”いつものあのひとじゃない”
”いつ、早くなったんだ!?”
きっとランナーにとって、そう言われるのが、至福の時じゃないかと。
辛い練習は、好きじゃない。
そりゃそうだ。
誰だって苦痛に顔を歪めるほどの時間を過ごしたくないのに決まってる。
例えば、魔法の呪文を唱えたら、キロ3分のスピードを笑顔でこなせる。
例えば、一足100万円もするシューズだとしても、それを履いたら軽々とトップランナーに肩を並べる走るができる。
例えば、奇跡の手術を施してくれる博士が、アンドロイドのごとくマッハで走れる足と交換してくれる。
残念だが、そんなモノはどの世界にも存在しない。
もしあったとしても、それは自分の力ではなく走るためだけに作られたロボットのようなもの。
それでは少しも面白くない。
だったら自分の力をどう磨きをかけて、ライバル、仲間たちを唸らせることができるのか。
やはり誤魔化しはいけない。
要するに練習の量、質を上げるしかない。
そう誰でも簡単に答えるだろう。

では、目指す走りは、目標は。
元々、長い距離を走るのはいまさら言うのもなんだが、苦手な部類だ。
それがどうした訳か、マラソン42.195kmを走ることを生きがいとしてきてしまった。
これを神様の悪戯と言うのなら、まったくその通りだと思う。
スパイクを履いて、タータンのトラックを10数秒で走る。
ボールをドリブルして瞬発的に相手を振り切る。
そんな競技に明け暮れていた。
3時間も4時間も走っているのなら、20分で終わる5kmの方がまだマシだとメタボ解消にと走り始めた頃はそう思っていた。
余った時間で映画の一本も観られるじゃないか。
せっかくの休みなのに走って終るなんて最悪だ。
そう思っていた。
ところが、どんな気まぐれか、フルマラソンの世界に足を突っ込んでしまってからは、殆どスピード練習なんて無縁のものになってしまった。
フルマラソンにスピードなんて必要なの?
いつでもそう思っていた。
だが、ある程度までタイムが上がると、どうしてもその先のスピードが足りなくなるのを感じた。
スピードが足りないんじゃなくスピードを維持する力がない。
その為のスピード練習は、短距離に必須のトレーニングとはまったく別物。
が、やってみると意外とそうでもない。
トップスピードが上がれば維持していられるスピードもレベルが上がる。
要するにかけっこは短距離も長距離も変わりはないということだ。
しかし、今更スピードを養って、何を目指すんだと思った時、何もない。
正しく何もないのだ。
巷ではトラックにてマスターズの記録会みたいなものは開催されているらしい。
が、そこまでの情熱も拘りもない。

ただ、まだあの人は走れるんだ、そう思われるだけで充分でもある。
その為に、さび付いて動かなくなった足に、潤滑油を注入し、風のごとく走れるようになりたい。
生まれたばかりの子がよちよち歩きからやがて走り、そして目も止まらぬようなスピードで走れる力を身に付ける。
それとは逆に、走れていた足はあるピークを越えるとよちよち歩きの老人へと落ち込んでいく。
そのカーブに今、逆らおうとしているのだ。
描いたグラフのカーブに突発的な強い振動が加わり、描くカーブに尖った部分が発生する。
その尖った部分の高さと幅はこれからどれだけの練習で大きくなるかは、自分のからだの強さと気持ち次第。
それをある意味、命を懸けて試そうというのだ。
痛いから動かない。
苦しいから止まる。
きっとそんな気持ちとの戦いだろう。
それに打ち勝ったとしてもなんの勲章にもならない。
全ては自己満足の為だ。
愚かな老人と笑われるかもしれない。
でも、まさにそれが自分なのだ。
肺が膨らむ柔軟性を越えてぽっかりと破裂してしまうかもしれない。
心臓の肥大により血液を送る力を失って生命自体を脅かす事態に陥るかもしれない。
それでも自分は自分の本質と言うものには逆らえないものだ。
体重を減らそう。
痛める可能性のある部分の強化も忘れずに。
そうして老人ランナーはスピードの世界に立ち戻っていく。
”いつ、早くなったんだ!?”
きっとランナーにとって、そう言われるのが、至福の時じゃないかと。
辛い練習は、好きじゃない。
そりゃそうだ。
誰だって苦痛に顔を歪めるほどの時間を過ごしたくないのに決まってる。
例えば、魔法の呪文を唱えたら、キロ3分のスピードを笑顔でこなせる。
例えば、一足100万円もするシューズだとしても、それを履いたら軽々とトップランナーに肩を並べる走るができる。
例えば、奇跡の手術を施してくれる博士が、アンドロイドのごとくマッハで走れる足と交換してくれる。
残念だが、そんなモノはどの世界にも存在しない。
もしあったとしても、それは自分の力ではなく走るためだけに作られたロボットのようなもの。
それでは少しも面白くない。
だったら自分の力をどう磨きをかけて、ライバル、仲間たちを唸らせることができるのか。
やはり誤魔化しはいけない。
要するに練習の量、質を上げるしかない。
そう誰でも簡単に答えるだろう。

