新型コロナウィルス感染防止の為、活動を中止していたランニングサークルの練習会を再開した。
普段からモチベーションが下がらぬようにと、SNS等でコミュニケーションをはかり、走ること以外な事でも会話が盛り上がったり、メンバーさん同士の絆が深まったりと、それはそれなりの役目を十分に果たしていた。
その良い雰囲気のまま、練習会でも多くの方の参加を予想していたが、それは間違いだったのかもしれない。
「走ること=レースを走る=タイム・成績」と、それを目標としたならば、今はレースが開催されず、方程式が成り立たなくなってしまっている、という事なのだろう。
目標が無ければ当然、練習をする必要もない。
練習よりもレースが大事という事なのだろう。
それは、あまりに極端な考えかたかも知れないし、全員がそう思っているはずもない。
だけど、自分自身の中にもそんな気持ちは多からずある。
気持ちの入らないランニングは、この季節と相まって決して楽しいものとは言えない。
呼吸の苦しいマスクやバフはそれを助長させ、雨が降ってでも走っていた昔の事が、今は夢物語だったのではないかと疑うほどだ。
情熱とは夢があってこそ燃え上がる。
夢をウイルスに砕かれ、何度も送られてくる参加もしていない大会参加賞を手にするたびにため息をついた。
いつ開催されるのか分からないレースを待ち切れるのだろうか。
痛くても辛くても走る続けてきた。
それはきっと、レースを走るだけのものじゃなかったはず。
それは充分に承知しているというのに、なんと心の弱い事か。
「生涯ランナー」を心に決めていたというのにだ。
自分で誘っておきながら、その自分がやる気をなくしてしまったら、犯罪にも似た裏切り行為でもある。
少しでも走れるからだがあるのなら、たとえ1kmでも走ろう。
時間はいくらでもある。
あとは外に出る気持ちひとつ。
長い自粛生活からの脱却。
それが今、自分に求められる一番の事かも知れない。

ハローワークへの手続きを終え、明日が第一回目の認定日だ。
用意するものは顔写真、それと退職の原因となった勤務条件が変わった事を証明する物。
顔写真はともかく、勤務条件が著しく変わった事を証明する物があれば自己都合で退職しても会社都合での退職の手続きができるそうだ。
私の場合、会社側と夜勤専門として契約した訳で、コロナウィルスによる受注の減少により就職時の条件と正反対の日勤での変更を言い渡された訳で、その資格が十分にあるらしい。
会社から毎月、自分が勤務した時間表が給料明細に添付されており、容易にそれを証明できる。
となれば、申請月からの雇用保険の支給対象となり、11か月間その支給が受けられることとなる。
金銭面では嬉しい事ではあるが、精神的には決して楽なものではない。
走る事と同じように、「目標のない生活」が今なのだ。
もしも、支給が自己都合による退職であれば3ヶ月先にならなければ雇用保険は支給されない。
このご時世、仕事もなく収入もなく、しかも60歳を超える年齢。
厚生年金の受給にはあと4年以上もあるのだ。
悠々自適な生活は病院のベットか天国で送ればいい。
今はまだ働ける。
いや、働かなければならない。
焦ってまた合わない職業、また今回のように安定しない職場にだって就職してしまいかねない。
今はじっくり就業する仕事内容、会社の状態を吟味する時間ができそうなのだ。
しかし、時間は人間の心を弱らせる。
張りつめたロープがだらりと緩むと、そこからもう一度四隅のロープを自力で張るのは並大抵のチカラではないと感じている。
さて、自分がこれから続けていける仕事とは何ぞや。
本当にやりたい仕事ってあるのか。
当然、収入は?
勤務する時間は?
何から何まで自分の都合の良い仕事なんて有り得ないことぐらい知ってはいる。
時間はできるはずだ。
さて、もう一度気持ちに張りを持たせられる仕事を、真剣に考えて見よう。

