午前2時。
辺りはまだ漆黒の闇に包まれ、静寂な時を刻んでいる。
一ヶ月も前だろうか。
突然襲われた右肩の痛みはこの日も安眠の妨げとなり、否が応にもからだを寝床から引き離そうとしていた
後に医師から告げられたのが「夜間痛」というもので、平らな布団の上であおむけに寝ることにより重力に肩関節が押し下げられ痛みを発症するという。
なんとかそれに抵抗しよと、宵の口に痛み止めの錠剤を飲みこみ就寝するのだが、その効果は薄い。
決まったように午前2時、仕方なく迎えた私の朝は、一杯のコーヒーと深夜の意味のないテレビショッピングの番組から始まる。
そう言えば、携帯電話とコンパクトカメラの充電は忘れていなかっただろうか。
消毒用のアルコールは詰め替え容器にまだ十分にあったはずだが、ウエットティッシュも追加しもう一度確認しておこう。
あれやこれやと詰め込んだリュックははちきれそうになるまで膨らんでしまうのだが、そんな状態で今日の旅の共として肩痛のある私が背負うことができるはずがないだろうと苦笑。
その中から不要と思える順に省いていく作業がひとしきり始まり、そうして準備を整え終わる頃には東側の窓のカーテンの隙間から見えるシルエットに夜明けを知る事となる。
ちなみに、”これは非常食だ”との位置づけにより、子供の遠足のごとく買い揃えた菓子類を入るリュックのスペースが狭まる事どうにもなかった。
ガサゴソと夜明け前から雑音に邪魔をされた愛猫が、自分の定位置であるソファーの上で怪訝そうな表情であくびを繰り返している。
そろそろ家人も起床の時間を迎える頃だろうか。
予約時間を迎えた炊飯器が白い湯気を立てはじめた今、私はひとり「横川駅~碓氷峠ウオーキング」への旅へ出かけるため、ひとり自転車にまたがるのだった。

しばらくぶりに漕ぎ出された自転車の車輪の重いこと。
油でも切れたか、周期的に微細な金属音をたてながら、かつて煉瓦工場の引込線であった遊歩道を進む。
やれやれと、やや早めにJR深谷駅に到着する。
7時46分発前橋行きに乗車。
乗り込んだ車両には同じ制服、それに同じ野球バックを足元に置いた高校生男子の一段。
皆決まったようにうつむきながらスマホを見入るお決まりのポーズ。
止められているのか誰一人として会話を交わすものもおらず、車両がきしむ音だけが車内に響く。
果たして彼等は今の状態で本当に野球、いや部活そのものを楽しめているのだろうか。
たわいもない会話を交わしながら仲間意識、クサイ言い方で言うのなら友情や青春期の思い出を築いていくのが同じ部活で一番楽しい時ではないのか。
それもこれもみんなコロナのせいだと、大切な何かを犠牲にしなければならないご時世だと、無理やりに納得することとする。
そうしてふた駅目。
球児たちの爽やかさえも封印してしまった車内には、どんよりとした重苦しい空気をも同乗させ本庄駅を発車。
あの球児たちと同様、一応に下を向く乗客も数えるほどとなってしまった。
密には程遠い空間が確保され、正直ほっとするもビクビクしながら生きなければならないこんな時代はいったいいつまで続くのだろうか。
神の領域まで侵すような先進的と言われる科学や医学のチカラであっても、たったミクロ単位の大きさで生きるウイルスの前では全く無力であった事実とは何とも情けないお話しだ。
それがこの空間を生み出している。
今や、淋しい状態を安全・安心と呼ぶのだろうか。
そんな電車は田園地帯を走り抜け、県庁所在地前橋と並ぶ大都市高崎駅に到着する。
休日の早朝というだけあって、駅構内は混みあうこともない。
信越本線5番ホーム前の掲示板を確認すれば9時23分横川行きとある。
ゆうに30分以上の待ち時間が待っていた。
ここは一度駅構内から出て、高崎の街でも少し歩いてみようかと改札を通過。
こんな時ほどICカード乗車券のありがたみを知る。
しかし、自動改札に吸い込まれていく軟券や、あの昔懐かしい硬券の乗車券が疎ましかったわけではない。
あれはあれで味があった。
幼い頃、初めて乗る電車の中で失くすまいと手のひらに汗をぐっしょり濡れるほど握りしめていた硬券。
車窓から見える景色など見る余裕もなく、改札駅員にその硬券を渡すまで緊張し続けたことを今でも忘れられない。
そんな懐かしさを思いださせてくれた高崎駅の朝は、今どきの都会の風景を見せてくれている。
高碕と言えば、ダルマと観音様。
それはもう昔の事。
今では高層ビルや奇麗に整備された道路ですっかり都会化されている街だ。
都内の巨大都市とまではいわないが、少なくとも深谷や熊谷よりも大きい街のように見える。

