monologue
夜明けに向けて
 



ボビー・フラー・フォーはライヴバンドとしてのパフォーマンスを見せるためにその年、4月9日から初の6週間の全米ツアーに出た。しかしそのツアーの間にジェットで帰り、次のシングルThe Magic Touch のレコーディングに入った。それは当時ヒットしていたシャングリラスの曲"He Cried"を書いたTed Daryllの作品だったがボビー・フラーはかれらのバンドサウンドが変えられることに反対した。ボブ・キーンとボビー・フラーはそのことで対立してセッションの間戦い続けた。フラーはレコードの音をライヴで再現することに誇りを持っていたのにこのシングルの音はライブで出せないとわかっていたからこだわったのだ。それでキーンと新しい楽曲制作担当、のちにラブ・アンリミテッドの愛のテーマ で有名になるバリー・ホワイトはフラー抜きで新曲をミックスダウンして完成してしまったのである。

 そのシングルはとにかくかれらがツアーを終えるまでに発売された。あまりよく根回しされず薄っぺらなツアーの終わる頃には真剣にみんなでバンドの解散も話し合われた。嫌気がさしたボビーがクラブのオーナーと口争いをしてツアーの最終週をキャンセルしたあと、かれらはロサンジェルスに戻って 1966年7月10日のケーシー・ケイセムの番組「Casey Kasem's TeenDances」に出演した。それがボビー・フラー・フォーのバンドの最後の演奏になったのである。

 その頃にはいつもきれいに髭を剃っていたボビーは山羊ヒゲを生やし始めていた。かれの中でなにかが変わりつつあった。Melodyというコール名のコールガールの女友達はボビーは死亡する一週間前にかの女の家でLSDを摂ってみたという。


 ツアーから帰り家に着いたギタリスト、ジム・リース( Jim Reese )はヴェトナム派遣のの兵役告知を受け取った。バンドはとにかく解散するようだしリースは 愛車ジャガー(Jaguar XKE)をつぎのプロジェクトのためのメンバー集めに忙しいボビーに売ろうとした。

 ボブ・キーンがボビーフラーと話すために立ち寄った帰り際にボビーは1966年7月18日(月)にDel-Fiレコードの事務所でバンドのミーティングをすると告げた。ジム・リースと車の件を煮詰めることもないままボビーはそのミーティングに現れることはなかった。

 ボビー・フラーの人生はたった23年という短い一生なのでくわしく見たつもりでもこれだけである。ほとんどが音楽に打ち込んでいる日々だったようだ。

 なにがあったのかすこし見えてきた。ハリウッドの闇に生息するだれかにとって都合の良い操り人形が人生の最後でやっと意志をもって自分で動き出そうとしたのだ。ところがそれを良しとしないだれかによって元の人形に戻そうとされたように思える。今度は動かす操り糸も切れてしまってふたたび動くことはなかったのである。
fumio

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「Celebrity Night at P.J.'s」と題するアルバムがある。
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 曲目
1,I Fought the Law
2. Brown Eyed Handsome Man
3. A New Shade Of Blue
4. Let Her Dance
5. C.C. Rider
6. Anytime At All
7. My Babe/Keep A Knockin'/Long Tall Sally
8. Vamp Introduction
9 .California Sun
10. Do You Wanna Dance
11. Wooly Bully
12. Gloria
13. Oh Boy
14. Carol
15. Thunder Reef
16. High Heel Sneakers
17. Slow Down
18. Think It Over
19. Money/Shakedown
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 シングル"I Fought the Law"は1965年にボビー・フラーとそのバンドをついに全国的にした。それでまたボブ・キーンがさらなるプロモーション活動に乗り出した。その一環として「Celebrity Night at P.J.'s」というショーを企画したのである。「P.J.'s」というのは「ボビー・フラー・フォー」が演奏するクラブのひとつでかれらの本拠地であった。ハリウッドのセレブを招待して一緒に写真を撮ってライヴアルバムを出そうというのだ。そのアルバムは1965年12月3日にレコーディングされた。アン・マーグレット、ライアン・オニール、サリー・フィールド、ナンシー・シナトラ といった当時のスターたちがバンドとではなく型どおりにボビー・フラーとだけ写真を一緒に撮った。 群衆は初めは有名人とともに踊り騒いだがそれより会話に夢中になってバンドにはあまり注意を向けなくなった。プロモーションとしてはあまり成功とはいえなかったがかれらとハリウッドのショー・ビジネスの世界との関係が偲(しの)ばれるアルバムである。
fumio

