monologue
夜明けに向けて
 




95/04/13 開かずの扉、残るは3つ。萬灯を掲げて百鬼夜行の列は進む‥
93/09/14 「ち」は血と智を地に結び、麒麟の吐息は荒波に繋がれる…
95/10/15 三重に守られた聖柩は、地と血とチによって封印が解かれる

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聖柩の地として
「こんぴら船々 追風(おいて)に帆かけて シュラシュシュシュ
まわれば 四国は 讃州那珂の郡 象頭山 金毘羅大権現 一度まわれば」との民謡で有名な金刀比羅宮を検証する。


『大物主を主祭神とする金刀比羅宮の金毘羅は、
梵語のクンビーラの音訳で、元来ガンジス川に棲む鰐の神格化された神で、
インドでは仏教の守護神とされていた。
尊師十二神将の一つにも加えられ、
宮毘羅大将または金毘羅童子がそれだともいわれる。
こうした信仰から金毘羅神が松尾寺の総鎮守とされたのであった。
そして金毘羅は金毘羅大権現と権現号を用い、さらに大物主を金毘羅神
として崇め、主祭神としたのであった。
それは金毘羅の治績と大物主の治績の伝承がきわめて類似していることにもよるし、
金毘羅はマハカーラすなわち大黒天という信仰から大物主神
すなわ大国主神と同一視した信仰がもとになっている。
また金毘羅の宮殿は王舎城外宮毘羅山にあったというので、
それを訳すと象頭山となることから、後世それに因んで
金毘羅鎮座の松尾山を象頭山と称することになったという。

象頭山は讃岐平野にくっきり姿をみせ、
その山容と神秘的な叢林は、人々をして神霊の棲む山としての意識をよびおこさせた。
人々はこの山をお山と呼び、霊山として
崇め、また神体山としての山の奥には禁足地を伝承している。
この山に鎮まる祖霊はときに山の神として、
また水の神田の神ともなって、山麓の農耕を見守ってくれると信じた。
したがって、象頭山には竜王が存在するとして竜王社を祀り、
水分(みくまり)の神としての性格をあわせもつと信じられた。
また、この山に棲む祖霊の火が心意的な航海の目安として古くから意識され、
海上で遭難したときは金毘羅大権現の名を口に唱え、毛髪を切ったり、
持物を海中に投げこめば難を免れるといい、
暗夜に船の行先がわからなくなったときは、この神を念ずるときっと一かたまりの火が
現われ、
それを目安にして漕いで行けば
無事に着岸できると信じられた。
この火がほかならぬ祖霊の火であった。
そして、瀬戸内海を航行する船にとって、象頭山は山アテに恰好の山であった。
こうしたところから、祭神の大物主神が海上示現の神であることもあいまって、
瀬戸内海の航行がにわかに活発になってくる江戸時代の中頃から、
航海の守護神としての金毘羅信仰が隆盛になり、海運業者・船乗り・漁民の信者が多く
なった。
高灯篭もこうした山アテの現実化した所産で、
海上航行の目安となる灯台の役割を果たす意味をもったのであろう。
この高灯篭は古くからの航海神である摂津住吉の高灯篭と並び称されるものである。』
(岩井宏実いわい ひろみ 国立歴史民俗博物館 教授)
別冊太陽NO.68WINTER'89『日本の神』より抜粋

ウイキペディアをみると
所在地
香川県仲多度郡琴平町字川西892番地1

主祭神
大物主命
(相殿)崇徳天皇

由緒
「金刀比羅宮の由緒については二つの説がある。一つは、大物主命が象頭山に行宮を営んだ跡を祭った琴平神社から始まり、中世以降に本地垂迹説により仏教の金毘羅と習合して金毘羅大権現と称したとするものである。もう一つは、もともと象頭山にあった真言宗の松尾寺に金毘羅が鎮守神として祀られており、大宝年間に修験道の役小角(神変大菩薩)が象頭山に登った際に天竺毘比羅霊鷲山(象頭山)に住する護法善神金毘羅の神験に遭ったのが開山の縁起との伝承から、これが金毘羅大権現になったとする。
明治以降
明治元年(1868年)の神仏分離令で金刀比羅宮と改称して神道の神社になり、主祭神の名は大物主神と定められ、相殿(あいどの)に崇徳天皇を祀った」ということである。

主祭神も大物主命ということで隠されているわけではない。
ここまでのところ別に封印らしきものが見当たらない。もしかしたらそれが開かずの扉になっている理由かも…。
ところでコンピラさんになぜ金刀比羅宮という大げさな当て字を使用しているのか…。すこし気になる。
fumio

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