高碕駅西口をさっと散策。
市役所を正面に見る道路の広さと言ったらまさに感激ものだ。
立ち並ぶビルのテナントにはおしゃれな商品のディスプレイ。
飲食店も多く立ち並び、コロナ禍に陥る前まではきっと深夜までにぎわっていたことだろう。
そんな早朝散歩をおえ、信越本線発ホームへ。
走り込んできた車両は4両編成。
その4号車へ乗り込むと、女性車掌の小気味いいアナウンスが。
聞けば終点になる横川駅までは30分少々。
高碕から終点横川までは意外と近い。
しかし、その昔横川駅は途中駅だったことを思いだした。
信越本線の難所、碓氷峠を越えるために歯車の着いたレールを走るアプト式機関車を連結するための停車駅であった横川駅。
ご存知の通り、そこで駅弁として発売されたのが峠の釜めしである。
駅弁として人気を博したその釜めしは今や高速道路のSAでも販売され、未だにこの碓氷峠と言えば釜めしと連想する方も少なくはないだろう。
話は先走り、横川にまで飛んで行ってしまったが、この信越本線の停車駅には日本のマラソンの発祥地と言われる安中をはじめ、群馬の名湯磯部や群馬三山妙義の麓、松井田にも停車するのだが、いたって乗車客は少ない。
観光シーズンを迎えてもこの閑散とした車内は、やはりここでもコロナの影響が大きいのだろうか。
時々車窓から見える国道18号線の車の通行量も普段に比べるとそう多くはないと見受けられる。
むしろ、こうして旅の電車に揺られている私の方が能天気であるのか。
自粛という生活様式は家を牢獄のごとくその姿を変えることを推奨され、寛ぎの場所であったはずの遊興施設もイベント広場もも閉ざされた。
すると、人々は圧縮されたストレスの置き場さえもなくなり、そのストレスをネットというどぶ川に垂れ流す。
そのストレスは誹謗中傷、言葉の暴力と様々な汚物として姿を変え、やがてどぶ川の流れさえもせき止めてしまう。
その余波はやがて世界全体を腐らせ異臭を放ち争いの連鎖へと繋がる。
人々は異臭の中をもがき足掻き苦しみ続け、お互いの首を絞めつけ合いながらも、それでもその手を緩めようとはしない。
大国同士がいがみ合い、軍備は増強され、果ては名目上の正義をたてに戦争を繰り返す。
そうした愚かな思考は、例えばこの車窓から見えるハナミズキのピンクと桜草のピンクと、どちらが正しいピンクなのか、どちらが美しいかをを言い争っているだけのことに過ぎない。
どちらもピンクであり、それ以上でもそれ以下でもなく、どちらも美しいピンクであることを知るべきである。
とか考えている私こそが実は支離滅裂、非論理的な愚か者であるかも知れないのだが。

そうこうしているうちに、電車は終点横川駅へ到着した。
その電車はくるりと向きを変えることなくそのままピストン運行高碕行きとなる。
本来の信越本線とは高碕より長野を通り、そうして新潟から直江津へと繋ぐ。
要するに信州と越前越後を結ぶ線だから信越本線。
しかし、高速道路と新幹線が整備され、碓氷峠を越えるアプト式路線は廃止されることになった。
群馬県のみを走る高崎~横川間の信越本線とはその名残で、”信”もなければ”越”もない。
ならば路線名を変更すればよいと思うのだが、それはそれ。
沿線利用者に馴染み親しんだ路線名である。
そこにはあのアプト式という、当時の最新技術を投入された画期的な走行システムを有した国鉄時代のドル箱路線だったという自負がある。
そう簡単には歴史を捨てられないのだろう。
当然ではあるが、鉄道ファンを含めて、利用者・関係者はみな一様に「信越本線」の名称を”永久欠番”としたいと望んでいると思う。
もちろん、魅力はそこだけに限った訳でもない。
都会色の濃い高崎から次第に景色は田園風景に変わり、そうして何本も鉄橋を走り勾配のきつくなる山間の駅えと向かう。
風情があると言えばその通りで、JRの収支云々よりも人情として走り続けさせたい路線であるのは間違いのないところだ。
が、多くの路線がその経済的理由により第三セクターへの引き渡し、あるいは最悪廃線とされているJRだ。
このがらんとした車内に身を置くと、未来像がうっすらと雲の影から見えてくるような気がしないでもない。
この先、合理化という不条理を何をもって抑え込んでいくのか、情報という手段で遠くからしか見守るしかないのがもどかしい。
信越本線高崎~横川区間、頑張れ!
そんな時、一瞬「ガシャリ」の音と車両が大きく揺れて、自分はまだまだ走り続けると応えてくれたような気がした。

9時23分
横川駅到着。
自虐的に言えば、”今日も雨雲が頭上にある”そんな空模様だ。
それは、深谷の空よりも横川の空の方が厳しくより私の心を痛めつけてくれている。
いつ降りだしてもおかしくない雨粒と言いたいところだが、悲しいことにすでにポツポツと落ちていた。
雨は決して嫌いではない。
そう、こんなスチュエーションの時を除けば、の話だが。
もし雨雲をコントロールする力でもあればこの時ばかりはご退場をお願いしたいものだ。
傘をさすほどでもないが、電車で帰ることを考えたら少しも濡れたくはない。
その願いが叶ったのか、ほどなくして雨は止んだ。
そんな横川駅周辺はいつもながら閑散としている。
やはり観光地軽井沢より先に向かうは乗り換えのない新幹線を利用するのだろう。
わざわざこの横川で電車を降り、路線バスで碓氷峠を越えるのは現実的ではない。
この横川と言う駅は”取り残されたかつての駅”というイメージになってしまったのが何とも悲しい事だ。
今は無人駅となった横川の駅舎にはアプト式の歯車が文化財のごとく展示されていた。
それはご丁寧に駅舎の入り口にも実物がしっかりと保存されていて、この駅に関係した駅員たちの思入れの大きさが分かる思いだ。
そんな駅を見ていたら、そう、あの高倉健さんの主演映画、「鉄道員(ぽっぽや)」を思いだしてしまった。
広末涼子のユキコが泣かせてくれたっけ。
その原作者浅田次郎がこの先思わぬところで私に感動を与えてくれるのだが、先ずはその前に気分と体調を整える必要がある。
考えてみれば目が覚めてからインスタントコーヒーを2杯とテーブルに置きっぱなしにあった数枚の煎餅しか胃の中に放り込んではいなかった。
そのせいか、電車に乗り始めてからずっと気分が悪く、久しぶりに乗り物酔いの苦しさに苛まれていた。
吐き気がするほどでもなかったが、とにかく口の中をリフレッシュしたくて、飴玉をひとつ放り込んでやった。
そしてトイレも済ませたら少々気分も好転してきたが、何かを食べたいという気にはなれない。
まあ、これから数時間歩いて行くうちには改善されるだろうと高を括って、さあ、気合を入れて歩き始める。

