「自死遺族のスティグマ」 という シンポジウムも聴きました。
自死は死の中でも 特別なもので、 否定的に見られてしまいます。
弱い人間の逃避, 大切な命を無駄にした, 止められなかった遺族の責任など、
様々なスティグマがあります。
遺族自身の中にも スティグマは存在し、
罪悪感や恥のため人に話せず、 ますます孤立し 苦悩は深刻化してしまいます。
発表者の遺族も、 息子の自死から半年間の 記憶がないと言いました。
自死は 「封印された死」 「抑圧された死」、
さらに 「劣位の死」 ともされています。
僕は、 かつて自分自身が 自殺の一歩手前まで行った 大挫折の体験があり、
死に向かわざるをえない人の 懊悩を否認することはできません。
心子の旅立ちも、 これでやっと彼女は 苦しみから開放されたのだという
“救い” さえ感じました。
そして僕も心子の最期を、 「自殺」 ではなく 「自死」 と表現してきました。
自死遺族の会でも、 公的文書での 「自殺」 という言葉を、
「自死」 に変えようという 活動をしています。
それによって、 自死について 語りやすい社会になり、
遺族の苦しみが軽減され、 対策も立てられるといいます。
ところが、 これに疑義を唱える 意見がありました。
「自死」 という言葉にすると、 自殺のネガティブなイメージは 和らげられますが、
そのことによって、 死ぬことへのハードルが低くなり、
連鎖自殺や幇助自殺を 呼び込む可能性があるというのです。
僕も今まで 気付きませんでした。
確かに 「自殺」 という言葉の 抑止効果はあるのだろうと思います。
しかし シンポジストの一人は、 それらを充分に考えた末、
「自死」 という言葉に込められた想いを 選んでいるという意見でした。
失われた命を尊び 遺族の再生を願うことと、
これから失われるかもしれない 命を救うこと。
そのふたつの調和を、 考えていきたいと思います。