
ようやく分かった気がする。
前回の30km走の練習でなんとなく楽しくなっちゃった訳が。
「闘争心」、「反骨心」、そういうものがほとんどなくなっていてしまった・・・。。
要するに30kmという距離を走るんじゃなくって30kmという距離を”行っただけ”。
だから楽しくなった。
元々練習ってある意味厳しいところがあって、必ずその日には反省や採点が下される。
だけど、目標らしい目標もなく、ただ漠然に走っているだけのものは練習とは言わないかもしれない。
その確たる証拠となったのが今回の「前橋・渋川マラソン」だったのかもしれない。

練習量は過去最低。
体重は過去最高で臨んだ大会。
それなのにキロ5分だとか、キロ5分30秒だとか、そんな夢みたいなことばかり考えていて結果はもちろん大撃沈。
いや、これは撃沈とは言わず、むしろこんな練習量でよくぞここまで走れたと喜ぶべきかもしれない。
2月からハーフのレースを3本、その他に30km走を2本と、それだけ見れば確かに走ってるように見えるけど、それは練習のようで練習じゃなかった訳で、しかも苦しかった、なんて思うこともすくなかった。
それは確かに故障や病気がそうさせたのかもしれないけど、それ以上に”情熱”がなくなっていた。
冷静に考えて、以前は介護に明け暮れそのストレスの発散のためと、自分の立ち位置を確立するためにがむしゃらに走ってきた部分があり、そうしたことで精神状態を保ってきた、なんてことが走ることに関しては良いほうへと影響を与えていたのだと思う。
だけど、その必要もなくなり、それまでのストレスの大きさからそれが痛みと姿を変え全身に襲い掛かれ、どう足掻いてももがいてもその地獄から抜け出すことができない。
どれだけレースの予定を入れモチベーションを上げようと思っていてもどうしても奈落の底から抜け出すことができないでいた。
そもそも走る理由がないのだから。
もちろんその気力もいつしか相当になくなってもいた。
だけど、こんなんじゃ・・・と思いたってこの2月から”本格的”に走り出した。

で、いきなりのガチレースで足の甲を痛め、再び走らずにいた。
なのにその間を安堵の気持ちでいられたということがいかにも”燃えない自分”を象徴していたようにも思う。
焦りもなければ悔しさもない。
いたって普通の気持ちで日々を過ごす。
長い休養時間を過ごしやっと走れば思い通り痛みは消え、その代わりにまともな走りは遠いところに行ってしまってる。
なのに過去のイメージだけはいっちょ前に残っていて、(いくらなんでも4時間を超えることはないよな)、なんて夢のようなことを考えている。
そう、スタートして最難関の長い上り坂を上りきるまで。
だけど現実はそんなに甘くはない。
そのこともよく知っていたはずだが・・・。
それなのに足が攣って走れなくなってもそりゃ仕方ないよって、全然悔しくとも何ともなくむしろコースを歩くことを楽しんでた。
そう、42kmを走るんじゃなくって、”42km先まで行く”だけだったから。
折しもゴールまで数キロ地点、二人の女神に勇気づけられ、再び走り出し、そしてゴールできたことは奇跡に近い。
それだけでもうれしくって仕方なかった。
悔いなんてこれぽっちもなかった。
それには通常の痛み止めも走るときに特別に飲んでいた痛み止めも一切なく、薬に頼らずそれでも走りきれたっていうことがあったからかもしれない。
だけど、今思えば悔しいと思っても至極当然の結果なのに。
42km先まで行っただけのレース。
だけど、だけどこれじゃダメなんだ。
もし身体がもたないからと5kmや10kmのレースに専念しようとしても、この気持ちでいる限りは絶対にダメだと思う。
それはこの「前橋・渋川マラソン」が物語っているようにも思う。
楽しければそれでよい、じゃダメなんだ。
だって、今回残ったのは参加賞と筋肉痛、それと暖かい女神二人の気持ちだけ。

走ることに関しては何にもない。
元々、たくさん心に残るものを積み重ねその上に自分が立ってこその自分。
新しい「ランナー一路」としてもう一度奮い立つのは今じゃないかと心の底から思った。
身体が、というよりも、まずは心を治さなければいけない。
そのことを今更ながら思いついたのも女神お二人のおかげ。
ありがとう、もう一度やり直します。