風をうけて vol.3

お引越ししてまいりました。
拙いブログですがよろしくお願いします。

その出口が見つからない。

2024-10-25 04:06:27 | 日記・エッセイ・コラム
毎朝のルーティン。

背伸びをしてくしゃみを三回。

思いっきり鼻をかんでから、少し落ちつかせ、それから血圧測定。

普段は上が120台で、下が70から80の間。

まあ、今日も落ち着いてるわねと、それからコーヒーを一杯。

そうして、一日の活動が始まる。

午後7時以降は一切パソコンも携帯を手にすることはなく、社会との連絡を絶っているからその朝一番でその辺りをチェック。

殆どはその辺を承知している周囲のひとたちだから、急を要するメールやメッセージ以外はない。

強いて言えば、”明日、休暇をとります”くらいな連絡が来るくらい。

ところが最近、この安定した朝の様子に危険因子がすき間をこじ開けて入り込もうとしている。

先ずは、血圧。

どうしたことか上が140を超えるようになってしまった。

いつものように、いつもの食事内容。

仕事を頑張り過ぎていると言うこともない。

もし、仕事上の何かが負因しているとすれば、それは退職に関することか。

確かにストレスは相当かかっている。

ドラマで誰かが言ってたが、離婚は結婚よりもエネルギーを使う”だそうだ。

それを仕事、会社に当てはめると、”入社より退社の方がエネルギーを使う”と言うことになる。

自覚はないが、知らず知らずのうちにかなりのエネルギーを浪費しているのかも知れない。

技能技術の伝達や諸問題の解決法。

この数年で身につけたスキルを残る同僚たちにどう残していけばいいのか。

憎まれても嫌がれても、それが障がいを持つ子たちへのおみやげとなる訳だ。

それが要因1としたら、もうひとつ要因2も存在する。

メールチェック、メッセージに一通り目を通し、その後に開くハローワークの求人情報。



退社があるのなら入社も考えなければならない。

残念ながらまだ悠々自適な生活、年金暮らしという年齢でもなければ経済状況でもない。

遊びに行くわけではないが、他の職に触れてみるのも楽しいかも知れない。

が、今自分がどんな世界に興味を抱いているのか、それがない。

となれば当然、理想の職場、職業が見つかるはずもない。

当然経済のことを考えれば時給も気になるし、従業員数などの会社の規模や環境だって大きな問題だ。

無いもかもが手探りの求職活動。

退職の日が近づくにつれ、焦りに似たジリジリとする気持ちになってきている。

毎日、更新されていく求人。

多くは介護、看護、物流に関するものが多いが、そのどれらも資格の問題もあり自分のできる職業ではない。

各職場のバックヤード的な職種、製造、福祉、警備が目一杯と言ったところか。

人手不足年齢制限も大きな壁となっている。

もし、それらが血圧上昇の要因だとしたらしばらくは落ち着くことは無理か。



スカッとしたいと、走りたいと思っている。

が、様々な事情からまったく走れない。

時間がない。

体調に変化があり、走りたくとも走れない日もある。

おまけに週末の天候も悪さをする。

更に言えば、就職の関係上、今から数か月先のレースを申し込むことも無理だ。

せっかく申し込んでも仕事上の都合でその申し込み金が無駄になってしまう可能性が大きい。

まったくどうしようもない今だ。

八方ふさがりとはこのことを言うのだろうか。

すべてのストレスから解放されるのはいつになるのか。

目処の立たない暗闇ほど苦痛はない。
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ふりだしにもどる。

2024-10-15 04:20:31 | 日記・エッセイ・コラム
どうにもこうにもダメだ。

20kmくらいなら普通に走れていたのに。

もう10kmも走ると疲労困憊。

あごが上がり息も絶え絶え。

こんなにも走れなくなったのかと愕然とする。

それなのに気持ちだけはまだ行けると威勢がいい。

ダメだダメだダメだ。

来月早々、ハーフを走ろうと思っている。

余裕があれば仮装ランでと思っていたけど到底無理。

もう大会を走るのは辞めた方が良いのかも知れない。

距離とか時間とか、もう拘らないで自分の好きなペースで健康維持だけを目的に走る。