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 そしてボブ・キーンはラジオ・テレビなどあらゆるメディアを使った売り出し作戦を開始した。地元放送局KRLAラジオと組んでプロモーションアルバム「KRLA King Of TheWheels,」を制作したり10代の子の層向けの
ショー番組に当時売れっ子だったナンシー・シナトラと組ませてボビーのバンドを出演させた。そのセットではボビー・フラーのバンドはだれかの歌を慣れ親しんだフェンダーではなくVOXの楽器で弾いているふりをさせられたりした。かれらはなにをさせられても「sure、sure(もちろん、もちろん)」と操り人形のように従うばかりだった。ボビーの弟 のベースプレイヤー、ランデイ・フラーは「 そうでないと知られていないバンドがKRLA ラジオや KFWBラジオでレコードを作るなんて不可能さ」と回想する。

  初めの頃のシングルは鳴かず飛ばずだったが、そんななりふりかまわぬプロモーションのおかげでかれらのシングル"Let Her Dance"はある程度ヒットしたのである。しかしつぎのシングル"Never To Be Forgotten"/"You Kiss Me" はまたこけた。もう一応名前は知られたのであとは試行錯誤で良いレコードを作りトップを目指すよりない。そうするうちにつぎにリリースしたのがかれらの最大ヒットとなる"I Fought The Law" であった。
fumio


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 ボビー・フラーの一行はロサンジェルス到着後、再訪を約束していたDel-Fiレコードのオフィスに新しいテープやレコードを持ち込んだ。ボブ・キーンはフラーの目覚ましい進歩を認めて契約を交わしDel-Fiのスタジオを使用できるようにして、かれらのためにバンドミュージックのレーベル「the Mustang Records」を創設した。そしてかれらはすぐに南カリフォルニアのクラブで演奏を始めた。すると評判を呼び滞米中のキース・リチャードやアメリカントップ40の創始者ケイシー・ケイセム やプロデユーサー、フィル・スペクターなど大物が見に来るようになったのだ。

 それまでかれのレコードはボビー・フラーの個人名でクレジットされてきたのだがボブ・キーンが「デーヴ・クラーク5」のように「ボビー・フラー4」というバンド名に決定した。いよいよ西部テキサスの若者たちがレコードをリリースしたりテレビ出演したり夢の都ハリウッドのショー・ビジネスのまっただ中に飛び込んでゆくのである。
fumio
 

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 ボビー・フラーは以前、自分のテープやシングルを持ってカリフォルニアのレコード会社を訪ねたことがあったがどこでも好感触を得られず唯一、かれを勇気づけてくれたのが Del-Fi records のボブ・キーンという人物であった。かれはボビーのテープを聴くと「エルパソに帰ってわたしを本当にノックアウトするようなものができたらもう一度おいで」と言ってくれた。ボビーは故郷に戻り必死で音楽に打ち込みレコーディングやバンド演奏の腕をあげた。かれの出すレコードは地元ではナンバー1になったが井の中の蛙はそれでは到底飽きたらずふたたび大海を目指しボブ・キーンの待っているハリウッドに向かったのだ。
fumio

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 先に進むために予備知識としてここで米国ポップミュージック・シーンにおいて重要な人物ボブ・キーン(Bob Keane )について述べておかねばならない。ウイキペディア などからかれについての記述を以下にまとめておく。
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 ボブ・キーン(Bob Keane) 本名 Robert Kuhnは1922年1月5日、カリフォルニア州ロサンジェルス市マンハッタン・ビーチで生まれた。 成長するとボブはクラリネット・プレーヤーとなり敬愛するベニー・グッドマンのようにビッグバンドを作り演奏した。1938年にグレンデール・ジュニア・カレッジで17才のとき、最初のショーを開いた。地元ロサンジェルスのラジオ局「KFWB」がキャンセルされたショーの代わりとしてそれを放送した。翌日それを聴いたMCAレコードのエージェントの電話を受けて世界一若いバンドリーダーとして契約したのである。MCAはかれが移籍したがっていると感じてキーンを1941年にレーベルから外した。かれは空軍に入ったが肺の疾患で現役を退いた。そしてロサンジェルスに戻りいくらかのバンドでクラリネットを吹いた。1950年かれは新ラジオ番組 Hank McCune Show」の指揮者としての仕事を受けた。そのときアナウンサーが名前の「Kuhn」を「Coon」のように発音するのでキーンにしたのである。

 1955年までキーンはバンドやクラブでクラリネットをプレイしていたがある夜ジョン・シアマス(John Siamas)という航空業界ビジネスマンに会った。ボブをタレントスカウト育成楽曲制作担当として「Keen Records(West Third Street・西ロサンジェルス)」というレコードレーベルを立ち上げたいというのである。