横川駅から目指すは、ランニング仲間が待つ中山道坂本宿「峠の湯」なる日帰り温泉施設。
実は仲間のひとりがこのウオーキングを企画してくださった。
その企画に私の歩きたい(走りたい)坂本宿を織り交ぜて、今回の旅となった訳だ。
その集合時間が10時。
普通に走れば約3kmあまりを30分、十分間に合う計算だ。
ところがそうは問屋が卸さない。
この道は安政遠足侍マラソンで何度も走っている道。
上り坂はきつく、山間部を除けば一番この辺りが苦しく、ここさえ超えれば何とかなる、そんな位置づけの場所。
それに付け加え名勝地がある唯一の場所でもある。
まず訪れるのが「碓氷関所跡」。
大会ではその時に合わせてこの横川のお祭りも同時に開催されるらしく、その大会で一、二の盛り上がりを見せる場所でもある。
もちろん、仮装ランでの参加とは言え、関門時間も迫っていることだし、ゆっくりと史跡見物などしている暇もなく、拍手や喝采の中をただ通り過ぎるだけ、そんな関所跡でもあった。
それを今回、この日は時間は迫っていたとしてもその辺りは少々融通が利くと、我がまま勝手に判断しじっくりと史跡見学。
すると、ボランティアのガイドさんだろうか、「資料室にも寄っていきませんか」と、お声がけされ、まんまとその史料館へと導かれていく。
すると一番目に着く正面に「一路」のサイン色紙。
そう、それこそが作家浅田次郎の小説、「一路」の題名を記した色紙だったのだ。
横川駅で思い出した「鉄道員(ぽっぽや)」と小説「一路」の浅田次郎。
それに私の使っているペンネームの「一路」が相まってなんと深い縁がある場所だと勝手に思い込む。。
その後もガイドさんと京都からの皇女和宮の大行列の逸話や、実際に使われた通行手形の説明などにより完全に気持ちはお江戸の時代にタイムスリップ。
気分はアプト式の廃線になった昭和の時代から幕末まで遡るのだった。

「ところで今日は何処まで行かれるかな?」
「はあ、とりあえずめがね橋あたりですかね。お天気も怪しそうですし・・・」
「ああ、天気がねえ。それじゃお気をつけていってらっしゃい」
「ありがとうございます。今度は安政遠足マラソンで伺います」
そんな挨拶を交わし、碓氷関所跡をあとにする。
やがて中山道は碓氷峠旧道へと続くのだが、その前に霧積川を渡る。
霧積川・・・霧積温泉、とくれば「人間の証明」
松田優作、ジョー山中、、、そう、ストローハットの角川映画だ。
(母さん、僕のあの帽子どうしたでせうねええ、夏碓氷から霧積へ行くみちで渓谷に落としたあの帽子ですよ・・・)
これは西条八十の詩であり、決して映画のために作られた台詞ではないと知ったのはまだ最近のことだ。
その碓氷と霧積をこれから歩こうとしてるのだが、頭の中でジョー山中の唄ったテーマソングがしばらくの間私の頭の中にヘビーローテーションとして流れたのは言うまでもない。
原作者の森村誠一もそうだが、横溝正史や赤川次郎などの推理小説と一流の俳優がセットとなって映画興行収入の記録を次々に塗りかえっていった、そんな時代でもあったと記憶している。
今考えれば、そんな角川映画に代表されるように、あの頃の映画は今の作品に比べ随分大人の映画だったなあと思うのは果たして私だけだろうか。
はたまた、思考はお江戸の時代から昭和の時代に戻りつつ、なおも坂のきつくなってきた中山道を喘ぎながら進むのだった。