負荷をかけない気ままなラン。

スタイルを変えるのもひとつの手だと思うが、さて、どうしたものか。



11月いっぱいをもって退職する運びとなった。

3年と9ヶ月の間、障害を持つ子たちと過ごした毎日。

それはそれは勉強にもなったし、大変だったし、そして面白かったし。

もっと長い時間、ここで過ごすと思っていたが気持ちが切れた人間の居場所はない。

何度も上司との引き留めの話し合いが行われたが最後は自分の気持ちを押し通した。

会社の形態も変わろうとしている。

本社の雇用延長の就労と給与条件に少なからず不満を抱いている方が出向という形で移動してくる。

当然、嘱託社員としての我々よりも”生え抜き”の社員たちだ。

社員としてのプライドもあるのだと思う。

立場の違いが大きな壁になる気配がアリアリだ。

しかし、そう簡単なモノではないと思っている。

障がいを持った子たちとのコミュニケーション、それに木々の剪定は専門的な知識と技能を必要とするが、その様なものに興味のない方々が立場や不満だけで移動してきても不都合が生じるだけだと思う。

そんな状況の中、今以上のストレスを抱えながら続ける意味hがない。

言葉は悪いが”すたこらさっさ”だ。



さて、再び始まる就活。

どんな職種を選ぼうかと思案中だ。

が、年齢も年齢なのでこちらが選ぶような贅沢は言ってられない。

ともかく、自分のできうる仕事、ある求人に乗るだけだ。

それであってもやはり”人生においてあらゆる経験を積める”ような職種がいい。

走るような体力は衰えたとしても、まだ人波には働けるのではないかと思っている。

できれば12月からでもいい。

切れ目なく働く。

あと何年働くことができるのか分からないが、そう長くはない時間。

無駄にはしたくない。

就活が終活にならぬよう、健康にはくれぐれも無理のないよう、これまで通り頑張るつもりだ。



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”やめる”ということ。

2024-10-04 05:24:59 | 日記・エッセイ・コラム
今勤務している事業所。

これまでに3回の退職交渉。

”しばらく休んで、その後復職という選択肢を”

いわゆる引き留め工作、なのかもしれない。

グズグズとすでに2ヶ月。

その間に同僚のひとりはガツンと退職願を提出してしまったらしい。

その同僚の仕事内容は特殊な部門に属するのではないかと思うほど、専門性が高い職種。

他のものが従事し、今まで通りに回すのには相当な時間が必要と思われるが、それを上司たちはどう考えているのか。

私以上に引き留めを考えなければならないと思うのだが、それがそうでもないらしい。

このまま同僚が退職した場合、この事業所は最大のピンチに陥るのではないかと危惧するのは私だけかもしれない。

と、そもそも、そんな事情を知っている、打ち明けられたのは私だけ。

無いも知らない、能天気に普段どうりの仕事に就く他の同僚たち。

そんな場合じゃないのにと、その事を告げることもできずもやもやする毎日。

次回、10月10日にもう一度上司と退職に関する相談を取り付けてあるが、もっと厳しい引き留め工作が告げられるのではないかと冷や冷やしている。



”ひとの気分を最大限に悪くさせる才能”

今年入社した同僚である。

その同僚が半分。

もうひと方。

”ひとの気持ちをズタズタにする才能”

このふたりの影響でこの事業所の退職を決めた訳だが、当の本人たちは自分の言動に何の疑いもなく、今もなお、ひとを苦しめている。

世の中は広い。

しかし、半世紀以上生きてきた中で、こんなにデリカシーのない人物が存在するのだろうかと、しかもこんな狭い場所にふたりとは。

開いた口がふさがらない。

さらに、ひと方は恐らく認知症の入り口に片足を踏み入れた、いいえ、両足かも知れないが、もう何度、何十回も同じ話を聞かされているし、重要な伝達を何度も忘れ、その度に迷惑を被る。

自覚があるのだと思う。

”すぐに忘れちゃう”

と、笑いごとで済ませられてしまう。

”人の振り見て我が振り直せ”

ああ、、、もしかしたら自分もそうなのかもしれない。

自覚があるだけまだマシなのかも。

果たして自分は?

