見かけたことがあるじゃろうか。
不幸なことに交通事故にあい
ぺしゃんこになった亡骸や
子供を連れ、公園の森の中などを
うろついている姿を見かけた者も
少なくなかなかろうて。
そもそも、タヌキ。
この者たちは人里離れた
小高い山や林の中をねぐらとしていたケモノなんじゃが、
人間たちの勝手な乱開発のおかげで居場所をなくし
仕方なく降りてきた人間の住む街が、意外と美味しいえさに溢れ、元々グルメな
奴たちが人間の目の届かぬ街の隅っこで暮らし始めたのが悲劇の
始まりなんじゃな。
そんなタヌキの物語が遠い昔からある街があるのじゃよ。
「分福茶釜」の昔話をご存知かな。
この街の「茂林寺」というお寺に
伝わる伝説なのじゃが
罠にかかったタヌキを助けた村人のお礼に
タヌキが茶釜に化け寺に売られたそうじゃ。
しかし火にかけられた熱さでつい頭と手足、
尻尾を出してしまい逃げ出てしまうが、
今度はその姿で綱渡りを見せ
人気の興行になり裕福な暮らしが
できるようになったという民話じゃ。
しかし、これは言い伝えを子供用に編集しなおしたものじゃて。
本当はな、1570年に大きな会合があったこの「茂林寺」というお寺。
1000人ものお坊さんが集まることになった訳じゃが、そんなにたくさんの
お坊さんにお茶を出さねばならぬには大変な量のお湯を沸かさなければ
ならなくなったのじゃ。
その当時、伊香保から来たという「守鶴」という名のその寺に使えていた者
がおったそうなのだが、その者がどこからか湯釜を持ってきたそうなんじゃ。
枯れることがなく湯が湧き出して
きたそうじゃ。
また、その湧き出したゆを飲むと
開運出世、長命長久など
八つの功徳が得られたのじゃそうだ。
全く不思議でありがたいお茶だったんじゃな。
で、ある日そんな守鶴さん、
寝てる間に手足に毛が生え、
尻尾が出てきちゃったからご住職も村人もびっくり。
で、その守鶴さんは源平屋島の合戦や釈迦の説法をといた後
狢(むじな)に姿を変え、感涙に咽ぶ人たちを尻目に飛び去ったというのが
本当の分福茶釜伝説らしいのじゃが、今でもその湯釜がそのお寺に
展示されとるそうじゃぞ。
で、果たしてその性能はというと・・・???なのじゃろうけどな。
今、
この寺に
行って見ると
タヌキ一色、
決して
かわいい
連中とは言い切れんが、今度は工事が終わって、拝観できる時間に
行って観たいものじゃな。
そもそも、この街の「狢の伝説」が何故タヌキに変わったのかという問題なんじゃが
実はなこのお寺の裏手には広大な湿地帯が広がっており
綺麗に
整備され
おるのじゃが
その
当時のことじゃ、
ケモノや野鳥の楽園だったに違いなかろうて。
「狢(むじな)」がタヌキとなって言い伝えられても不思議では全くないんじゃな。
おりしもこの街にお城が築城された40年後のことじゃった。
そうそう、この街にはもうひとつケモノにまつわる伝説があってのう。
この一帯を
赤井照光さんという
武将さんが治めて
おったのじゃが
その赤井さんが築城の際に老狐に
尻尾で縄張りを示されたそうじゃ。
その伝説の由来をもとに名づけられた城で、名を「尾曳城(おびきじょう)」と
いうそうじゃ。
本丸跡や
その
周辺には
尾曳神社、
八幡宮、
旧秋元邸(舘林藩最後の藩主宅)などが今でも市民の誇りとして、
そして観光地として活躍しとるんじゃな。
(前記事 ラン再び、その2を参照してください)
全く静かなたたずまいで、その当時から戦乱の世を生き抜いてきた
その荒々しい過去を見せぬ雰囲気は歴史の長さを感じずにはいられんな。
しかも、タヌキとキツネの伝説の街、なんとも不思議な街じゃのう。
「田山花袋」さんの生家や資料館。
また近代ではな、宇宙飛行士の
「向井千秋」さんの出身地でもあることから
科学館なども整備されておってな
一日いても飽きない街となっておるんじゃ。
そんな街におると道端で不幸にも命を落としてしまった
タヌキやイタチなどの哀れな姿を思い出してしまい
心が痛むんじゃな。
人間が知恵と言葉を神から授かった
その責任と義務は、そんな事を
うまく考えていくために使えとの事のように
思うのじゃが、皆はどう思うのかな。
「昔は良かった・・・。」
そんなことを思っているケモノたちの為にもな。