すると、集落はまたもや私をお江戸の時代に引き戻そうとする。
「中山道 坂本宿」
碓氷峠を下った旅人が足を休め、碓氷関所を越えた旅人もまた碓氷峠越えを前に休息をとる宿場町。
東海道の要所が箱根なら、中山道はこの碓氷。
その当時の歴史を感じさせてくれるような古い建物はそう多くないが、雰囲気だけは充分感じ摂れる町並みだ。
今では普通の民家となっているお宅にもそれぞれの屋号をもち、それを江戸文字で書かれた看板が掲げられている。
なんとおしゃれな事か。
その数、ざっと160軒あまり。
もし、この集落を木曽の妻籠宿や会津の大内宿のようにお江戸の時代を派手に演出したら、このロケーションを含め、立派な大観光地になるに違いない。
そんな資質を持ちながら敢えてそうしない。
そんな素朴な考えが無性に嬉しい。
むしろ、現在の町への進化を無理に止めず、その上で文化財並みの宿場町風情を残したことに拍手を送りたいほどだ。
一軒一軒、覗き込むような真似はできないが、さっと通り過ぎながらもそのお宅の歴史に少しだけ触れることができたような気がする。
それこそが今現在の「坂本宿」でもある。
おみやげ屋さん一軒ある訳でもなく、観光案内所らしきものさえない。
だからこそひっそりと佇む当時の坂本宿を感じ取れるというものだ。

さて、そんな坂本宿の唯一の観光施設、と言って良いのかは分からないが、日帰り温泉施設でもある「峠の湯」が今回の私ひとり旅の終点である。
ここで仲間と落ちあい、そこから「アプトの道」をトレッキングする計画だ。
峠の湯を出発し、途中にある碓氷湖を眼下に収め、めがね橋を越え熊の平駅跡までをピストンという行程だ。
集合時間10時を何分かの遅刻でメンバーさんに心配をおかけしたが、無事合流でき胸をなでおろす。
そんな私をあざ笑うかのように、心配していた雨脚がやや強くなりはじめる。
メンバーさんの何名かは傘を広げるが、幾度となく現れるトンネルに救われ、衣服を濡らすこともなかったが、これからの行程に一抹の不安を感じさせていた。
が、そんな心配をよそにそれ以上の雨量になることもなく、”総数7名編成”のアプト歩きは順調に目的地まで進むのであった。
このアプトの道とは、深谷市にも存在する鉄道の線路を取り払い、遊歩道にしたもの。
碓氷峠を越えるためにいくつものトンネルを抜け、時には高所の橋脚(めがね橋)を走っていた当時のアプト式機関車。
その機関車に連結された車両にどれ程の乗客が乗っていたのかは定かではないが、この勾配を上るのにはいくらアプト式とは言っても容易なことではなかったろう。
今でも新幹線は碓氷峠を越えた軽井沢にも駅に持つわけで、峠を峠にしないような勾配にしたトンネルを完成させたのか、あるいは車両の性能を飛躍的に向上させ、そのくらいの勾配は難なく走る動力を開発したのか、私には分からない。
ただ、今でもこの路線が使われていたならどんなに時間がかかろうと、ここを走る電車を選ぶ方がどれ程いただろう。
さっと通り過ぎるのは旅として面白みに欠けるし、なんとも味気ないものだ。
旅とは時間を無視してこそ面白みを感じ取れる、そう思うのだが鉄道にもスピードを要求されるのは当然でもある。
利益、合理化、利便性は風情を見殺しにするが、そもそも鉄道とは旅だけのものではなく、ビジネスにも輸送にも使われるわけで、その部分がこの路線がふさわしくなかった。
そうして残されたのが”アプトの道”となったということだ。
本来の役目を終えてか、崩れかけていた煉瓦のトンネル壁面がいかにも淋しそうに見えていた。

仲間たちとは沢山話した。
社会の無常や不条理さ、中華料理から家庭生活まで話題は尽きない。
当然、走る仲間であるから昨今の大会開催事情はそのメインでもあるが、さすがにこのコロナ禍の状況では悲観的な言葉ばかりが口を衝いて出てしまう。
マスク越しにであるがゆえに表情を伺うことはできないが、言葉から感じとれる部分で共感するところも多く、だからこそ同じ志をいだく仲間だと感じられる。
そうした仲間との時間は、1時間はただの1時間ではなく、例えば50倍に濃縮されたオレンジジュースのような物。
普通なら聞き流してしまうような言葉がひとつひとつからだを震わせる、口元を緩ませ腹の底から笑えあえる、そんな時間だ。
楽しくない訳がない。
歩く、階段を下り、そして上りかえす。
風景は新緑一色。
空は泣きだしそうだが、こころは雲ひとつない快晴だ。
そうして2時間もそんな場所を過ごしただろうか。
多少のハプニングはあったが、みな無事にゴールである「峠の湯」に帰りつけた。
多少疲れの残る足を休めながらみなで昼食をとったが、新緑の緑から発せられる自然界のパワーをからだ全体で受け止め仲間との一体感を味わい、ウルトラマンで言えばカラータイマーが赤から青にと、無情な社会で再び戦う力を取りもどせたような気分だ。
腹は空いていてもエネルギーは満タン!
恐らく最後までひとりでの旅ならここまでの充実感は感じなかったかもしれない。
自然に溶け込むこと、またひととの関わりとは本当に楽しいものだ。
また機会があれば今度はあの山を越え、碓氷峠頂上の熊野神社から軽井沢を経由し、深谷に戻るコースにも挑戦したい。
今回、このトレッキングを規格してくださったメンバーさん、またともに歩いたメンバーさんにお疲れ様でしたの言葉と感謝の気持ちを込めて閉めたいと思う。
ありがとうございました。

