風をうけて vol.3

お引越ししてまいりました。
拙いブログですがよろしくお願いします。

愚か者

2022-05-15 16:39:22 | 日記・エッセイ・コラム
”いつものあのひとじゃない”

”いつ、早くなったんだ!?”

きっとランナーにとって、そう言われるのが、至福の時じゃないかと。

辛い練習は、好きじゃない。

そりゃそうだ。

誰だって苦痛に顔を歪めるほどの時間を過ごしたくないのに決まってる。

例えば、魔法の呪文を唱えたら、キロ3分のスピードを笑顔でこなせる。

例えば、一足100万円もするシューズだとしても、それを履いたら軽々とトップランナーに肩を並べる走るができる。

例えば、奇跡の手術を施してくれる博士が、アンドロイドのごとくマッハで走れる足と交換してくれる。

残念だが、そんなモノはどの世界にも存在しない。

もしあったとしても、それは自分の力ではなく走るためだけに作られたロボットのようなもの。

それでは少しも面白くない。

だったら自分の力をどう磨きをかけて、ライバル、仲間たちを唸らせることができるのか。

やはり誤魔化しはいけない。

要するに練習の量、質を上げるしかない。

そう誰でも簡単に答えるだろう。



では、目指す走りは、目標は。

元々、長い距離を走るのはいまさら言うのもなんだが、苦手な部類だ。

それがどうした訳か、マラソン42.195kmを走ることを生きがいとしてきてしまった。

これを神様の悪戯と言うのなら、まったくその通りだと思う。

スパイクを履いて、タータンのトラックを10数秒で走る。

ボールをドリブルして瞬発的に相手を振り切る。

そんな競技に明け暮れていた。

3時間も4時間も走っているのなら、20分で終わる5kmの方がまだマシだとメタボ解消にと走り始めた頃はそう思っていた。

余った時間で映画の一本も観られるじゃないか。

せっかくの休みなのに走って終るなんて最悪だ。

そう思っていた。

ところが、どんな気まぐれか、フルマラソンの世界に足を突っ込んでしまってからは、殆どスピード練習なんて無縁のものになってしまった。

フルマラソンにスピードなんて必要なの?

いつでもそう思っていた。

だが、ある程度までタイムが上がると、どうしてもその先のスピードが足りなくなるのを感じた。

スピードが足りないんじゃなくスピードを維持する力がない。

その為のスピード練習は、短距離に必須のトレーニングとはまったく別物。

が、やってみると意外とそうでもない。

トップスピードが上がれば維持していられるスピードもレベルが上がる。

要するにかけっこは短距離も長距離も変わりはないということだ。

しかし、今更スピードを養って、何を目指すんだと思った時、何もない。

正しく何もないのだ。

巷ではトラックにてマスターズの記録会みたいなものは開催されているらしい。

が、そこまでの情熱も拘りもない。



ただ、まだあの人は走れるんだ、そう思われるだけで充分でもある。

その為に、さび付いて動かなくなった足に、潤滑油を注入し、風のごとく走れるようになりたい。

生まれたばかりの子がよちよち歩きからやがて走り、そして目も止まらぬようなスピードで走れる力を身に付ける。

それとは逆に、走れていた足はあるピークを越えるとよちよち歩きの老人へと落ち込んでいく。

そのカーブに今、逆らおうとしているのだ。

描いたグラフのカーブに突発的な強い振動が加わり、描くカーブに尖った部分が発生する。

その尖った部分の高さと幅はこれからどれだけの練習で大きくなるかは、自分のからだの強さと気持ち次第。

それをある意味、命を懸けて試そうというのだ。

痛いから動かない。

苦しいから止まる。

きっとそんな気持ちとの戦いだろう。

それに打ち勝ったとしてもなんの勲章にもならない。

全ては自己満足の為だ。

愚かな老人と笑われるかもしれない。

でも、まさにそれが自分なのだ。

肺が膨らむ柔軟性を越えてぽっかりと破裂してしまうかもしれない。

心臓の肥大により血液を送る力を失って生命自体を脅かす事態に陥るかもしれない。

それでも自分は自分の本質と言うものには逆らえないものだ。

体重を減らそう。

痛める可能性のある部分の強化も忘れずに。

そうして老人ランナーはスピードの世界に立ち戻っていく。

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もう笑うしかない。

2022-05-14 05:37:34 | 日記・エッセイ・コラム
”記録なんて練習の時点で分りきってる。それをただ証明するだけ、それがレース”