 ボブはThe Soul Stirrersというゴスペルグループで歌っているサム・クック
の"Summertime" と "You Send Me"の二曲のアセレート盤(試聴レコード)を与えられた。それですぐににサム・クックと三年契約をしてサムの名前をCookからCookeに変えた。レコードはKeen Recordsの第一弾シングルとして発売された。元々Summertime" がA面でそこそこ売れていたのだがあるDJがB面をかけた時レコードは離陸して急上昇した。1957年11月25日に You Send Meはビルボードチャートのナンバー1に輝いたのだ。

 Keen Recordsは"You Send Me"の売り上げで100万ドル以上稼いでいたに関わらずボブはこの時点ではまだシアマスと口約束をしただけであった。いつ会社ができて株券を受け取れるのかと訊くとパートナーでありつづけたいなら会社に5000ドルの投資をしなければならないという手紙がきた。それでヒット曲を出したら会社から放り出されるというトリックにはまったのだと悟った。シアマスに対する法的手続きの進行を待つ間にボブの妻がシアマスにはめられたほかの人たちにコンタクトをとってほかのレーベルを立ち上げることを提案した。レーベル名をギリシアの音楽神Delphiから名前をとって「Del-Fi Records」としたのである。

1958年、キーンはPacoimaの映画館の土曜昼演奏するリッチー・ヴァレンス
(Richard Steven Valenzuela)。Ritchie Valens)を見いだした。キーンは自分の地下室の小さなスタジオのオーデションにリッチーを招待して正式契約を交わし二人は数時間地下スタジオで数曲練り上げた。キーンはマネージャーとプロデユーサー役を務めリッチーを売り出したが"Come On Let's Go"やDonna La Bambaの両面がスマッシュヒットしたあとリッチーは1959年2月3日、ツアー中同乗していたバディ・ホリー、ビッグ・ボッパーもともに飛行機事故に遭って17才で死亡した。
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こんな略歴をもつ人物ボブ・キーンがボビー・フラー怪死事件に重要な役どころで登場してくるのである。
fumio

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 ボビー・フラー(Robert Gaston Fuller )は1942年10月22日に テキサス州グースクリーク(Goose Creek)の比較的経済的に安定した家庭で父Lawsonと母Loraineの間に生をうけた。そして1944年1月29日生まれで3才違いの弟 、ランデイ(Randy)と親の与える多くの楽器を弾いて遊んだ。ボビーは大学に入ったけれど音楽をやりたくてすぐやめて楽器店に勤めた。しばらくするとかれはドラマーとしてエルパソ中の注目を浴びていた。 そして友達の母で詞を書く「Mary Stone」と歌作りをした。弟ランデイが軍学校から帰った時、ボビーのギターなど楽器の腕前の進歩に驚くほどだった。ボビーはレコードを作りたくて、親のリビングルームで町で集めたメンバーとセッションしてメアリー・ストーンとの共作"You're In Love" とボビー自身の "Guess We'll Fall In Love"を録音した。そしてニューメキシコの「Yucca Records」が45回転シングルとして1961年のサンクスギヴィングデイに発売した。そのシングルはローカルのエルパソのラジオ局KELPでは2位になって3000枚売れた。それに勇気づけられたボビーは自分のバンドを作り弟 、ランデイをベースプレイヤーにして本格的に活動を始めたのである。

 ボビー・フラーとそのバンドは地元テキサスではレコードを出したりしてある程度活躍していたのだが、テキサスでは将来の展開が見込めないと判断して1964年11月にバンドのメンバー達は緑のシェヴィー・ヴァンに機材を積み込んで、ボビーとランディ 兄弟の母ロレイン(Loraine)の愛車オールズモビルと併走してハリウッドへと向かった。ハリウッドという巨大な誘蛾灯に惹かれスターを夢見る全米の若者たちのように。そのまぶしい灯りの下には多くの羽虫の死骸が積み重なっているのだ。遠くからは見えないけれど…。
fumio

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ネット上の多くのサイトを調べて事件の概要をもう少し詳しく見てみると、1966年7月18日月曜の暑い遅い午後、弟 のベーシスト、ランディ・フラー(Randy Fuller)とシェアしているアパートの横の大きい駐車場でかれの母の愛車オールズモビルのフロントシートに横たわるボビー・フラー(Bobby Fuller)23才の死体が発見された。


 ドアはロックされず窓は固く閉まり、車のキーは車内で発見されなかった。最初のハリウッド地区警官が到着して運転席側ドアを開けた時、フロントシート上のフラーの脇のシート上にブック状マッチがあることに気付いた。目撃証人によればフラーは顔と胸が打撃を受けたように青ずみ顎と口のまわりに乾いた血液の跡があった。かれの髪と衣服はガソリンにびしょ濡れだった。右腕はゴムチューブでまだ固く結ばれていた。

