「境界に生きた心子」

境界性パーソナリティ障害の彼女と過ごした千変万化の日々を綴った、ノンフィクションのラブストーリー[星和書店・刊]

心子との接し方(2)

2005年12月16日 20時47分54秒 | ボーダーに関して

 他方、心子が旅立ったあと、本で読んだことがあります。
 境界例の人の激しい感情を落ち着いて受け止めることは、境界例の人にとって、この世には何が起こっても動かない安定したものがあるということを教えることができる、と。

 町沢静夫氏も、ボーダーの患者さんが非難してくるときには、ひたすら嵐が去るのを待つだけだと書いています。

 でも、ボーダーの人の攻撃を無条件に聞き入れていると、ボーダーの人は攻撃が許されるのだと思って、彼らの行動パターンを強化してしまうと記している本もあります。

 また、ボーダーの人に過度の共感を表すと、果てしない依存が生じる場合もあるため、共感することのメリットとデメリットを慎重に考慮しなければいけないともあります。

 どのような接し方がいいのか、もう僕は確かめることができません。
 心子が生きているときには、今よりまだ情報が少なかったのです。
 もっと早く学んでいたら、彼女への接し方をもっと試すこともできたでしょう。

 その意味でも、境界例に関する知識や情報がもっと広まっていってほしいと思います。
 ブログというのもその一役を果たすでしょうね。

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心子との接し方(1)

2005年12月15日 23時00分25秒 | ボーダーに関して

 脚本家・清水さんの元のご主人は、ボーダー的だったという清水さんがキレても、一歩引いて冷静に受け止めてくれたそうです。
 でも清水さんにはそれが「無関心」「無視」されているように思えたとのこと。
http://see-saw.way-nifty.com/diary/2005/12/post_e221.html

 僕も心子がパニクったときには、巻き込まれないこと,動じないことを心がけていました。
 彼女の主治医の先生から僕はこう言われていました。
「彼女は水に浮いた葉っぱのようにゆらゆら動く人だから、あなたは杭のように動かないこと」
 実際、それで彼女が次第に落ち着いてきたこともありました。

 でも、もしかすると心子は、僕がもっと共鳴して、彼女と同調してほしいと思っていたかもしれません。
 「ある女医さんのお話(4)」(11月12日の記事)に、次のように書きました。

「『感情に巻き込まれず優しく応対してくれる人』に対して
『とってもいい人だけど所詮私の気持ちはわからない!』と、
人柄は認めても感性は見下しがちです。」

(続く)

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愛情飢餓(3)

2005年12月14日 22時43分52秒 | ボーダーに関して
 『愛情飢餓』。
 それが心子の人生を縁取る根源的な苦悩でした。
 幼子が最も必要とするときに得られなかった親の愛情を、大人になってから死に物狂いで取り戻そうとする無意識の渇望です。
 それはどこまでも続く茨のような道なのでした。

 幼いときの親の愛情がいかに大切なものか、境界例の人はそれを私たちに教えてくれます。
 成長してからそれを取り戻すのは、何百倍も何千倍も難しいことになってしまいます。

 子供に適切な愛情を与えられない親が増えていると言われる現代、私たちは境界例の人たちが鳴らす警鐘をしっかり聞き取ることが必要ではないでしょうか。

 ただし、皆が子育てに杞憂することはないでしょう。
 私たちはごく普通の、自然な親子の愛情を育めばいいのだと思います。
 親が不安定になっては、平穏な家庭もできないのですから。


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愛情飢餓(2)

2005年12月13日 21時30分38秒 | ボーダーに関して

 普通子供は、乳児期に親から全面的に抱かれ、何の心配もなく育っていくことができます。
 子供は両親から無条件で愛護されることによって、自分は大切にされているんだ,この世に生きていていいんだという、人間として生きる基本的な精神が無意識に養われていきます。
 ところがこの時期に相応の愛情が与えられず、身体的にも快適なアタッチメントがないと、子供は自分の存在を肯定できず、安心して愛情を信じることもできなくなってしまいます。

 心子も右へ左へ浮き草のように漂い、愛情を欲しながら人の愛情を疑う、非常にアンバランスな心性を持つようになってしまいました。

 それを補償するために、自分をどこまでも抱き留めてくれる、限りのない愛情を欲するのでしょう。
 そうしなければ、自分が存在する価値,生きていていいということを確かめられないのです。

(続く)

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愛情飢餓(1)

2005年12月12日 20時58分07秒 | 心子、もろもろ
<愛はどこにありますか? 誰が私を必要としていると言うのでしょう? 欲しいものは愛だけなのに。しんこ>
 心子のメールです。

 脚本家の清水喜美子さんも、これと同じセリフを30代半ばまで抱えていたそうです。
 「愛が欲しい病」と清水さんは言います。
http://see-saw.way-nifty.com/diary/2005/12/post_e221.html

