風をうけて vol.3

お引越ししてまいりました。
拙いブログですがよろしくお願いします。

「和」

2011-07-30 19:40:34 | 日記・エッセイ・コラム

2011_07260009 駅前にある病院に

今、母が入院をしている。

昨年もちょうどこの時期、

この同じ病院に入院していた。

今日はこの街の「八坂祭り」、

通称「深谷まつり」である。

大音量での音楽に

派手な衣装を身にまとった

大勢の集団が同じ振り付けで舞っていた。

いわゆる「よさこい」の舞なのだろう。

巨大な応援旗(?)の元、皆が生き生きと乱舞する姿を今年も昨年と同様に

そして同じこの病室の窓越しからぼんやり見つめている。

帰り際、同じ病棟から洗濯物が入っていると思われる紙袋を提げた

私と同年代であろう女性とエレベーターで一緒になった。

2011_07260052 年齢や病棟から詮索すれば、

やはり私と同じ様な

境遇なのだろう。

お互いに思うところがあるのか、

沈黙の中で

階を表す数字だけを

見つめている。

エレベーターを出て、

受付でいつものように駐車券を受け取り、

自動ドアが開いたとたん、その世界が一転した。

玄関脇の道路はお祭りの会場となっており、傍目にも熱気で溢れている。

私の前をその女性が出て行くのだが、その雑踏とした通りをちらりと

見ただけで、ややうつむき加減に別の方向へ歩いていった。

当然、私もそんな祭りの人込みに向かう気にはなれず、

それでも写真でも撮っておけばブログのネタにでもなるかなとは思いつつ、

やはりどうしてもそこには足が向かない。

きっとあの女性もそんな心持だったのだろう。

家族に病人がいると言うのは、そういうものだ。

2011_07260015 「八坂祭り」

詳しい事は分からないが、

この八坂神社の起源をたどれば

仏教と深い関係にあるらしい。

祇園精舎、要するに釈迦の教えの

為の道場を祇園の杜としたらしい。

その後、江戸末期(?)に

神仏分離令なるものが発令され、

祇園の杜は八坂神社と名前を変えたのだそうだ。

事実、この八坂祭り、別名を「祇園祭」とも言う。

そういえば、我が地元のお祭りを昔の人達は「おぎおん」と言っていたのを

思い出す。

しかし、意地悪く、不純な人間、そう私などがそんな謂れを聞けば

先ず最初に頭に浮かんでしまうのが「神も仏もない・・・」と言う言葉。

その上、「こんな時に・・・うるさいなぁ」などと、

いじけた人間の心理とはそんなもの。

しかし、冷静によくよく考えてみれば、実はこういう時こそ

本当の願をかけるものではないかと。

本来の祭りの意味も、場違いだなと思う前に、

実はこういう時こその物だったのじゃないかと自分勝手に解釈する。

そう思えば、あの騒ぎも、人々の狂喜する姿も、大音量の音楽も

受け入れる事ができる。

でなければ辛すぎる時間。

2011_07260020_2 人の気持ちとは皆一緒じゃない。

だからこそ、

その気持ちをひとつにする為に

お祭りでの掛け声が

和を背負う(しょう)と言う意味で、

「ワッショイ、ワッショイ」となったと

神職が仰っていた。

そう、お祭りとは元来そう言うものなのだ。

だからこそ我が家、入院している方のいるご家族、

そして力を合わせ乗り越える事が今、必要だと思う人々にこそ本当は

お祭りが必要であり、そして「ワッショイ、ワッショイ」こそが

救われる道だと思うのは、あまりに飛躍しすぎた考えであろうか。

夕暮れに光る神輿の煌びやかな姿を見て、そう思った。

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「幸せ」のかたち その2 ~atelier PRINCESSより~