それが自分にとってのマラソン大会の持論だ。

如何に苦しみ、如何に追い込むか、そそうすれば自分がどれだけ走れるのかおおよそ想像がつく。

そこで苦しんだ分レースは楽しもうと、今までも、そしてこれからもレースを走り続けようと、密かに思っていた。

しかし、寄る年波。

怪我の連続で、楽しく走れる回数は激減。

苦しみとは怪我との戦いとなりつつあり、心肺だとか走力の為の苦しむ練習はやがて影を潜めた。

そこへきてこのコロナだ。

開催される大会も激減どころか、無いに等しい状況に。

切れ味鋭い日本刀でスパンと切り落とされるように、何もなくなってしまった。

こんな状況がいつまでも続く訳がないと、一年が過ぎ二年目も変わらず、そして三年、四年と無限ループ状態。

そんな世界を襲った危機を、偽物の毒を注入することによって免疫とやらを獲得し、本物の毒から守る予防法が確立。

ワクチンは世界を救った、そんな風に見せかけている。

実は毒、未だに衰えることなく、進化を続けいつでも人類を飲みこもうと画策しているようだ。

それにまた対抗すべく、研究者は毒の弱点を追い求め続けているという、鼬ごっこ。

さて、それではマラソン大会の行く末は?

経済活動を優先した社会において、それに追従しようとレジャー業界も躍起になる中、イベントの開催も経済の復活に一役買うと徐々に観客数も参加者もその数が制限から緩和へと方向転換されようとしている。

そした状況を鑑みたのか、ポツリポツリと開催される大会が増えるてくる。

それはそれで歓迎すべきことだ。

ただ、要項を見ると開催に向けては様々な制限も存在することは事実であり、”自由気ままな大会”とはいかないようだ。

”檻の中の大会”とまでは言わないが、毒に脅かされての開催であることは致し方ないことか。

それでも情熱の冷めなかったランナーは走る。

一番大切な口元を不織布で被われながらも必死に息を吸い、窮屈な制限の中をもがくように走る。

そんなランナーを見るうちに、もう必死になって結果を求めるのは止めようと思っていた自分も、またあの苦しみの中に身を投じ、そして結果の知れたレースを走ろうかと思い立つのだ。



そうしてエントリーした大会ひとつ。

ハーフの距離だが、かなり強烈な坂が名物の大会だということらしい。

以前だったらもう走れる準備に気を使うこともなく、”槍でも鉄砲でも持ってこい”と、普段の練習を続けているだけだった。

しかし、いかんせん何年もろくな練習もせず、気持ちもからだも緩み、持ち合わせているのは昔あった記憶だけ。

実力以外の何物も手助けしてくれないレースの世界に記憶だけで臨むのは正しく自殺行為。

走り通すことは無理。

トボトボと歩きながらでもゴールラインを越えるすることさえ難しく、情けなさに打ちのめされるだけのレースに意味はない。

ならばとここ一ヶ月、長い距離も坂も息を切らし、目を白黒させながらも時間の許す限り走り続けた。

するとモチベーションとは反比例して右肩上がりに増えていった体重も減りつつ、たるんだ筋肉も締まってきたように思えていた。

そうして大会まであと6週間。

ここからもう一段気合を入れなおし、さて、と言う気持ちになったその途端、あるニュースが飛び込んできた。



なんとエントリーしていた大会が急遽中止になったと。

愕然とした。

きっと数少ない大会だ。

この時ばかりにと、申し込んだランナーも多かったことだろう。

それに向けて頑張ってきたランナー達。

自分を含めて、またかと相当な勢いで落胆しただろう。

黒く濁ったため息は、口の中のすべてを苦くさせた。

その理由がいかにも馬鹿げているからだ。

”コース上の橋が壊れた”

”たったそんなことで中止など得ない”と言っては何だが、ならば迂回コース、又はコース全体を変更するだけの時間はまだあるはずではないか。

事情が事情なら、そのくらいの変更で不満を口にする者も少ないのではないかと思う。

むしろ、安易に中止にしてしまうことを不満に思う者(もちろん自分を含め)の方が多いのではないだろうか。

ありふれる大会のあったあの頃ならまだいざ知らず、これでやっと大会を走れると消えかかっていたランナーの情熱を、集中豪雨よろし完全な消火活動にかかるとは、主催者の無責任さに閉口するばかりだ。

コロナだからと、いとも簡単に大会を締めても苦情の出ない事にきっと慣れてしまったのだろう。

理由さえ付ければどうにでもなると。

そんな風潮では今後、何を信じてエントリー費を振り込んでいいのか分からない。

今時、信じられるものはなにひとつない、信じたばかりに詐欺被害に遭う、それと全く同じ状況ではないか。

もう、何度痛い目にあったのか。

悲しいほど痛めつけられた。

その度に沈んでいくランナーとしての気持ち。

悔しさよりも諦めが心の中を占めている。

さて、これからどうする。

息を切らして走る意味もなくなってしまった今、再びウォーカーにもどるのか、それともごろ寝愛好家に成り下がるのか、深い暗黒の世界に紛れ込んでしまったようだ。
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ヨシ、ハシルゾ!