 犯罪現場捜査官たちは判断にあまりに多くの不可解な失敗をした。それはまるでなにか警察によるごまかしがあったかのように。バックシートで見つかった空のガソリン缶がそれを明らかに捜査に重要と思わない警官に取り除かれ近くのゴミ捨てに投げられた。オールズモビルは指紋検出のための粉をかけられなかった。それ以上の証拠の調査のために保存もされなかった。相反する多くの視覚的証拠にかかわらず明らかな自殺という発表を受けてラジオテレビはこの非現実な意見を最初のニュースとして世界に発信したのであった。


 ボビー・フラーの住所を調べると、1776 N. Sycamore Ave, Los Angeles, 90028のアパートでその駐車場が犯行現場であった。わたしはそのあたりをグーグルマップで見てあれっと思った。そうだったのか。この場所はスターの手形などで有名なチャイニーズ・シアターのある区画の北西の角なのだ。チャイニーズ・シアターは封切館なので新作映画が封切りされるといつも家族で見に行った。顔見知りになったドアマンが息子に風船をくれたりした。チャイニーズ・シアターの向かいのビルのスタジオでわたしはSFのアルバム「プロセス」をレコーディングしたのであのあたりはなじみが深いのである。土地勘があるのでなつかしい気持もわいてくる。
たった23才のロックスターがなにに巻き込まれてこんな不可解な死に方をしたのだろうか。この人工の闇の向こうにかすかに点滅する光りを求めてゆこう。ボビーが手招きしているようだ。
fumio

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ウイキペディア からボビー・フラーの死についての記載部分を抜き出して以下に和訳しておく。
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"I Fought The Law"がトップ10ヒットになったすぐあと、ボビー・フラーはかれのロサンジェルスの家の近くに停めていた車の中で死亡して発見された。警察はその死を明らかな自死事故と考えた。しかしながら人々はフラーが殺されたと信じている。捜査は初めからやり損なった。現場は保たれず指紋は採取されなかった。ある証人は警官が現場で見つけたガソリン缶をゴミ箱に放り込むのを見たと申し立てた。加害者たちが車を燃やす前に逃走したと人々が推測するようにフラーは全身に複数の傷を負いガソリンをかぶって発見された。警察はのちに死因を犯罪の証拠がないとして「不慮の窒息」と変更した。公式死亡原因が当局から発表されたにかかわらず噂と憶測がフラーの怪死を取り囲んだ。

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 ということである。高校時代はこんなことはまったく知らなかったけれどなにか変だ。この事件の裏にはなにが隠されているのだろうか。むづかしいだろうけれど調べてみる価値があるかもしれない。
fumio


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 Pop Idol in the UKを皮切りにアメリカンアイドル(American Idol) Australian Idol, Canadian Idol,など全世界のアイドル発掘番組の仕掛け人として今をときめくサイモン・フラー(Simon Fuller)のフラーという名前を見てふとボビー・フラーのことを思い出した。1966年 FEBRUARY 26,付けキャッシュボックス(CASH BOX)誌 Top 100 Singlesをチェックすると以下のようであった。
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1 THESE BOOTS ARE MADE FOR WALKIN’ Nancy Sinatra
2 THE BALLAD OF THE GREEN BERETS SSgt. Barry Sadler
3 LIGHTNIN’ STRIKES   Lou Christie
4 UPTIGHT (Everything’s Alright) Stevie Wonder
5 MY WORLD IS EMPTY WITHOUT YOU Supremes
6 MY LOVE Petula Clark
7 LISTEN PEOPLE Herman’s Hermits
8 CALIFORNIA DREAMIN’ Mama’s & The Papa’s
9 DON’T MESS WITH BILL Marvelettes
10 WORKING MY WAY BACK TO YOU 4 Seasons
11 CRYING TIME Ray Charles
12 ELUSIVE BUTTERFLY Bob Lind
13 BARBARA ANN Beach Boys
14 AT THE SCENE Dave Clark Five
15 I FOUGHT THE LAW Bobby Fuller Four

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 この週ボビー・フラーのバンドのI FOUGHT THE LAW が15位に上がってきていた。そして翌週にはトップ10に入った。それはバディ・ホリー風のシンプルなロックで大好きだった。ところが売り出し中のそのボビー・フラーが1966年7月18日にロサンジェルスの自宅の車のところで怪死を遂げたというニユースが流れたのである。高校生のわたしはその時、そうか死んだのかとだけ思った。それが事件だったのか事故だったのかにも関心がなかった。ところがなぜか今頃、本当になにがあったのか知りたくなったのである。
fumio

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