追伸
とにかく長くなりすぎたのと、一度保存に失敗しすべて書き直したため、殆ど校正はしておりません。
誤字脱字、文章構成に理解不能な部分もあろうかと思いますが、ひらにご容赦を(笑)
辺りはまだ漆黒の闇に包まれ、静寂な時を刻んでいる。
一ヶ月も前だろうか。
突然襲われた右肩の痛みはこの日も安眠の妨げとなり、否が応にもからだを寝床から引き離そうとしていた
後に医師から告げられたのが「夜間痛」というもので、平らな布団の上であおむけに寝ることにより重力に肩関節が押し下げられ痛みを発症するという。
なんとかそれに抵抗しよと、宵の口に痛み止めの錠剤を飲みこみ就寝するのだが、その効果は薄い。
決まったように午前2時、仕方なく迎えた私の朝は、一杯のコーヒーと深夜の意味のないテレビショッピングの番組から始まる。
そう言えば、携帯電話とコンパクトカメラの充電は忘れていなかっただろうか。
消毒用のアルコールは詰め替え容器にまだ十分にあったはずだが、ウエットティッシュも追加しもう一度確認しておこう。
あれやこれやと詰め込んだリュックははちきれそうになるまで膨らんでしまうのだが、そんな状態で今日の旅の共として肩痛のある私が背負うことができるはずがないだろうと苦笑。
その中から不要と思える順に省いていく作業がひとしきり始まり、そうして準備を整え終わる頃には東側の窓のカーテンの隙間から見えるシルエットに夜明けを知る事となる。
ちなみに、”これは非常食だ”との位置づけにより、子供の遠足のごとく買い揃えた菓子類を入るリュックのスペースが狭まる事どうにもなかった。
ガサゴソと夜明け前から雑音に邪魔をされた愛猫が、自分の定位置であるソファーの上で怪訝そうな表情であくびを繰り返している。
そろそろ家人も起床の時間を迎える頃だろうか。
予約時間を迎えた炊飯器が白い湯気を立てはじめた今、私はひとり「横川駅~碓氷峠ウオーキング」への旅へ出かけるため、ひとり自転車にまたがるのだった。

しばらくぶりに漕ぎ出された自転車の車輪の重いこと。
油でも切れたか、周期的に微細な金属音をたてながら、かつて煉瓦工場の引込線であった遊歩道を進む。
やれやれと、やや早めにJR深谷駅に到着する。
7時46分発前橋行きに乗車。
乗り込んだ車両には同じ制服、それに同じ野球バックを足元に置いた高校生男子の一段。
皆決まったようにうつむきながらスマホを見入るお決まりのポーズ。
止められているのか誰一人として会話を交わすものもおらず、車両がきしむ音だけが車内に響く。
果たして彼等は今の状態で本当に野球、いや部活そのものを楽しめているのだろうか。
たわいもない会話を交わしながら仲間意識、クサイ言い方で言うのなら友情や青春期の思い出を築いていくのが同じ部活で一番楽しい時ではないのか。
それもこれもみんなコロナのせいだと、大切な何かを犠牲にしなければならないご時世だと、無理やりに納得することとする。
そうしてふた駅目。
球児たちの爽やかさえも封印してしまった車内には、どんよりとした重苦しい空気をも同乗させ本庄駅を発車。
あの球児たちと同様、一応に下を向く乗客も数えるほどとなってしまった。
密には程遠い空間が確保され、正直ほっとするもビクビクしながら生きなければならないこんな時代はいったいいつまで続くのだろうか。
神の領域まで侵すような先進的と言われる科学や医学のチカラであっても、たったミクロ単位の大きさで生きるウイルスの前では全く無力であった事実とは何とも情けないお話しだ。
それがこの空間を生み出している。
今や、淋しい状態を安全・安心と呼ぶのだろうか。
そんな電車は田園地帯を走り抜け、県庁所在地前橋と並ぶ大都市高崎駅に到着する。
休日の早朝というだけあって、駅構内は混みあうこともない。
信越本線5番ホーム前の掲示板を確認すれば9時23分横川行きとある。
ゆうに30分以上の待ち時間が待っていた。
ここは一度駅構内から出て、高崎の街でも少し歩いてみようかと改札を通過。
こんな時ほどICカード乗車券のありがたみを知る。
しかし、自動改札に吸い込まれていく軟券や、あの昔懐かしい硬券の乗車券が疎ましかったわけではない。
あれはあれで味があった。
幼い頃、初めて乗る電車の中で失くすまいと手のひらに汗をぐっしょり濡れるほど握りしめていた硬券。
車窓から見える景色など見る余裕もなく、改札駅員にその硬券を渡すまで緊張し続けたことを今でも忘れられない。
そんな懐かしさを思いださせてくれた高崎駅の朝は、今どきの都会の風景を見せてくれている。
高碕と言えば、ダルマと観音様。
それはもう昔の事。
今では高層ビルや奇麗に整備された道路ですっかり都会化されている街だ。
都内の巨大都市とまではいわないが、少なくとも深谷や熊谷よりも大きい街のように見える。