老いは忍び足でやってくる。



今シーズン、フルマラソンは止めようと思う。

フルマラソンだけではなく、ハーフを走る回数も減らそう。

5km、10km、その辺りをメインに、と思っている。

持久力を養うには時間がなさすぎる。

心肺の能力ももちろん落ちているが、それ以上に持久力がない。

正直、10km走るのがやっとといった具合だ。

脳の機能だけではない。

筋力はもっと老化が激しいのかも知れない。

なんとも情けないお話だが、マラソンの競技に決まった競技種目の距離を短くするようなハンデはない。

だったら自ら短くしていくしかないだろう。

ああ、、、いったい自分はあとどれくらい走っていられるのだろう。
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勤続疲労

2024-10-02 04:30:00 | 日記・エッセイ・コラム
俗に言う”継続は力なり”は、これまでの自分にとって金言だった。

が、近頃、その金言に変化を感じている。

”継続は疲労なり”

普段の生活の中で疲れを感じる物事が多すぎるなと。

力の上乗せになるどころか、その力を削ぎ落されているんじゃないかと。

一度走ると2,3日はダメ。

大した距離でもなければ、目を見張るようなスピードでもない。

その日は気持ちよく終えても翌日から筋肉痛じゃない、嫌な痛みがあちこちから湧き出てくる。

そうして走れない毎日を過ごす間に筋肉は贅肉に変わり無駄な重量を背負うことになる。

益々走る力はあぶくの様に消えてゆく。

いつもの野菜を種から撒けば、暑さにやられて思うような苗ができない。

種を購入して育てるより、売られている苗を買ってきた方が安全で確実だ。

今までやってきたノウハウはこの自然現象に打ち勝つことができない。

貧弱で勢いのない苗を見るのは辛く、それまでの手間や労力が焼かれた石の上に落ちた水滴の様にあっという間に蒸発していくかのようだ。

普通にやってきたことが普通にできないもどかしさ。

腹の奥からじりじりとくるこの感覚、まるでとげの鋭いカマキリでも飲み込んでしまったようだ。

胃袋の壁をその鎌で搔きむしられるのをどうしても抑えきれない。

先を生きてきたひとたちはみな同じ”老”という重石を背負ってきたのか。



例えば、今の視力がさらに落ちるとする。

朝起きた時のねっとりした薄膜にじゃ名をされるような薄ボケた視界しかなくなったら、そのまま車を運転することなどできなくなる。

例えば、今抱えている腰痛が悪化したなら、畑仕事どころかトイレに行くことさえも難儀に感じるだろう。

この家は自分の家。

それが当たり前のことと思っていたが、もし認知症が進んで、徘徊や日常生活に支障が出てきたなら、自分はこの家にとどまることが果たして良いことなのか。

家族に対してこの家は自分の家だと、だからここのとどまるのだと威張って言えるのだろうか。

昔ほど家に対する責任や執着とか、今は無いというか、持ってはいけないものかもしれない。

その証拠にご近所、知り合いの周りには空き家となって朽ちていく家のなんと多いこと。

墓にしてもそうだ。

今の時代、守って行くものは位牌でもなければ墓地でもない。

生きていく人間のその生活が最優先され、先祖の功績や努力は神話のごと言い伝えられればまだマシの方だ。

変っていく地球、世界、そうして人々の生活。

もはや、それを悲しんで嘆くしかないのだろうか。



迷っている。

まだ働くのかと。

給金を得るためにまだは足らなければならないのか。

今月からお国から支給される老齢年金。

それだけで暮らすのには高騰する物価が足かせになるが、暮らせない訳でもない。

”継続は疲労なり”

益々、疲労が蓄積されるのは当然だが、得ればもっと余裕をもって生活を送れる。

からだはまだかろうじて動く。

それなりの仕事量もこなせるだろう。

だけど、その力を金銭だけの為に無駄遣いしていいのかと。

悩む、悩む。

今の事業所の退所はもう近い。



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