今、母が入院をしている。
昨年もちょうどこの時期、
この同じ病院に入院していた。
今日はこの街の「八坂祭り」、
通称「深谷まつり」である。
大音量での音楽に
派手な衣装を身にまとった
大勢の集団が同じ振り付けで舞っていた。
いわゆる「よさこい」の舞なのだろう。
巨大な応援旗(?)の元、皆が生き生きと乱舞する姿を今年も昨年と同様に
そして同じこの病室の窓越しからぼんやり見つめている。
帰り際、同じ病棟から洗濯物が入っていると思われる紙袋を提げた
私と同年代であろう女性とエレベーターで一緒になった。
やはり私と同じ様な
境遇なのだろう。
お互いに思うところがあるのか、
沈黙の中で
階を表す数字だけを
見つめている。
エレベーターを出て、
受付でいつものように駐車券を受け取り、
自動ドアが開いたとたん、その世界が一転した。
玄関脇の道路はお祭りの会場となっており、傍目にも熱気で溢れている。
私の前をその女性が出て行くのだが、その雑踏とした通りをちらりと
見ただけで、ややうつむき加減に別の方向へ歩いていった。
当然、私もそんな祭りの人込みに向かう気にはなれず、
それでも写真でも撮っておけばブログのネタにでもなるかなとは思いつつ、
やはりどうしてもそこには足が向かない。
きっとあの女性もそんな心持だったのだろう。
家族に病人がいると言うのは、そういうものだ。
詳しい事は分からないが、
この八坂神社の起源をたどれば
仏教と深い関係にあるらしい。
祇園精舎、要するに釈迦の教えの
為の道場を祇園の杜としたらしい。
その後、江戸末期(?)に
神仏分離令なるものが発令され、
祇園の杜は八坂神社と名前を変えたのだそうだ。
事実、この八坂祭り、別名を「祇園祭」とも言う。
そういえば、我が地元のお祭りを昔の人達は「おぎおん」と言っていたのを
思い出す。
しかし、意地悪く、不純な人間、そう私などがそんな謂れを聞けば
先ず最初に頭に浮かんでしまうのが「神も仏もない・・・」と言う言葉。
その上、「こんな時に・・・うるさいなぁ」などと、
いじけた人間の心理とはそんなもの。
しかし、冷静によくよく考えてみれば、実はこういう時こそ
本当の願をかけるものではないかと。
本来の祭りの意味も、場違いだなと思う前に、
実はこういう時こその物だったのじゃないかと自分勝手に解釈する。
そう思えば、あの騒ぎも、人々の狂喜する姿も、大音量の音楽も
受け入れる事ができる。
でなければ辛すぎる時間。
だからこそ、
その気持ちをひとつにする為に
お祭りでの掛け声が
和を背負う(しょう)と言う意味で、
「ワッショイ、ワッショイ」となったと
神職が仰っていた。
そう、お祭りとは元来そう言うものなのだ。
だからこそ我が家、入院している方のいるご家族、
そして力を合わせ乗り越える事が今、必要だと思う人々にこそ本当は
お祭りが必要であり、そして「ワッショイ、ワッショイ」こそが
救われる道だと思うのは、あまりに飛躍しすぎた考えであろうか。
夕暮れに光る神輿の煌びやかな姿を見て、そう思った。