では、目指す走りは、目標は。
元々、長い距離を走るのはいまさら言うのもなんだが、苦手な部類だ。
それがどうした訳か、マラソン42.195kmを走ることを生きがいとしてきてしまった。
これを神様の悪戯と言うのなら、まったくその通りだと思う。
スパイクを履いて、タータンのトラックを10数秒で走る。
ボールをドリブルして瞬発的に相手を振り切る。
そんな競技に明け暮れていた。
3時間も4時間も走っているのなら、20分で終わる5kmの方がまだマシだとメタボ解消にと走り始めた頃はそう思っていた。
余った時間で映画の一本も観られるじゃないか。
せっかくの休みなのに走って終るなんて最悪だ。
そう思っていた。
ところが、どんな気まぐれか、フルマラソンの世界に足を突っ込んでしまってからは、殆どスピード練習なんて無縁のものになってしまった。
フルマラソンにスピードなんて必要なの?
いつでもそう思っていた。
だが、ある程度までタイムが上がると、どうしてもその先のスピードが足りなくなるのを感じた。
スピードが足りないんじゃなくスピードを維持する力がない。
その為のスピード練習は、短距離に必須のトレーニングとはまったく別物。
が、やってみると意外とそうでもない。
トップスピードが上がれば維持していられるスピードもレベルが上がる。
要するにかけっこは短距離も長距離も変わりはないということだ。
しかし、今更スピードを養って、何を目指すんだと思った時、何もない。
正しく何もないのだ。
巷ではトラックにてマスターズの記録会みたいなものは開催されているらしい。
が、そこまでの情熱も拘りもない。

ただ、まだあの人は走れるんだ、そう思われるだけで充分でもある。
その為に、さび付いて動かなくなった足に、潤滑油を注入し、風のごとく走れるようになりたい。
生まれたばかりの子がよちよち歩きからやがて走り、そして目も止まらぬようなスピードで走れる力を身に付ける。
それとは逆に、走れていた足はあるピークを越えるとよちよち歩きの老人へと落ち込んでいく。
そのカーブに今、逆らおうとしているのだ。
描いたグラフのカーブに突発的な強い振動が加わり、描くカーブに尖った部分が発生する。
その尖った部分の高さと幅はこれからどれだけの練習で大きくなるかは、自分のからだの強さと気持ち次第。
それをある意味、命を懸けて試そうというのだ。
痛いから動かない。
苦しいから止まる。
きっとそんな気持ちとの戦いだろう。
それに打ち勝ったとしてもなんの勲章にもならない。
全ては自己満足の為だ。
愚かな老人と笑われるかもしれない。
でも、まさにそれが自分なのだ。
肺が膨らむ柔軟性を越えてぽっかりと破裂してしまうかもしれない。
心臓の肥大により血液を送る力を失って生命自体を脅かす事態に陥るかもしれない。
それでも自分は自分の本質と言うものには逆らえないものだ。
体重を減らそう。
痛める可能性のある部分の強化も忘れずに。
そうして老人ランナーはスピードの世界に立ち戻っていく。