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2006年11月3日午前1時、フランスの作曲家、指揮者兼ピアニストでイージーリスニング界の第一人者,ポール・モーリア(Paul Mauriat)が、。急性白血病による心不全のため逝去したと聞いて その代表曲に『アイ・ウィル・フォロー・ヒム』があることを初めて知って驚いた。それはわたしがキャッシュ・ボックス誌の全米ベスト10を聴き始めた頃、1963年May 4からMay 18まで1位を続けたあの名曲だ。あの時、さすがにアメリカの歌はいいな、と思っていたが実はかれの曲だったのだ。ヨーロッパで流行っていたイタリア語バージョンの「愛のシャリオ(Chariot )」 を聴いて大好きになった時、それはリトル・ペギー・マーチの『アイ・ウィル・フォロー・ヒム』のカバー曲だろうと思い込んでいたのだが逆だった。高校時代から作者が亡くなるまでのずいぶん長い間思い違いしていた。だれにともなく気恥ずかしかった。
14才でデビューし15才で全米1位に輝いたリトル・ペギー・マーチは人気絶頂の頃、日本をターゲットに来日して日本語で多くの歌を歌った。そのレコーディングにつき合った日本のディレクターと恋が芽生えて別れてアメリカに帰るとき大泣きしたという伝説がある。そのころ、リトル・ペギー・マーチは名前からリトルがとれて恋する乙女ペギー・マーチに成長していたのだ。『アイ・ウィル・フォロー・ヒム』とばかりに日本に残っていれば劇的で歌のままだったのに…、と無責任なことを思ったりしたものだった。
fumio
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1963年4月、洋楽などあまり知らなかったわたしは高校に入ってレンズの厚い眼鏡をかけたカエルというあだ名のクラスメイトに洋楽のランキングというものがあると聞き小島正雄さんのやっていた「9500万人のポピュラー・リクエスト」という番組で発表されるキャッシュ・ボックス誌の全米ベスト10を聴き始めた。家族と別の部屋で毎週発表される1位の曲を聴いてベスト10をノートにつけるのが楽しみになった。
Little Peggy Marchの 「I Will Follow Him」がMay 4からMay 18まで1位を続け、June 1からはLesley Gore の It’s My Party が2週1位になった。さすがにアメリカの歌はいいな、と思っていると次の週には、June 15日付けキャッシュ・ボックス誌第1位、Sukiyaki - Kyu Sakamotoと読み上げられた。驚きかつ感動的だった。全米ナンバー1の曲としてSukiyaki 上を向いて歩こうを聴くのはうれしいようなくすぐったいようななんとも表現のしがたい感慨があるものだった。それから June 29 まで三回そんな胸が熱くなる感覚を味わった。
渡米した坂本九はSteve Allenの司会する Tonight show で落語の「隣の空き地に囲いができたってね」「へー」を「垣根ができたってね」と言って通訳を困らせていたがとにかく親しみやすい人柄が受けていた。
高校時代のノートを見ると坂本九のアメリカでのヒットはSukiyakiだけではなくSeptember 7には第2弾の「China night」が57位に入っている。なぜかれの曲でもない「支那の夜」を出したのか不可解だがそれ以外の曲ならもっとヒットしていたかも…。
fumio
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わたしが高校時代一番影響を受けた曲は今は洋楽ファンに忘れられあまり耳にすることのないFriend And LoverのReach Out Of The Darkness だった。中学生から高校生になってしばらくはまだ家にはラジオしかなくレコードプレーヤーさえもなかった。友達の家でレコードを聴かせてもらうしかなかった。それはべつに不満ではなく当たり前の時代だった。やっとステレオを買ってもらってまともな音の音楽を聴けるようになったある日FMの音楽番組で聴いたこの曲になぜか感動した。オープンリールのテープレコーダーに収録して、歌詞をはっきり聞き取るほどの英語力はなかったが
「I think it's wonderful and how
That people are finally getting together
Reach out in the darkness
Reach out in the darkness
Reach out in the darkness
And you may find a friend」
というフレイズをくりかえしくりかえし聴いた。数十年を経た今も魂はかわらない。ただそのために生きているように感じている。
fumio
