【第一章 一路は『もしドラ』と出合った】
つい最近、今をに賑わすアイドルが主演で作られた
「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの
『マネジメント』を読んだら」と言う映画を観た。
巷では「もしドラ」といわれ、結構話題となった作品。
それがテレビで放映されたようで、
誰かがそれをビデオに撮り溜めておいていたもだ。
私自身、その作品に興味があった訳ではなく、
退屈な日の暇つぶし感覚で、どうせ・・・なのだろう程度に
再生ボタンを押してみた。
ところが、これが実に面白かった。
アイドル達の演技はともかくとして、その内容にいつのまにか引き込まれていった。
それは主人公のみなみがひょんなことから高校の野球部のマネージャーとなり、
マネージャーとしての仕事を学ぼうと書店に出向く。
しかし店員に勘違いをされ手渡されたのが企業経営の為に書かれた
P.F.ドラッカー著の「マネジメント」と言う本。
だがこうして間違われた書籍を参考にし、やがて弱小チームだった野球部を
甲子園出場へと導くと言った内容。
私は企業経営にはまったく興味もないし、その資質もないが一応こう見えても一企業人。
P.F.ドラッカーなる人物も「マネジメント」なる著書もまったく知ることもなかったが
この「もしドラ」の中に時々出てくるドラッカーの“名言”にグッとくるものを感じていた。
しかし、映画は映画。しかもアイドルの主演で。。。
もしかしたら脚色された台詞にへと変えられていられるかも知れないとの疑惑が湧きだし
ならばどその原作を手に入れようと思うようになった。
と言っても、著書「マネジメント」に興味が湧いた訳で
企業経営、マネージャーに興味が湧いた訳ではない。
しかし、残念な事に私の行く小さな本屋にその本が
置かれている事はなく、代わりに映画の原作が棚に
並んでいた。
既に“旬”を過ぎてしまっていたのか、棚の隅っこにぽつんと。
迷わずその本を手に取る。
殆ど新品で本を購入する事のない私には異例の事。
まったく欲のない企業人一路はその一文でもそのドラッカーの言葉に触れ、
現行のマネージャーなる人物の資質及び手法に間違いがないか
検証してみようと底意地の悪さを発揮すると同時に
もしこの映画のように“ランナー一路をマネジメント”したら
ひょっとして面白いかもしれないなと、ふっと思ったのであった。
(画像はお借りしました)
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【第二章 一路はランナー一路のマネジメントに取り組んだ】
そもそも「マネジメント」とは何ぞや。
この「もしドラ」によればマネジメントとは、管理、処理、経営とある。
要するに企業や野球部のマネージャーならばその組織を
統括・管理する人物の事を言うらしい。
現にわが社にもそのマネジャーと言う人物が存在し、事業の概の責任を任され
いわゆる上司と呼ばれるように数十人を統括するボスとしてその座に君臨している。
しかし、ほぼひとりで活動するランナーにとって、マネージャーと言う存在があるとしたら
よほど恵まれている選手を除き、管理をするのも管理をされるのも自分と言う事になる。
それならば確かにランナー全員にマネージャーと言う役割を持った部分は自分の中に必ず
存在する訳で、マネジメントと言う手段は既にすべてのランナーが
実践していると言っていいと思う。
しかし、この「もしドラ」同様に“弱小チームのランナー一路”はマネジメントについて学び
再構築されたマネジメントによる“新しいランナー一路”を生み出すのも悪くはない。
それにより更なるスケールアップ、パフォーマンスの向上を図れれば申し分ないのだ。
さて、この「もしドラ」の主人公みなみがマネジメントを学ぶに当たって、
まず最初にドラッカーの手法から組織の定義づけというものを行わなければならなかった。
そこでぶつかった壁が『定義』とは何?ということ。
ここで高校野球の定義を探る過程において
ドラッカーは
外部、即ち顧客と市場と言う観点からみれば答えが出る
と解いている。
高校野球の顧客とは営利を目的としない団体ゆえ、ここでの顧客とは高校野球にかかわる
全てに者が顧客との答えに至り、そこで高校野球の役割とはその全ての顧客を
感動させる事こそが高校野球の定義だとの答えを導き出した。
それでは市民ランナーとして、ランナー一路としての定義とはなんだろう。
そこでみなみが定義を導き出したようにランナーにとっての顧客を考える。
トップランナーであれば沿道や競技場で声援を送るファンに感動を与える事は
ひとつの役割かもしれないし、実業団選手ならば結果を出し企業の広告塔としての