高碕駅西口をさっと散策。
市役所を正面に見る道路の広さと言ったらまさに感激ものだ。
立ち並ぶビルのテナントにはおしゃれな商品のディスプレイ。
飲食店も多く立ち並び、コロナ禍に陥る前まではきっと深夜までにぎわっていたことだろう。
そんな早朝散歩をおえ、信越本線発ホームへ。
走り込んできた車両は4両編成。
その4号車へ乗り込むと、女性車掌の小気味いいアナウンスが。
聞けば終点になる横川駅までは30分少々。
高碕から終点横川までは意外と近い。
しかし、その昔横川駅は途中駅だったことを思いだした。
信越本線の難所、碓氷峠を越えるために歯車の着いたレールを走るアプト式機関車を連結するための停車駅であった横川駅。
ご存知の通り、そこで駅弁として発売されたのが峠の釜めしである。
駅弁として人気を博したその釜めしは今や高速道路のSAでも販売され、未だにこの碓氷峠と言えば釜めしと連想する方も少なくはないだろう。
話は先走り、横川にまで飛んで行ってしまったが、この信越本線の停車駅には日本のマラソンの発祥地と言われる安中をはじめ、群馬の名湯磯部や群馬三山妙義の麓、松井田にも停車するのだが、いたって乗車客は少ない。
観光シーズンを迎えてもこの閑散とした車内は、やはりここでもコロナの影響が大きいのだろうか。
時々車窓から見える国道18号線の車の通行量も普段に比べるとそう多くはないと見受けられる。
むしろ、こうして旅の電車に揺られている私の方が能天気であるのか。
自粛という生活様式は家を牢獄のごとくその姿を変えることを推奨され、寛ぎの場所であったはずの遊興施設もイベント広場もも閉ざされた。
すると、人々は圧縮されたストレスの置き場さえもなくなり、そのストレスをネットというどぶ川に垂れ流す。
そのストレスは誹謗中傷、言葉の暴力と様々な汚物として姿を変え、やがてどぶ川の流れさえもせき止めてしまう。
その余波はやがて世界全体を腐らせ異臭を放ち争いの連鎖へと繋がる。
人々は異臭の中をもがき足掻き苦しみ続け、お互いの首を絞めつけ合いながらも、それでもその手を緩めようとはしない。
大国同士がいがみ合い、軍備は増強され、果ては名目上の正義をたてに戦争を繰り返す。
そうした愚かな思考は、例えばこの車窓から見えるハナミズキのピンクと桜草のピンクと、どちらが正しいピンクなのか、どちらが美しいかをを言い争っているだけのことに過ぎない。
どちらもピンクであり、それ以上でもそれ以下でもなく、どちらも美しいピンクであることを知るべきである。
とか考えている私こそが実は支離滅裂、非論理的な愚か者であるかも知れないのだが。

そうこうしているうちに、電車は終点横川駅へ到着した。
その電車はくるりと向きを変えることなくそのままピストン運行高碕行きとなる。
本来の信越本線とは高碕より長野を通り、そうして新潟から直江津へと繋ぐ。
要するに信州と越前越後を結ぶ線だから信越本線。
しかし、高速道路と新幹線が整備され、碓氷峠を越えるアプト式路線は廃止されることになった。
群馬県のみを走る高崎~横川間の信越本線とはその名残で、”信”もなければ”越”もない。
ならば路線名を変更すればよいと思うのだが、それはそれ。
沿線利用者に馴染み親しんだ路線名である。
そこにはあのアプト式という、当時の最新技術を投入された画期的な走行システムを有した国鉄時代のドル箱路線だったという自負がある。
そう簡単には歴史を捨てられないのだろう。
当然ではあるが、鉄道ファンを含めて、利用者・関係者はみな一様に「信越本線」の名称を”永久欠番”としたいと望んでいると思う。
もちろん、魅力はそこだけに限った訳でもない。
都会色の濃い高崎から次第に景色は田園風景に変わり、そうして何本も鉄橋を走り勾配のきつくなる山間の駅えと向かう。
風情があると言えばその通りで、JRの収支云々よりも人情として走り続けさせたい路線であるのは間違いのないところだ。
が、多くの路線がその経済的理由により第三セクターへの引き渡し、あるいは最悪廃線とされているJRだ。
このがらんとした車内に身を置くと、未来像がうっすらと雲の影から見えてくるような気がしないでもない。
この先、合理化という不条理を何をもって抑え込んでいくのか、情報という手段で遠くからしか見守るしかないのがもどかしい。
信越本線高崎~横川区間、頑張れ!
そんな時、一瞬「ガシャリ」の音と車両が大きく揺れて、自分はまだまだ走り続けると応えてくれたような気がした。

9時23分
横川駅到着。
自虐的に言えば、”今日も雨雲が頭上にある”そんな空模様だ。
それは、深谷の空よりも横川の空の方が厳しくより私の心を痛めつけてくれている。
いつ降りだしてもおかしくない雨粒と言いたいところだが、悲しいことにすでにポツポツと落ちていた。
雨は決して嫌いではない。
そう、こんなスチュエーションの時を除けば、の話だが。
もし雨雲をコントロールする力でもあればこの時ばかりはご退場をお願いしたいものだ。
傘をさすほどでもないが、電車で帰ることを考えたら少しも濡れたくはない。
その願いが叶ったのか、ほどなくして雨は止んだ。
そんな横川駅周辺はいつもながら閑散としている。
やはり観光地軽井沢より先に向かうは乗り換えのない新幹線を利用するのだろう。
わざわざこの横川で電車を降り、路線バスで碓氷峠を越えるのは現実的ではない。
この横川と言う駅は”取り残されたかつての駅”というイメージになってしまったのが何とも悲しい事だ。
今は無人駅となった横川の駅舎にはアプト式の歯車が文化財のごとく展示されていた。
それはご丁寧に駅舎の入り口にも実物がしっかりと保存されていて、この駅に関係した駅員たちの思入れの大きさが分かる思いだ。
そんな駅を見ていたら、そう、あの高倉健さんの主演映画、「鉄道員(ぽっぽや)」を思いだしてしまった。
広末涼子のユキコが泣かせてくれたっけ。
その原作者浅田次郎がこの先思わぬところで私に感動を与えてくれるのだが、先ずはその前に気分と体調を整える必要がある。
考えてみれば目が覚めてからインスタントコーヒーを2杯とテーブルに置きっぱなしにあった数枚の煎餅しか胃の中に放り込んではいなかった。
そのせいか、電車に乗り始めてからずっと気分が悪く、久しぶりに乗り物酔いの苦しさに苛まれていた。
吐き気がするほどでもなかったが、とにかく口の中をリフレッシュしたくて、飴玉をひとつ放り込んでやった。
そしてトイレも済ませたら少々気分も好転してきたが、何かを食べたいという気にはなれない。
まあ、これから数時間歩いて行くうちには改善されるだろうと高を括って、さあ、気合を入れて歩き始める。