何もない。
すると、社会から取り残されてしまったような錯覚に陥る。
それが本当に錯覚ならば別に気にしないが、もし本当に自分が立ち止まっているうちに世の中がドンドン進んでいってしまっていたら・・・。
それこそ、”浦島太郎”になってしまう。
手元に玉手箱があって、煙と共に本当の世界に戻れるならば、それも良い。
だけど、玉手箱の存在しない今を、遅れた分の時間をどう工面しよう。
まさに今がロスタイム、、、時間を無駄に消費している。
消費したエネルギーが他の何かを生み出すならそれも良い。
しかし、何も生み出すことのない消費は消費ではなくただの浪費だ。
何でもいい。
何かを生み出したい。
今、そんな時間を夢見ている。
普段からモチベーションが下がらぬようにと、SNS等でコミュニケーションをはかり、走ること以外な事でも会話が盛り上がったり、メンバーさん同士の絆が深まったりと、それはそれなりの役目を十分に果たしていた。
その良い雰囲気のまま、練習会でも多くの方の参加を予想していたが、それは間違いだったのかもしれない。
「走ること=レースを走る=タイム・成績」と、それを目標としたならば、今はレースが開催されず、方程式が成り立たなくなってしまっている、という事なのだろう。
目標が無ければ当然、練習をする必要もない。
練習よりもレースが大事という事なのだろう。
それは、あまりに極端な考えかたかも知れないし、全員がそう思っているはずもない。
だけど、自分自身の中にもそんな気持ちは多からずある。
気持ちの入らないランニングは、この季節と相まって決して楽しいものとは言えない。
呼吸の苦しいマスクやバフはそれを助長させ、雨が降ってでも走っていた昔の事が、今は夢物語だったのではないかと疑うほどだ。
情熱とは夢があってこそ燃え上がる。
夢をウイルスに砕かれ、何度も送られてくる参加もしていない大会参加賞を手にするたびにため息をついた。
いつ開催されるのか分からないレースを待ち切れるのだろうか。
痛くても辛くても走る続けてきた。
それはきっと、レースを走るだけのものじゃなかったはず。
それは充分に承知しているというのに、なんと心の弱い事か。
「生涯ランナー」を心に決めていたというのにだ。
自分で誘っておきながら、その自分がやる気をなくしてしまったら、犯罪にも似た裏切り行為でもある。
少しでも走れるからだがあるのなら、たとえ1kmでも走ろう。
時間はいくらでもある。
あとは外に出る気持ちひとつ。
長い自粛生活からの脱却。
それが今、自分に求められる一番の事かも知れない。

ハローワークへの手続きを終え、明日が第一回目の認定日だ。
用意するものは顔写真、それと退職の原因となった勤務条件が変わった事を証明する物。
顔写真はともかく、勤務条件が著しく変わった事を証明する物があれば自己都合で退職しても会社都合での退職の手続きができるそうだ。
私の場合、会社側と夜勤専門として契約した訳で、コロナウィルスによる受注の減少により就職時の条件と正反対の日勤での変更を言い渡された訳で、その資格が十分にあるらしい。
会社から毎月、自分が勤務した時間表が給料明細に添付されており、容易にそれを証明できる。
となれば、申請月からの雇用保険の支給対象となり、11か月間その支給が受けられることとなる。
金銭面では嬉しい事ではあるが、精神的には決して楽なものではない。
走る事と同じように、「目標のない生活」が今なのだ。
もしも、支給が自己都合による退職であれば3ヶ月先にならなければ雇用保険は支給されない。
このご時世、仕事もなく収入もなく、しかも60歳を超える年齢。
厚生年金の受給にはあと4年以上もあるのだ。
悠々自適な生活は病院のベットか天国で送ればいい。
今はまだ働ける。
いや、働かなければならない。
焦ってまた合わない職業、また今回のように安定しない職場にだって就職してしまいかねない。
今はじっくり就業する仕事内容、会社の状態を吟味する時間ができそうなのだ。
しかし、時間は人間の心を弱らせる。
張りつめたロープがだらりと緩むと、そこからもう一度四隅のロープを自力で張るのは並大抵のチカラではないと感じている。
さて、自分がこれから続けていける仕事とは何ぞや。
本当にやりたい仕事ってあるのか。
当然、収入は?
勤務する時間は?
何から何まで自分の都合の良い仕事なんて有り得ないことぐらい知ってはいる。
時間はできるはずだ。
さて、もう一度気持ちに張りを持たせられる仕事を、真剣に考えて見よう。

何もない。
すると、社会から取り残されてしまったような錯覚に陥る。
それが本当に錯覚ならば別に気にしないが、もし本当に自分が立ち止まっているうちに世の中がドンドン進んでいってしまっていたら・・・。
それこそ、”浦島太郎”になってしまう。
手元に玉手箱があって、煙と共に本当の世界に戻れるならば、それも良い。
だけど、玉手箱の存在しない今を、遅れた分の時間をどう工面しよう。
まさに今がロスタイム、、、時間を無駄に消費している。
消費したエネルギーが他の何かを生み出すならそれも良い。
しかし、何も生み出すことのない消費は消費ではなくただの浪費だ。
何でもいい。
何かを生み出したい。
今、そんな時間を夢見ている。