役割を果たす上で、その企業の収益にかかわる存在こそが実業団ランナーにとって
顧客となるのだろう。
しかし、市民ランナーとなれば話はまったく違ったものとなる。
高校野球同様、本人にとってマラソン自体が営利や利益を目的とした活動ではなく、
あくまでも趣味の世界のものであり、それでもあえて導き出すとすれば
沿道で応援をしてくれる方々も確かに顧客とはいえると思うが、
それは顧客としては小さいもののような気がする。
また市民ランナーならば家族の協力は多少なりとも必要なのだが
やはり顧客というのには私の場合残念ながらなりえない。
何故ならば我が家の者たちにはマラソン大会というものにまったく興味を示さず
私が走る姿さえ見ることはない。
となれば、やはり顧客と言う観点から見るとたぶん私に限って言えば
私自身が顧客であり、自分の為に走っているという事にすぎないのではないだろうか。
その中で喜びや達成感を感じ、走る魅力に取り付かれ今尚走り続けているのだから。
と言う事で、ランナー一路の定義は 『自己満足』 となるようだ。
とすれば、目標も自ずと決まってくる。
要するに顧客、即ち自分が満足する走りが出来れば目標を達成できるわけで、
答えは単純明快。
もっともっと速く、そしてもっともっと長く走れるようになれば良いだけである。
しかし、その言葉以上にこの目標の達成は果てしなく遠いところにあり
限界がないように思えるのも確かなのだが。
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【第三章 一路はマーケティングに取り組んだ】
ドラッカーの言葉に
企業の目的は創造である。したがって企業はふたつの基本的な機能を持つ。
それがマーケティングとイノベーションである。そのマーケティングとイノベーションだけが
成果をあらわす。
と、ある。
マーケティングとは市場調査であり、イノベーションとは革新と言う意味である。
「もしドラ」ではある野球部のマーケティングと称し、部員ひとりひとりとの面接を行い
それぞれの気持をマネージャーが把握。
それまで蔓延していた不満やら不安を払拭し、もっとも重要であるプレーの質や
練習内容を一新することによりチームのレベルアップに役立てていた。
もちろん企業にとってもまったく同じことが言える。
組織にとってのコミュ二ケーションの重要性は身を持って体験しているし
それを欠いた組織に成功はないだろうと思う。
では、ランナー一路も面接と称し自問自答をしてみよう。
ここ最近悩んでいる事なのだが、暑さのためなのか、それとも疲労の蓄積なのか
まったく不甲斐ない練習内容にガッカリさせられている。
距離も走れず、スピードも上がらない。
イメージする走りとは程遠い内容に投げやりになる事もしばしば。
いったいどうしたら良いのか悩みは増すばかりだ。
せめて解決策の一端でも見出す事ができれば幾分気持的も楽になるような気もするのだが
今のところ入り込んだトンネルの出口も方向さえも見えないでいる。
できない走りは練習でこそ取戻すしか手立てはない事は分かっているのだが・・・。
「もしドラ」では、みなみの掲げた目標の「甲子園出場を目指す」をメンバーに伝えた当初、
ただの夢物語であり得ない話と誰も相手にしていなかった。
一般に甲子園出場といえばそれまでの弱小チームからすればそれは非常識。
意識と言うものは常識という狭い殻のなかから無理やり引き出す事で改革され、
そうして行動と成果に表れる。
今の自分の常識とは
〔暑さの中でのランから生み出されるものはない〕
しかしこれはいかにも常識であって本質の部分では非常識なのかもしれない。
そうした意識こそが今の不調を物語っているのか。
また、ドラッカーは
生産的な仕事を通じて、働く人たちに成果を上げさせなければならない。
と、言っている。
だが、今はそれが意識に阻害されまったく実現できない状態。
成果とはそれに見合った行動をとることで現実され、その行動をとらないことが
更に成果を下げる負のスパイラルに陥っているのだと思う。
更に続けて
仕事には働きがいが必要とされ、働きがいを与えるには、仕事そのものに
責任を持たせなければならない。
とも言っている。
ランナーにとって働きがいとは、走ることにほかない。
要するに気持ちよく走れることこそが働きがいであり、そこにこそ責任が存在する。
走ること、即ちそれこそがランナーとしての使命であり責任でもあるのだ。
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【第四章 一路はイノベーションに取り込もうとしている】
弱小チームであったこの「もしドラ」の野球部のイノベーション(革新)とは、
