風をうけて vol.3

お引越ししてまいりました。
拙いブログですがよろしくお願いします。

まさか自分も・・・。

2020-10-14 01:24:02 | 日記・エッセイ・コラム
今月の19日で母親が亡くなり丸6年となる。

7回忌ということだ。

菩提樹のご住職にお塔婆をお願いし、墓参りだけは行おうと思う。

何せ、このコロナ禍のご時世。

法事も”自粛”ということにせざるを得なかった。

ご住職の話では、お堂も今は閉鎖状態。

当然、蜜になるお墓参りもそれなりのリスクを伴う訳で、そんなところでクラスター発生などとなったら、それこそ目も当てられない。

亡くなった母親には申し訳ないが、ここは家族のみのお墓参りとしたい。

そもそも、大勢の中で過ごすことや派手なことが苦手だった母親だけに、なんとか許してもらえるとは思っているのだが・・・。

その真相は、私が母親との再会を果たしたときにそっと聞いてみることとしよう。

それにしても、丸6年。

その生活は私にとっては決して平凡な日々ではなかったと思う。

”6年なんてあっという間だよ”

確かにそうなのかも知れない。

けれども、考えて見れば1年生の子が6年生となって小学校を卒業するだけの時間が丸6年なのだ。

何もなく過ごせる生活なんてどんな人にもあるはずもない。

特にある程度の年齢を重ねたひとにとっては、やはり”衰え”というものを避けては通れない。

自分に限っていえば、その間に”ババ抜き”ができるほどの病院診察カード”を所有することになった。

CT,MRI、内視鏡などの様々な検査から手術まで。

まさかこの自分が入院までするとは、それまでの自分からしてみれば予想もしなかった事だった。

それでもしっかり生きている。

そしてきちんと(?)仕事にも就いている。

それなりには、世間並(???)の生活もこなしている。

それはきっとご先祖様が良い方向へ導いてくれている、見守っていてくれている、そのおかげによるものなのだろう。

親族が一堂に会する事はなくとも、きっと微笑んでくれるとは、この世に生きているものの勝手な想像なのだが。。。



職場に介護のために、長期の休暇を取得すると本人からの告知があった。

以前にも1ヶ月ほど休んだことがあったとも聞いている。

その方がどのような家族構成で、どの様な介護を行っているのかは知る必要はない。

もちろん、自分にもその経験がある訳で、充分にそのご苦労を想像することは容易にできる。

長期の休暇を取得するということの意味は、本人にとっては勿論のこと、周囲のものにもそれなりの負担のかかることだ。

しかし、誰でも夫婦、親兄弟、そして子供といった親族というもの他に、友人や恩ある方まで、縁あるひとが存在する限りいつ自分が看護、介護を行わなければならない状況に陥らないとも限らない。

そこは快く、早くのご家族の回復と本人の健康を祈りつつ、送り出してあげたい。

その現場がどれ程辛いものかを知れば知るほどその気持ちは強くなるはずだ。

この時期から年末にかけて仕事量は日を追うごとに増すばかり。

しかも、そんな中でも個人の年休取得を推奨する会社と、あるいは組合との対応には矛盾を感じずにはいられない部分も無い訳ではない。

それでもなんとか切り抜けるには新人の自分が精度とスピードを増すことが求められる訳で、それは自分にとっても求めるところではあるが、一朝一夕で身に着くものとは思えない。