2011-07-22 19:01:24 | 日記・エッセイ・コラム

2011_07110002 例えば、紅茶を飲む。

そこにはカップと、スプーン。

そして時には少し部屋を暗くし、

洒落たステンド風のホルダーに

アロマのキャンドル。

揺らめくあかりの中に

流れる香り。

なんと心落ち着く時間。

例えば朝食の時。

少しだけ贅沢な箸にお気に入りの茶碗。

そして透き通るような釉薬のかかった手触りの良い焼きの器で

お茶をすする。

一日の始めとしてふさわしい風景。

2011_07110015_3 普段の暮らしの中で、

ほんの少しだけ

こだわったモノで

さりげなくその場を演出する。

おしゃれと言うのには

あまりに自然で

無意識の中でそうしたモノを

得たいという願望は

誰にもあるのではないだろうか。

心を落ち着かせ、次への活力を得る為に欠かせないそんなモノが

活躍しなければならない、そんな時代でもあるのだから。

それは決して高価なモノでなくて良よい。

2011_07200023_3 目で見て気に入り、

手に取って惚れ、

その感触と感覚が心をくすぐる。

そういったモノに囲まれ、

暮らす「幸せ」

何とも有意義な時間ではないだろうか。

仕事に削られ、

世間にすり減らされる毎日。

それだけに本来の自分の空間はそういったモノによって肉付けられ、

豊かな心を復活させ、腹の底から息を抜くためには絶対に不可欠なアイテム。

そんな宝物のようなモノを提供してくださるお店をオープンした方がいる。

きょんさん、チェリーさんご夫妻。

ご存知の方は多いと思うが、同じ甘党メンバーで、時に一緒に走る仲間だ。

そんなお店に何度か伺ってみた。

元来、私はこの手のお店が好きで、周囲を気にしなければ何時間いても

飽きる事はない。

ただ、女性客の多いこの手のお店である。

やはりそこには女性向の商品が多く、長居をしているとさすがに気が引ける。

2011_07200024 が、店主が知り合いとなれば

そこは話が違ってくる。

もちろん走る仲間故、

走る事の会話が多くなるのは

当たり前のことなのだが

商品に関する薀蓄や

思い入れなど聞いていると、

本当に羨ましく、ついつい長居をしてしまう。

もちろん、そんなお話をする時のきょんさんの目が一段と輝くのは

言うまでもない。

きっと私同様、そのようなモノが好きで好きで仕方ないのだろう。

まさに夢の実現と言ったところで、だからこそ商品に対する思い入れは

半端ではないとも思う。

元々、商店と言うものはそういう方が商品を扱うからこそ、その店の味が出て

そこに客として通う人は次第にその店に引き込まれてゆく。

店主の人間性がいわゆるひとつの売り物として、客の心に焼き付き

同じ世界、同じ感覚を手に入れたくなると言うもの。

言わば、店主そのものが商品であると言っても過言ではない気がするのだ。

2011_07200025 そんな素敵なきょんさんと

チェリーさんのお店。

見ているだけで

自然と微笑んでしまうモノ。

手に取って頬ずりを

したくなるようなモノ。

「ハァ~」と溜息が

出てしまうモノ。

さまざまな興味深い商品が並ぶ店、atelier PRINCESS

お近くの方なら一度足を運んでみてはどうだろうか。

きっと今までと違った「幸せ」のかたちを手に入れられること請け合いである。

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「幸せ」のかたち その1 ~三銃士を想って~

2011-07-22 18:13:13 | 日記・エッセイ・コラム

2011_07200022_2幸せ」と言う言葉を

手持ちの辞書で調べてみると

①幸運・幸福

②運命・巡り合わせ

と、ある。

この頃、その「幸せ」と言う言葉に

敏感に反応してしまう。

それと言うのも

私の周りにそんな言葉がとても似合う方々が続々と現れ始めたからなのである。

「幸せ」とは、誰しもが羨むような恵まれた運にかち合う事だけを言うのではなく、

どんな境遇においても、どんな些細な出来事であっても、それを幸運と思えば

それは幸せと言う事になる。

特に私位の歳になれば、そう特別な出来事が表れる事もなく

例えば、湿度も低く、気温も過ごしやすい日が、夏のある日にやってきただけでも

なんだか「幸せ」と感じてしまうものだ。

2011_07110001 こうしたものは

私の辞書にある

「幸せ」と言う意味には

かけ離れたものだが、

そんなことではなく

そのまま辞書にあるような

運命・巡り合わせで

周りの者にまで

幸運や幸福のお裾分けをくださるような、そんな人達の出現。

しかも、それが元トリオを組んで共に走った友人達であるのだから

尚の事嬉しいものである。

思い起こせば二年前、場所は例の「安政遠足侍マラソン」