2022-05-07 16:28:28 | 日記・エッセイ・コラム
最近、若いひとたちと走る機会があった。

真面目に全速力での坂道ダッシュだ。

ところが、どうしても最後まで走り切れない。

いくら頑張っても、若いひとたちの背中にさえ追いつけない。

これはいったいどうしたことか、、、かなりのショックな出来事だ。

まあ、考えてみればそんな練習をするのはコロナ以前にも遡り、、、それに当時は踵のケガとかもあった訳で、恐らく5年はそんな練習は行っていないはずだ。

これには閉口した。

まさかこれほどまでに筋力、走力が落ちているとは。

年齢は嫌でも高くなるが、それでもまだ持ち合わせていると思っていた、、、そのくらいの走力は。

ところが現実はそんなに甘くはなかった、と言う訳だ。

現実は辛い、、、だからこそ燃えてくるものもある。

追いつき追い越そうと、そこまでは無理としても背中に喰らいつき、離されず走れるくらいの力は取り戻したい。

さて、そこで問題はそこまで落ちたこの筋力だ。

日ごろの鍛錬が一番、一度や二度頑張ったところで疲労が残るだけで、まず向上するはずもない。

ならば、どれだけの練習が必要なのかと考えれば、予想することもできないほどの有様。

一から出直しならばまだいいが、恐らく今自分のいる場所はマイナスのかなり高い数値の場所ではないかと思われる。

さて、どうしたものか。

このまま終わるのはどうにも悔しい。

諦めるのは簡単、、、それで悔いは残らないのかと言えばそんな事はない。

悔しいが無理をすればまたどこかが痛めるリスクは年々高くなり、気持ちだけが前へ前へと進んでしまう。

もどかしさと焦りと、もがけばもがくほど深みに入る思いだ。

人生の中で今が一番大きなカラダの切り替え時期なのかも知れない。

無理はするなと言うが、無理をしなければ落ちるだけ。

無茶は承知の上で、もう一度”老い花”を咲かせて見せよう。

消炎鎮痛剤を塗りたくり、いくらかでも痛みを和らげよう。

それでも足りぬなら鎮痛薬を服用する、そのくらいの覚悟で臨みたい。

正直、以前のような交代制の仕事のような時間はない。

就業後の1時間程度を練習に当てるぐらいだと思う。

それも毎日と言う訳にはいかないと思う。

それでも、平日はまったく走っていない、休日でさえ5kmも走れば良い方だった今までよりはまだマシか。

そんな気構えだけではどうにもならない事など承知の上だが、思いだけでも上を向けたことは決してマイナスではないとも思う。

レースがどうだとか、このくらいの記録を目指そうとか、それよりも先ずは走れる足を手に入れること。

自分でもそんなことを思うとは思っていなかったが、やはりそんな気持ちになったのは若いチカラを見せつけられ、そしてそのエネルギーの発端をいくらかでもいただけたおかげだろうか。

”生涯ランナー”の目標は意外なところから熱いエネルギーを補給された。



走友からGPS搭載の時計を譲り受けた。

それもまた走る活力として注入されたエネルギーのひとつだ。

どうも自分の消えかかっていた心情や情熱を多くのひとが読み取っているようだ。

もっと走れと、腕を掴まれ強引に引っ張られる。

そうして惰性でもエンジンがかかればと、まるで大昔の車の押し掛けのように。

さて、それで見事エンジンはかかったかと言えば、そうだ、不完全燃焼を起こしバコバコ黒煙を吐きながらでも何とか動き始めたエンジン。

それはそれで感謝でもあるし、ランナーとしての”命の恩人”でもある訳で、感謝を申し上げなければいけない。



職場の障がい者君たちからもパワーをもらっている。

毎日走っているという、そんな彼等。

”走るのが楽しい”と。

ほう、凄いじゃないかと言うと、仕事などでは絶対に見せない、自信たっぷりの笑顔を見せる。

冗談でサッカーグランドを数十メートル走り、”う~う、もうダメだ~”と、うなだれて見せると、本気になって怒られる。

”そんなんじゃマラソンは走れないよ”

”そうだよな~、もっと練習しなきゃな”

まるで、鬼コーチのような彼等だ。

よし、走るぞ。

彼等に褒められるようなランナーになれるまで。
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