いや、脳細胞の活性が良好な状態の時代だったら今よりも飲み込みも早かったかなと、思わないでもない。

しかも、慣れているとはいえ深夜の時間、しかも初めて就いた職業だ。

そう簡単に頭の中に入ってこないのが、悲しいかなこの現状。

何度も言うが、何故この年齢の者が、多くの求職者を差し置いて採用されたのか、未だにその理由が分からない。

61歳という者の仕事量や理解力、記憶力をどの程度把握しているのか。

それよりも、私個人の能力が他の60歳代の方々よりも劣っているのではないかと、それだけを考えても落ち込む毎日でもある。

そんな中、常時感じている右耳の耳鳴りの治療で、耳鼻科の医師に新たな検査を勧められた。

腫瘍により聴力神経を阻害されている可能性が無い訳ではなく、約50人にひとりくらいの確率でそれが発見されると、脳ドックを勧められた。

別に急ぐ必要はないが、片耳に聴力障害がある方にはそれを勧めていると。

今でも聞こえない訳ではなく、ただ左耳に比べると聴力が落ちるというもの。

長い時間騒音の中で暮らしていたそのせいなのかもしれないし、ただの老化の為なのかも知れない。

その理由や、疾患を確認する意味でも脳ドックを受診してみてはと勧められた訳だ。

例えば、今その腫瘍が発見されたとしても経過を見るだけとなるらしいが、もし遺伝というものが底に存在するならば、自分の祖父は脳腫瘍で亡くなったらしい。

その言葉を聞くまでは、そんな事をこれっぽっちも考えたことはなかった。

急に湧いて出てきた話でもある。



万が一、祖父と同様のものが聴力を阻害していて、それが発見されたなら今の医療の力でその先の生命の保証はあるのだろうか。

何も知らずにいた方が良かったかもと思ったりもする。

検査を受けるかどうかの答えは、ゆっくり考え家族と相談の上でいいらしい。

要するにこの疾患に対しての時間はある訳だ。

まったく不思議な話がよく起きる。

祖父は私の母親の看病を受け、そして亡くなった。

その母親の7回忌の数日前に脳の腫瘍を疑われた訳だ。

命に係るものではない可能性が大きいが、もしもということが無い訳ではないとは医師の話ではあった。

まったく心にのしかかる重しは、年々大きくなっていくような気がする。

メディアから流れる同じ時代を生きてきた著名人、有名人の訃報を聞く度に他人ごとではないと身が震える毎日でもある。
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不都合の定理

2020-10-03 16:06:37 | 日記・エッセイ・コラム
秋です。

本来ならば、もう何レースかのエントリーを済ませ、ありったけの時間を使い、その時の実力に合わせ調整している頃です。

レースでは例え苦しんだとしても、それはそれ。

いくらかの充実感と満足感はさておき、微々たる向上心をあおられて、次のレースではきっとリベンジだと気持ちの上ではかなり燃えているはず。

そんな時期が今の頃。

ところが、どうでしょう。

何もない、、、そこでどうこころを奮い立たせたらよいのか。

練習とは奮い立たせてしまったモノをどれだけ、沈静化させられるかの試金石。

要するにしっかりと積んだ土台があれば、奮い立たせずとも自信のみで走れる。

その状態を知っていればこそ、同じ志の人に見せられないような努力。

それこそが、マラソンという競技の辛いところ。

早い人の練習を、強化に喘ぐ姿を、殆どの人が目にすることがないのは、そんなところだと思う。

ところが、ここに故障という足かせが存在してしまうことが多々あるのは周知の事実。

どんなに頑張ろうと、痛みのある人間には限界がある。

その程度にもよるが、それで」つぶれていくアスリートたちよ。

悲喜こもごも、スポーツの世界はそれが常識。

えっ、私ですか?

ハイ、痛くてたまりません。



実は手術をした箇所の痛みがまたもや発生しているのです。

走っているいる最中は何も感じないその場所が、数時間後には背筋を伸ばして歩けないほどに痛むのです。

以前、ケロイド症状を緩和する注射にて、その痛みを忘れてはいたものの、やはり根本的な治療とはいかなかったようで、再発、いや再再発といったところでしょうか。

そもそも、メスを入れた時点でランナーとしての生命のなん分かのいくつかは失われていたのかも知れません。

普通に生活するのと走るのとは全く違う世界であると、嫌が上でも知らしめられた、そんな感じなのであります。

もう、今からどう、地団駄踏んでもどうなることもありません。

自分の運のなさを嘆くのも嫌になりました。

けれど、一生涯走るを目標とする「生涯ランナー」とは私の大きな夢でもある訳で、早く走る事や長く走る事をたとえ捨たとしても、這いつくばりほふく前進ごとくの”いもむしラン”となれども、夢は捨てることは死ぬことと同じ。



生きて行くなら走る!

そこまでのこだわりを、どうして持ち続けるのか・・・。

それこそが、私自身の埃、、、いや誇りなので。。。

この世を去るその寸前に、ああ、良く走ったものだ・・・そう思いながらこと絶えたい。

バカというか、ランニングに魅了され、一時期のブームに惑わされたものでない者はきっとそう思うはず。

信念とはそう思うことなり。

まったくどうしてこんな道を選んでしまったのか・・・。

ある本に、”こだわりを捨てると、人間楽に生きられる”とあった。

正しくその通りだ。

だけど、こだわりがあるからこそ、未来が開ける。

ひとってそう言うものだろう。

もし、なんの目標も行きつく先も、夢さえも見えなければ生きている価値はない。

価値を求めてこそ、どれだけ茨な道を駆け抜けられる。

まるで堂々巡りのようなこの世界だけど、それだからこそ止まらず走り抜ける人生を送りたいと思うのだ。

痛い、痛いと嘆きながらも明日も走る。

バカな男の人生、、、なのだ。



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