古い常識を打ち壊し、新しい野球を創造することによって高校野球界の常識を変えて
いくという事だった。
ドラッカーは
イノベーションの戦略の一歩は、古いもの、死につつあるもの、陳腐化したものを
計画的かつ体系的に捨てることである。
とあり、
この「もしドラ」では送りバントとボールを打たせる投球術を捨てた。
これはあくまでもこの物語の中でのものなのかもしれないが、戦法としては面白い。
この野球部の定義である「感動を与える」と言う中で考えてみれば
実に的を得た考えなのかもしれない。
実際の高校野球でこれが通用するかどうかは別として、
これこそがイノベーションなのだろう。
またドラッカーは
イノベーションとは科学や技術そのものではなく価値である。組織の中ではなく
組織の外にもたらす変化である。
とも言っている。
そうした考えの中で、ランナーとして何を捨て、何に変化を求めるのか。
昨今のブームにより、フォームにしても練習メニューにしても
更にはシューズやウエアに至るまで日々研究され、それぞれ色々な形態を取りながら
変化を遂げているランニング事情。
言い換えれば、何を信じ、何を目指せば良いのか迷う事も多い。
しかし、真実はひとつだけ、とまでは言わないが、そうそう自分の求めるものに
出くわす事はかなり少ない。
時に情報と言うものは混乱のみを生み出し、真実から遠ざけてくれる。
惑わされない意志の強さは強力な武器になる反面、更なるステップアップについては
足かせとなる事もありえるのだ。
ここでは捨てていくものを考えて行かねばならないのだが、
確かに現在、自分の練習メニューや情報、持ち合わせているアイテムのなかで
間違った部分、不必要な部分は当然あると思われる。
これはあくまでも個人的な考えであり、周囲に迷惑をかける可能性もあり
明確な表現はできないが、ともかく焦点にあわせた計画と有効な手段の実行こそが
私にとっての最大のイノベーション。
薄々は感づいてはいたが、やはり加齢と共に焦点はなるべく狭め、
縛られた重りははずした方が良い結果を生み出す可能性は高くなると思う。
あくまでも意識の中での話しになるのだが、捨てていかねばならないものは今この機会に
サッパリと捨て去る勇気も必要なのだとこの「もしドラ」は教えてくれた。
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【最終章 一路は真摯さとは何かについて考えた】
この本の冒頭のドラッカーの言葉に
マネージャーの根本的に必要な資質は真摯さである。
と、ある。
また、
マネージャーにできなければいけないことは、その殆どが教わらなくとも学ぶ事ができる。
しかし学ぶ事のできない資質、後天的に獲得できない資質、始めから身につけていなければ
ならない資質がひとつだけある。才能ではない。真摯さである。
と、胸の奥をぐさりと刺されるかのような言葉がある。
「もしドラ」のみなみはこの真摯さと言う言葉に強い刺激を受けていた。
そして、その真摯さをもってチームを予選の決勝まで導いた。
しかし、そこで親友である夕紀を病気で失う。
闘病で苦しんでいた事を知らないみなみは夕紀にプロセスよりも結果を大事にすると
以前口にした自分を責め自暴自棄に陥いり、その場から走り去った。
しかし、同じマネージャーである文乃に逃げてはいけないと諭され、再び決勝の球場へ。
そう、真摯さとは逃げないことなのだ。
そして接戦を制したチームは甲子園への切符を手に入れる。
友人の死と定義である感動を同時に経験するみなみ。
ここは不謹慎だが笑おうとするみなみは結局激しい嗚咽と共に泣きじゃくってしまった、
と言う感動のラストストリー。
私にとっての真摯さとはいったいなんだろう。
企業においてマネージャーとなることはまずない。
その気もないし資質としての真摯さもない。
では、ランナー一路のマネージャーとしての資質はどうだろうか。
真摯さは存在するのだろうか。
みなみが冒頭でショックを受けたこの言葉に自分は答えられることができるのだろうか。
毎日真剣に練習を取り組むだけが真摯さではないと思う。
時には手を抜くことも、時にはサボることもあると思う。
しかし、決して逃げてはいけない。
一生をランナーとして走り続けようと思う情熱があれば、
それは私なりの真摯さではないかと思う。
マネージャーとしての資質はこれからの私の行動に証明されるのだ。
今、底に沈み、出口の分からないトンネルに入り込んでしまった自分に
一筋のひかりを差し伸べてくれたこの「もしドラ」
アニメであり、アイドル主演の映画であり、オタクっぽい表紙の小説との出会いは
今このブログのタイトルどおり、「ひかりの道標~あしたへ~」となった事は
まったくの偶然であったのだろうか。