようである。
例年近隣や散歩で梅を見るが、どこと比べてもこの公園の紅梅が一番最初に咲くように思う。
お正月から1週間してこの公園を通りかかると、ほころび始めた梅の花を見ることが出来る。
まだ外気温は冬の真っただ中なのに、もうこの寒空に紅色の花を咲かせ始めている。
時には春を感じさせる暖かい日差しの下に、時にはみぞれ交じりの冷たい雨の中で、
天候や周りの状況には全く影響されず、自分の中に組み込まれた時計に従って咲くように思える。
天候がどうあろうが、世間がどう変わろうが、人がどうもがこうが、梅にとっては何の関係もない!
そんな信念を梅の中に感じるほどである。だから私の中でこの梅が四季のスタートになっている。
この花を見る度に、「もう春になるのか?」と毎年同じ気持ちを起こさせてくれるのである。
梅が咲きはじめると、菜の花が咲き、桜が咲き、ボタンが咲く。
ツツジになり、アヤメになり、バラが咲く。やがてユリやアジサイの季節になる。
夏にはダリヤやヒマワリが暑さに負けじと咲き、秋にはコスモスやまんじゅしゃげやキクが咲く。
1年間の花暦、そのスタートが梅公園のこの梅<八重寒紅(やえかんこう)というらしい>である。
私の中で四季に対する感受性や花や植物に対する愛着が生まれたのはごく最近である。
家と会社の往復、周りを見る余裕もないままに60歳まで来た感じがする。
60歳を越して一区切りがついたからなのか、周りを見渡す余裕が出来たのかもしれない。
通勤の途中の家々の庭木の花に目がとまり、散歩の間に見る花々を楽しみにするようになった。
歳を取ったからであろうか、残り少ない人生に草花の生命を見て愛おしく思うからなのだろうか。
母親は庭に花壇を作って何時も花を植えていた。百日草、ひな菊、スイトピー、スイセン、など、
晩年病に倒れ、体が弱ってきてもまだ庭に降りて、花壇の傍に座りこんで雑草を取っていた。
「いいから、草は俺が取っておいてやるから休んでいてよ」そう言っても、
母は「こうして土に触っている時が一番落ち着くのよ」そう言って、止めようとはしなかった。
もともと農家出身の母にとっては土と暮らす生活は体の中に組み込まれた本能のようなものだろう。
四季折々、変わることなく繰り返していく生命のサイクル、そんな中に自然を感じ愛おしさを感じる。
歳を取ると、人もまた自然の一部、生命のサイクルに組み込まれていることを実感するようになる。
さあ、今から四季の変化が始まる。精一杯その変化を体全体で感じてみようと思う。
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