横川駅から目指すは、ランニング仲間が待つ中山道坂本宿「峠の湯」なる日帰り温泉施設。
実は仲間のひとりがこのウオーキングを企画してくださった。
その企画に私の歩きたい(走りたい)坂本宿を織り交ぜて、今回の旅となった訳だ。
その集合時間が10時。
普通に走れば約3kmあまりを30分、十分間に合う計算だ。
ところがそうは問屋が卸さない。
この道は安政遠足侍マラソンで何度も走っている道。
上り坂はきつく、山間部を除けば一番この辺りが苦しく、ここさえ超えれば何とかなる、そんな位置づけの場所。
それに付け加え名勝地がある唯一の場所でもある。
まず訪れるのが「碓氷関所跡」。
大会ではその時に合わせてこの横川のお祭りも同時に開催されるらしく、その大会で一、二の盛り上がりを見せる場所でもある。
もちろん、仮装ランでの参加とは言え、関門時間も迫っていることだし、ゆっくりと史跡見物などしている暇もなく、拍手や喝采の中をただ通り過ぎるだけ、そんな関所跡でもあった。
それを今回、この日は時間は迫っていたとしてもその辺りは少々融通が利くと、我がまま勝手に判断しじっくりと史跡見学。
すると、ボランティアのガイドさんだろうか、「資料室にも寄っていきませんか」と、お声がけされ、まんまとその史料館へと導かれていく。
すると一番目に着く正面に「一路」のサイン色紙。
そう、それこそが作家浅田次郎の小説、「一路」の題名を記した色紙だったのだ。
横川駅で思い出した「鉄道員(ぽっぽや)」と小説「一路」の浅田次郎。
それに私の使っているペンネームの「一路」が相まってなんと深い縁がある場所だと勝手に思い込む。。
その後もガイドさんと京都からの皇女和宮の大行列の逸話や、実際に使われた通行手形の説明などにより完全に気持ちはお江戸の時代にタイムスリップ。
気分はアプト式の廃線になった昭和の時代から幕末まで遡るのだった。

「ところで今日は何処まで行かれるかな?」
「はあ、とりあえずめがね橋あたりですかね。お天気も怪しそうですし・・・」
「ああ、天気がねえ。それじゃお気をつけていってらっしゃい」
「ありがとうございます。今度は安政遠足マラソンで伺います」
そんな挨拶を交わし、碓氷関所跡をあとにする。
やがて中山道は碓氷峠旧道へと続くのだが、その前に霧積川を渡る。
霧積川・・・霧積温泉、とくれば「人間の証明」
松田優作、ジョー山中、、、そう、ストローハットの角川映画だ。
(母さん、僕のあの帽子どうしたでせうねええ、夏碓氷から霧積へ行くみちで渓谷に落としたあの帽子ですよ・・・)
これは西条八十の詩であり、決して映画のために作られた台詞ではないと知ったのはまだ最近のことだ。
その碓氷と霧積をこれから歩こうとしてるのだが、頭の中でジョー山中の唄ったテーマソングがしばらくの間私の頭の中にヘビーローテーションとして流れたのは言うまでもない。
原作者の森村誠一もそうだが、横溝正史や赤川次郎などの推理小説と一流の俳優がセットとなって映画興行収入の記録を次々に塗りかえっていった、そんな時代でもあったと記憶している。
今考えれば、そんな角川映画に代表されるように、あの頃の映画は今の作品に比べ随分大人の映画だったなあと思うのは果たして私だけだろうか。
はたまた、思考はお江戸の時代から昭和の時代に戻りつつ、なおも坂のきつくなってきた中山道を喘ぎながら進むのだった。