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あのブリティッシュ・インヴェィジョンの嵐の中で特筆すべきなのはハーマンズ・ハーミッツ(Herman's Hermits)である。これはかれらがデビュー曲 I'm Into Something Good を 映画「ポップ・ギア」で演奏してる場面だが今の眼で見るとどこがそれほど良かったのかわらないけれどハーマンことヴォーカルのピーター・ヌーンの愛くるしさにアイドル的な人気が集中して発表する曲が全米ヒットチャートで次から次へと首位に輝いたのだ。わたしは当時、高校生で京都会館にかれらの日本公演を観に行ったことがあった。バック・バンドなしで自分達だけで演奏をしていた。伴奏にバンジョーをフィーチャーした大ヒット曲、 Mrs. Brown you've got a lovely daughter でもレコードとかわらない音を出していたのでただのアイドル・ポップグループではなく演奏能力もある実力派なんだと感心したものだった。それでもやはり数年すると消え去ってしまった。仕方のないことだがピーターの見かけがオジサンくさくなったことが原因だったのだろう。アイドルたちは年を取ったとき真価が問われる。
fumio
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昨年(2008年)2月28日にマイク・スミスが肺炎で亡くなったと聞いたとき、そういえばディヴ・クラーク・ファイヴについてはなぜかあまり語られることがなくマイク・スミスといってもあまり知られていないのに気がついたのでちょっと書いておこう。ディヴ・クラーク・ファイヴは第一次ブリティッシュ・インヴェィジョンの中核をビートルズとともに担っていた。マイク・スミスはそのヴォーカル兼オルガン奏者だった。
1964年、ビートルズがI Want To Hold Your Handの爆発的ヒットででキャッシュボックス誌の首位を独走中のFebruary15日号でディヴ・クラーク・ファイヴは追走するように71位にデビューシングル. GLAD ALL OVER をまず送り込んだ。それから立て続けにヒットチャートを賑わし時代の寵児となったのだ。わたしたちにとってかれらの一番の魅力はマイク・スミスの迫力あるヴォーカルだった。ロックヴォーカリストを目指す若者たちはこぞって Do You Love Me にみられるようなマイク・スミスのシャウト唱法を手本に稽古したものだった。
しかし、そのブリティッシュ・インヴェィジョンの熱狂の時代が過ぎると他のグループほどディヴ・クラーク・ファイヴは話題にのぼらなくなった。わずかに名曲として評価されているBecause だけがディヴ・クラーク・ファイヴの名を今に留めている。
なにが問題だったのか。残念ながらかれらは優等生すぎたのだ。スターが持つべきいやらしさが欠如していたためにプレスリーやローリングストーンズが揉めたエド・サリバン・ショーでも紳士的とほめられ、その時だけまわりにもてはやされた。時代を超えるためには識者が眉をひそめるなにかが必要なのである。善だけでは残らない。いやらしさ、くささに人は惹かれる。最近のCMのオールデイズ ブームでかれらのヒット曲が採り上げられて再評価される日は来るのだろうか。
fumio
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なにかが終わればなにかが始まる。終わらないと始まれない。ありとあらゆるところでそんな仕組みが機能している。
妻は1997年(平成9年)11月に入社して10数年勤めたソニックシティビル内にあったオフィスを4月6日までで解約して大宮駅の東にあるビジョナリーⅢビルに移転した。7日、8日と朝5時に起きて出社し荷物備品の般入整理、パソコン、電気ケーブル接続設定などに追われたがなんとか準備を完了して本日より新事務所で営業を始めることができた。ソニックシティビルは閑静なオフィス街にあったが今度は繁華街なので渋谷、新宿の宝飾店長時代を思い出すという。住宅業界も生き残りをかけてさまざまに動いてゆかなければ…。
fumio
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、このごろビールのCMにSpencer Davis Groupの Gimme Some Lovin が使用されて思わず耳をそばだててしまう。ターゲットはブリティッシュ・インヴェージョンを目のあたりにしたわたしたちの世代なのだろうか。その先鋒となった 映画「ポップ・ギア」に登場したスペンサー・デイヴィス・グループのスティーヴ・ウィンウッドは当時まだ16才というのにすごいリズムアンドブルース・フィーリングを持っていて驚いた。「キープ・オン・ラニング」「サムバディ・ヘルプ・ミー」「ギミ・サム・ラヴィン」と立て続けに英国で1位を記録したのもうなづけた。映画「ポップ・ギア」にはビートルズのライヴ映像が収録され、そしてアニマルズ、ハーマンズ・ハーミッツ、ハニーカムズ、ロッキンベリーズ、マット・モンロー、フレディ・アンド・ドリーマーズなどなど有名無名を問わず目白押しで出演していて世界と日本ポップス音楽界に大影響を与えた。観に行った一般の観客はまわりのうるささに閉口したことだろう。
なぜならバンド関係者たちが何度も何度も見て歌詞を覚えて映画の上映中に映画に合わせて一緒に歌い映画そのものをカラオケとして使ったのだから。かれらのうちから多くのプロミュージッシャンが生まれたことだろう。それは必死で新しいものを取り入れようとした日本のロックの黎明期のヒトコマだった。
fumio
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意外かも知れないがわたしが日本で一番好きな唄は河内音頭である。あれはいつだったか。町内の盆踊りに江州音頭の一座が来たことがあった。主人公の旅物語風に唄は進み途中「大漁唄い込み」も挟んでかっこいいな、と感心したものだった。後年その江州音頭から派生した河内音頭が流行り鉄砲光三郎のシングル 河内音頭が100万枚を超すヒットを記録したことがあった。わたしの母の妹の嫁ぎ先依田家の叔父、依田義賢 が脚本を書いた映画「悪名」シリーズに勝新太郎演ずる八尾の朝吉親分が鉄砲光三郎の太鼓で河内音頭を唄う場面があった。