三銃士と銘打ってそろいの衣装に身を包み、あの軽井沢の山まで

一緒に走った仲間。

そのお二人の近況がである。

多くの方がご存知であるように、一生の伴侶と出会い

めでたく御結婚なされたCさん。

また、素敵な恋人と出会い、羨ましいほどの笑顔を見せてくれているAさん。

本当に嬉しい限りだ。

同士としてこれ程「幸せ」に思うこともない。

心から祝福の言葉を送りたいと思うと共に、

あの大会を一緒に走って本当に良かったと思えるこの頃だ。

2011_07110035 さて、先にも書いたように

私の些細な「幸せ」なのだが、

今、わりと自由な時間を得ている。

普通の方にとっては

それ位はなんでもない事で、

そんな事を「幸せ」と呼ぶには

あまりにも大げさで

馬鹿げていると思われても

仕方ないくらい平凡な事。

しかし、それまでの自分がいかに束縛されていたかの裏返しであって、

自由な時間がどれ程ありがたいものかを実感している最中なのだ。

慣れてしまえば退屈なものであるかも知れない、何もしなくて良い時間。

これは思っている以上に貴重な時間なのである。

「あれをやらねば・・・」、「これは今日のうちに・・・」、

毎日そんなことの繰り返し。

正直、きつかった。

その時は思ってもいないし、意識の中にストレスとして存在しなかったストレスが

身体を蝕んでいるのに、それさえも否定し、押しつぶそうと必死に生きる毎日。

今もその身体に異常に開放されることはないが、

「幸せ」と感じる時間が多くなるほど、その苦しみは、

浄化されていくような気がする。

そしてもう少し頂ける予定の、「幸せ」な時間。

2010_11070022_4 「幸せ」

三銃士のそれぞれが手に入れた「幸せ」である。

「幸せ」に大小はないとは思うが、

他の方に比べ、

自分のあまりにささやかな「幸せ」に

苦笑してしまう自分。

が、その笑みに曇りはない。

さあ、明日は何をしようか。

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「バランス」

2011-07-08 13:33:57 | 日記・エッセイ・コラム

2011_06190033 「よ~し、今日は書くぞ~!」

そんな事を思ってパソコンに

向かう日に限って

ろくなものは書けない。

いや、そうじゃなくっても

大差はないのだけれど・・・。

今日は7月の7日。

彦星と織姫の恋物語の日。

年に一度のこの日、無事に再会となったのだろうか。

神話、伝説、おとぎ話の事とは言え、気になってしまう。

残念ながら天の川が見えるほどの夜空は期待できないこの頃の季節なのだが

もし雨が降り、天の川が増水し渡れなくなったとしても

水鳥が責任を持って渡してくれるそうなので、

私共の心配は余計なお世話らしいのだが。

そんな事を思っていると大好きなプラネタリウムでもゆっくり観に行きたい

気分にもなってしまうものだ。

それにしても今年は雨が降らない。

例年、七夕の時期は梅雨の終わりの頃で、大雨にたたられる事が多い。

しかし、今は梅雨の中休みだとかで、予報でも雨の降る気配さえ

報じられていない。

2011_07040006 そうなると中休みどころか、

大型連休真っ只中と言う感じで

このまま梅雨明けとなってしまっても

決しておかしくない。

連日の30度を超える気温、

まだ7月の初旬だと言うのに・・・。

昨年も確かに暑かったが、

今年はその暑さが

早い時期から始まってしまった。

既に食欲不振に陥りそうで、昨年始めて体験した夏痩せの症状が

今年は早くも出始めている。

昨今のダイエットブームでは、一般的に痩せて健康になるようなイメージを

抱かせるのだが、良く考えてみれば、痩せる事を良しとすることは

本来間違っているように思う。

こころとからだはバランスをとって成り立っている。

体重減少によりこのバランスが崩れた時、こころ側に傾くか、

あるいはからだ側に傾くか、どちらにしても不安定な状態となる。

昨年はその調整に随分てこずった。

2011_06190024 今年はそんな経験があるだけに

何とか上手くバランスを取れるよう

今から覚悟はしているのだが、

本来痩せる事事態に問題であって

バランス云々は

考えるべき事ではないのだ。

が、食べたくないものは食べたくない。

特に固いもの、口内にいつまでも残るものは

本当に避けたい気分。

よって、麺類ばかりを好み、そしてアルコール飲料でエネルギーを補う生活。

う~ん、いかん!

何とかせねばならんが、どうにもならない複雑な状況である。

今年も体重計とにらめっこの続く夏となりそうだ。

(やっぱりろくなものにならなかったね 笑)

コメント (7)
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