すると、集落はまたもや私をお江戸の時代に引き戻そうとする。
「中山道 坂本宿」
碓氷峠を下った旅人が足を休め、碓氷関所を越えた旅人もまた碓氷峠越えを前に休息をとる宿場町。
東海道の要所が箱根なら、中山道はこの碓氷。
その当時の歴史を感じさせてくれるような古い建物はそう多くないが、雰囲気だけは充分感じ摂れる町並みだ。
今では普通の民家となっているお宅にもそれぞれの屋号をもち、それを江戸文字で書かれた看板が掲げられている。
なんとおしゃれな事か。
その数、ざっと160軒あまり。
もし、この集落を木曽の妻籠宿や会津の大内宿のようにお江戸の時代を派手に演出したら、このロケーションを含め、立派な大観光地になるに違いない。
そんな資質を持ちながら敢えてそうしない。
そんな素朴な考えが無性に嬉しい。
むしろ、現在の町への進化を無理に止めず、その上で文化財並みの宿場町風情を残したことに拍手を送りたいほどだ。
一軒一軒、覗き込むような真似はできないが、さっと通り過ぎながらもそのお宅の歴史に少しだけ触れることができたような気がする。
それこそが今現在の「坂本宿」でもある。
おみやげ屋さん一軒ある訳でもなく、観光案内所らしきものさえない。
だからこそひっそりと佇む当時の坂本宿を感じ取れるというものだ。

さて、そんな坂本宿の唯一の観光施設、と言って良いのかは分からないが、日帰り温泉施設でもある「峠の湯」が今回の私ひとり旅の終点である。
ここで仲間と落ちあい、そこから「アプトの道」をトレッキングする計画だ。
峠の湯を出発し、途中にある碓氷湖を眼下に収め、めがね橋を越え熊の平駅跡までをピストンという行程だ。
集合時間10時を何分かの遅刻でメンバーさんに心配をおかけしたが、無事合流でき胸をなでおろす。
そんな私をあざ笑うかのように、心配していた雨脚がやや強くなりはじめる。
メンバーさんの何名かは傘を広げるが、幾度となく現れるトンネルに救われ、衣服を濡らすこともなかったが、これからの行程に一抹の不安を感じさせていた。
が、そんな心配をよそにそれ以上の雨量になることもなく、”総数7名編成”のアプト歩きは順調に目的地まで進むのであった。
このアプトの道とは、深谷市にも存在する鉄道の線路を取り払い、遊歩道にしたもの。
碓氷峠を越えるためにいくつものトンネルを抜け、時には高所の橋脚(めがね橋)を走っていた当時のアプト式機関車。
その機関車に連結された車両にどれ程の乗客が乗っていたのかは定かではないが、この勾配を上るのにはいくらアプト式とは言っても容易なことではなかったろう。
今でも新幹線は碓氷峠を越えた軽井沢にも駅に持つわけで、峠を峠にしないような勾配にしたトンネルを完成させたのか、あるいは車両の性能を飛躍的に向上させ、そのくらいの勾配は難なく走る動力を開発したのか、私には分からない。
ただ、今でもこの路線が使われていたならどんなに時間がかかろうと、ここを走る電車を選ぶ方がどれ程いただろう。
さっと通り過ぎるのは旅として面白みに欠けるし、なんとも味気ないものだ。
旅とは時間を無視してこそ面白みを感じ取れる、そう思うのだが鉄道にもスピードを要求されるのは当然でもある。
利益、合理化、利便性は風情を見殺しにするが、そもそも鉄道とは旅だけのものではなく、ビジネスにも輸送にも使われるわけで、その部分がこの路線がふさわしくなかった。
そうして残されたのが”アプトの道”となったということだ。
本来の役目を終えてか、崩れかけていた煉瓦のトンネル壁面がいかにも淋しそうに見えていた。

仲間たちとは沢山話した。
社会の無常や不条理さ、中華料理から家庭生活まで話題は尽きない。
当然、走る仲間であるから昨今の大会開催事情はそのメインでもあるが、さすがにこのコロナ禍の状況では悲観的な言葉ばかりが口を衝いて出てしまう。
マスク越しにであるがゆえに表情を伺うことはできないが、言葉から感じとれる部分で共感するところも多く、だからこそ同じ志をいだく仲間だと感じられる。
そうした仲間との時間は、1時間はただの1時間ではなく、例えば50倍に濃縮されたオレンジジュースのような物。
普通なら聞き流してしまうような言葉がひとつひとつからだを震わせる、口元を緩ませ腹の底から笑えあえる、そんな時間だ。
楽しくない訳がない。
歩く、階段を下り、そして上りかえす。
風景は新緑一色。
空は泣きだしそうだが、こころは雲ひとつない快晴だ。
そうして2時間もそんな場所を過ごしただろうか。
多少のハプニングはあったが、みな無事にゴールである「峠の湯」に帰りつけた。
多少疲れの残る足を休めながらみなで昼食をとったが、新緑の緑から発せられる自然界のパワーをからだ全体で受け止め仲間との一体感を味わい、ウルトラマンで言えばカラータイマーが赤から青にと、無情な社会で再び戦う力を取りもどせたような気分だ。
腹は空いていてもエネルギーは満タン!
恐らく最後までひとりでの旅ならここまでの充実感は感じなかったかもしれない。
自然に溶け込むこと、またひととの関わりとは本当に楽しいものだ。
また機会があれば今度はあの山を越え、碓氷峠頂上の熊野神社から軽井沢を経由し、深谷に戻るコースにも挑戦したい。
今回、このトレッキングを規格してくださったメンバーさん、またともに歩いたメンバーさんにお疲れ様でしたの言葉と感謝の気持ちを込めて閉めたいと思う。
ありがとうございました。

追伸
とにかく長くなりすぎたのと、一度保存に失敗しすべて書き直したため、殆ど校正はしておりません。
誤字脱字、文章構成に理解不能な部分もあろうかと思いますが、ひらにご容赦を(笑)