わたしは残念ながらこの唄を人前で唄ったことがない。日本に帰って入った劇団の舞台で「大漁唄い込み」を劇中歌として唄ったことはあった。怪我をせずにもっと役者を続けていられれば「河内音頭」も唄う機会があったかもしれない。
fumio
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ある時、今度ガーデナに店を出すのでエンターティナーを週に1日やってほしいと頼まれた。ピアノやギターの弾き語りはエンターティナーと呼ばれている。
ガーデナはロサンジェルスの南で日本人が多い町。約束の日に行くとそのクラブのママが上海帰りのリル をリクエストした。わたしが歌い終わると「この歌は実話 なの。わたしの家は銀座で店をやっていてリルが働いてたの」という。真偽はわからずそんなものかと思った。歌詞に夢の四馬路(スマロ)が出てくるところをみるとリルは上海の四馬路(現在の福州路)あたりの茶館や妓楼で働いていた女性のようだ。そこで生まれた恋物語を歌にしてヒットしたらしい。するとママの旦那が来て当時のヒット曲を歌本から5曲ほどみつくろってリクエストする。わたしは聴いたことのない歌の譜面を初見で歌った。するとチップをはずんでくれる。それからその店に行くたびにわたしが知らないかれらの青春期の歌をリクエストするようになった。わたしは油汗を流して戦後しばらくの全然知らない歌を感情を入れることもできずなんとかごまかし歌うのだった。
そしてある日、店に行くとドアに「このたび事情によって閉店することになりました」との貼り紙があった。繁盛することもなくそれで終わりだった。あのママは「ガーデナ帰りのママ」としてどこかの店に入ったのだろうか。
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英文法といえば、fishは単複同形で複数でもsをつけてはいけない。と習った。それで思い出す のは以前バンドのレパートリーにしていたthree dog nightの大ヒット曲joy to the world だった。
「預言者エレミア(Jeremiah)はガマ蛙だった」で始まるおかしな歌詞で大好きだったが、コーラス部分は「joy to the fishes」とfishにsをつけている。先生に言おうと 思ったが答えにくい質問をすると教師の美しい眉がまた険しくなりそうでやめた。
そしてjoy to the world の作者は文法的に間違ったわけではなく、わざと子供たちもみんな一緒に歌うようにfishesとしているのだと気付いた。法則に縛られてガチガチにならずはしゃいで楽しもうと…。正しければ良いわけではない。もっと大切なことがある。
fumio
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わたしが渡米する前、バンド仲間の間でドゥービー・ブラザース ブームが吹き荒れていた。ギタリスト達はトム・ジョンストンのあの乾いたタイトな突っ走るようなロックフィーリング溢れるリズムカッティングをコピーしようとしたがうまくゆかずそれを日本の湿った空気のせいにしたりしてごまかしていた。
ある日、ロサンジェルスの語学学校の文法の授業でmusicには冠詞をつけてはいけない、と習った。それでわたしは「ドゥービー・ブラザース のリッスン・トゥ・ザ・ミュージック Listen To The Music のtheはどうなのですか。定冠詞theをつけているじゃないですか」と尋ねた。
すると美人教師は明らかに困ってうろたえて「fumio、あなたは、いつも歌を引き合いに出してあれこれいうけれど歌は文法的に間違っていることが多いから歌でばかり英語を覚えるのはよくないわ」と怒りだした。リッスン・トゥ・ミュージックが文法的には正しくとも「ウォウォー・リッスン・トゥ・ミュージック」とザを抜いて」歌うとなにか間が抜けているように感じたものだった。正しいからといって良いとは限らないことが世の中には多い。
fumio
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「ルシファーおよびサタンとはなにか?」
こんな質問がアリオンに発されたことがある。
それに対しての答えは以下のようであった。
「ルシファーはミカエル・ガブリエル・ラファエル・オウリエルと共に地球にやってきた神霊の一人で非常に繊細で情にもろく、優しい、決してルシファーは敵では無い。単に陰のエネルギーを扱っているだけだ。サタンとは人間の作った名称で負の方向の力の場の全体的名称。」
そして他のところでは「知っての通り、ミカエルの兄弟であるルシフェルは共に在り続ける存在だ。あなたがたの知識の上ではルシフェルは、光り輝く者としての扱いを受けてはいないようだが、宇宙に遍在するエナジィとしての扱いは『光り輝く者』である。」とも述べている。
そのルシファーあるいはルシフェルがサイトソラノトリ を立ち上げている。封印が解けて鬼達が時代を開くために動き始めたのである。時は満ちた。心して生きねば…。
fumio
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