60歳からの眼差し

人生の最終章へ、見る物聞くもの、今何を感じるのか綴って見ようと思う。

山口の叔母

2011年02月10日 18時01分49秒 | Weblog
                          山口市 提灯祭り

日曜日山口の叔母が亡くなったという連絡が入った。日曜日がお通夜、月曜日が葬儀とのこと、
時間もなく山口まで行くのは大変なので、とりあえず生花と香典を送ることで済ますことにした。

叔母は私の母の妹で、母は3姉妹の次女、叔母は末っ子である。三姉妹が生まれ育ったのは
山口県の中央(現・周南市)で瀬戸内海に面して、山から海に広がる平地にある農家であった。
子供が女3人だったために長女に婿を取って、その後も農業を続けた。母の両親は「自分達が
味わった農業の苦労や辛さを出来るなら娘には味あわせたくない」という気持ちがあったようで、
私の母は下関へ、叔母は山口の勤め人のところに(見合いで)嫁がせたということである。

山口市に住む叔母の家には2人の男の子がいて長男が私と、次男が私の弟と同学年であった。
母と叔母は歳も近く、生活スタイルが似ていて話しが合うのか、いつも手紙や電話で連絡を取り
お互いの近況を報告し、何にごとも相談し合っていたようである。そのため私は何かと従兄弟と
比較されることが多く、子供ながらも従兄弟にライバル心のようなものを持っていたように思う。

私が小学校高学年になった頃からは、夏休みには一人で山口の叔母の家に遊びに行っていた。
家は山口市の郊外にあり、近くに五重の塔(国宝)で有名な瑠璃光寺がある。家の周りは畑で、
夏はトウモロコシ畑が広がっていた。従兄弟に逢った当初はお互いにぎこちないものの、叔母が
取り持ってくれ、いつの間に片時も離れたくないほどに仲良く遊ぶようになる。午前中は一緒に
夏休みの宿題をし、昼からは暗くなるまで外で遊びまわる。朝起きてから寝るまでトイレ以外は
全て一緒の生活が一週間以上も続く。あっという間に時が経って、下関に帰るときは従兄弟と
別れがたく、叔母になだめられながら駅まで行き、べそをかいて汽車に乗ったことを憶えている。

ある年の夏、ちょうど山口の提灯祭り(8月7日)とぶつかったことがある。それを見に従兄弟の
家族全員と街に繰り出した。山口は「西の小京都」と呼ばれるくらいで、市街は碁盤の目のような
街並みである。その家々の軒先に、大きな竹に何十という提灯を吊るす。今は提灯の中は電球だが
当時はその提灯にロウソクの灯をともしていた。灯の入った提灯の列はまさに火のトンネルと化し、
真っ直ぐな道のはるか先まで続いている。人々は浴衣を着、団扇を持ち、屋台で食べ物を買って
その灯の中をそぞろ歩く。時々ロウソクが倒れて提灯に燃え移り、赤い炎を上げて燃え始める。
その火が竹の枝を燃やし、提灯は燃え盛りながら地面に落ちていく。そのたびに女性のキャーッ
という甲高い声が聞こえ、人の波が落下地点を避けて四方に散った。七夕の夜の火のトンネル、
燃えながら落ちる提灯、幻想的なその情景は50年以上たった今も私の脳裏に焼き付いている。

従兄弟は東京で就職し、やがて東京で世帯を持った。しかし叔母夫婦はその地を離れることなく
山口で暮らし続けた。私が叔母と最後に逢ったは35年前で私の結婚式の時である。叔母夫婦は
わざわざ東京まで出向いてくれて、お祝いをしてくれた。確か叔母が50代半ばであったと思う。
その後も電話では何度も話したことはあるが、私の両親が亡くなってからは年一回の年賀状の
交換だけになってしまった。叔母は少しボケて来たので施設に入ったが、それでも元気に暮らして
いると聞いていた。風邪をこじらせ入院したが肺炎を起こし、急な容態の変化で亡くなったようだ。
享年88歳である。

私の両親が下関から新潟へ引っ越して3年後だったか、叔母の連れ合いの叔父が亡くなった。
その叔父が亡くなった時、私の父も母も葬儀には参列しなかった。それは新潟から山口まで遠く、
老齢で大変だからだろうと思っていた。その後新潟で母に逢った時、「なぜ行かなかったのか?」
と聞いたことがある。その時母が言ったのは、下関から新潟へ引っ越すとき、山口の夫婦と我々
夫婦と4人で逢ってお別れの食事をした。その時に「これからは山口と新潟と別れ別れで暮らす
ようになる。お互い歳を取って不自由になるだろうから、お互いが元気な今日のこの日を今生の
別れとして、もう逢うことは止めよう」、ということにしたそうである。
その後は電話や手紙のやり取りは欠かさず続いていたが、お互い逢うことはなかったそうである。
私の母が亡くなった時も、その後父が亡くなった時も、山口の叔母が葬儀に来ることはなかった。

母と叔母がなぜ逢うことを止めたのか?今になって思うのだが、老いさらばえていくお互いの姿を
見せたくないと思ったのかもししれない。また反対に見たくもなかったのかもしれない。そう思うと
私も葬儀に参列して、棺桶の中の叔母の姿を見たくはないと思う。山口弁で喋りながら、にっこり
笑う50代の叔母のままでいいのである。そのイメージの上に老いた叔母の死顔を上書きしたくは
無い。私の叔母に関わる記憶は、物心付いてから結婚まで、その時々の貴重な思い出なのである。
葬儀に行って現実を見るより、思い出として記憶の中で生き続けていて欲しいと思うのである。

もう少しして仕事を辞めれたとき、一人旅をして、ゆっくり故郷の下関を訪ねて見たいと思っている。
その時、山口まで足を伸ばし、どうなっているか判らないが、当時の家を訪ね、瑠璃光寺のシーン
とした雰囲気を味わい、従兄弟と遊んだ山や川を訪れてみ、最後に叔母さんのお墓に手を合わせ、
今までのお礼と冥福をお祈りしておきたいと思っている。


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