 心子は物欲とも名誉欲とも全く無縁でした。
 彼女が欲するのはただ、際限のない愛情だけなのです。
 心子はあまりにも潔癖で、崇高な愛をこいねがっていました。

しかし混沌とした現実の中では、白馬の王子は別世界の夢物語でしょう。
 “完璧な愛情”というものは実在しません。

 この世には完全無欠なものなどないということを理解するのが、心子に極めて困難でした。
 心子にとっては、100か0か、ふたつにひとつしかありません。
 99%の愛は0と同じなのです。
 心子は理想の愛情を期待し、常に裏切られ、乳飲み子のように泣き叫ぶのでした。

(続く)

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脚本家・清水喜美子さんが「境界に生きた心子」を読まれて

2005年12月11日 20時51分43秒 | 「境界に生きた心子」
 12月3日に書いた脚本家の清水喜美子さんが、「境界に生きた心子」を読んでご自分のブログに記事を書いてくださいました。

http://see-saw.way-nifty.com/diary/2005/12/post_6a74.html
http://see-saw.way-nifty.com/diary/2005/12/post_4dbd.html
http://see-saw.way-nifty.com/diary/2005/12/post_e221.html
http://see-saw.way-nifty.com/diary/2005/12/post_a326.html
http://see-saw.way-nifty.com/diary/2005/12/post_d40f.html
http://see-saw.way-nifty.com/diary/2005/12/post_52e7.html
http://see-saw.way-nifty.com/diary/2005/12/post_2e17.html

 清水さん自身、心子と同じように「愛が欲しい」という欲求に苛まれながら、苦しい人生を送って来られたそうです。
 しかしある時、挫折のどん底で自分で自分の存在を認めることができ、
「今まで、よく頑張ってきたね」
 と、自身に言うことができたのだそうです。

 そして長いトンネルを抜け、心がとても楽になったといいます。
 一種の“悟り”の体験だったのでしょう。

「いつかきっとトンネルを抜ける時が来る」
 と信じ、カウンセリングの普及を望んでおられます。

 心子は、トンネルの中に光明を見たと思っても、その翌朝には再び暗闇の地獄に落ちたりしていました。
 自分自身に慰謝の言葉をかけることはできませんでしたが、今は静かで安らかな眠りについています。

 しばらくはゆっくり心を休めて、次はもっと生きやすい人生を生きていってほしいと願っています。


〔追伸〕
 この記事をアップしようとしたとき、清水さんはさらに新しい記事を書かれていました。

 いま苦しんでいる人たちに対して、出口もはけ口もなく辛く苦しいのは分かる
「でも、死んじゃだめだよ
 死にたいと思うエネルギー以上に、心は生きたいと叫んでいるはずだから」
 と、先輩として訴えています。

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「境界に生きた心子」HPのフラクタル画像

2005年12月10日 20時17分31秒 | 「境界に生きた心子」

 出版元・新風舎の「境界に生きた心子」のHP(クリエーターズワールド)には、オープニングムービーやレビューのページなどに、フラクタル画像を使用しています。
http://www.creatorsworld.net/shinko/flash/

 インターネットのWebページから借用したもので、作者の方々はどなたも快諾してくださいました。

 「フラクタル」というの数学の幾何学を応用した画像です。
 「混沌」「不規則」「壊れる」などの意味があり、心子の心を象徴するものだと思います。
 視覚的にも彼女のように鮮烈で、ダイナミックに錯綜,多彩に変幻するというイメージを表わしています。

 クリエーターズワールドのトップページには、拙著のアニメーション・バナーも設定されています。
 ページを開いたとき上に表示されますが、順番に出てくるので、拙著のバナーまで時間がかかります。(・_・;)
 インパクトがあり、とても美しい画像なので、良かったらご覧になってみてください。

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「男たちの大和 YAMATO」(2)

2005年12月09日 21時01分02秒 | 映画

 それにしても、昨日の映画で気になることがありました。
 中村獅童がかけている眼帯の紐の位置が、カットが変わるごとにずれているのです。
 いわゆる“つながり”が全くできていない。 (><)

 しまいには、顔のアングルも構図も同じなのに、カットが変わると紐の位置だけがずれる。
 苛立ちや興ざめを通り越して、コントを見ているような気分になってきてしまいました。(- -;)
 こんな大作で、撮影の基本がないがしろにされてるとは……。


 ところで、昨日の記事に「タイタニック」と書きましたが、「タイタニック」のジョークをどこかで読んだことがあります。

 沈みゆくタイタニックの船上で、女性や子供を救命ボートに乗せるため、男性には舟に残る説得をしなければなりません。
 最も効果がある言い方をするために、イギリス人の男性乗客には次のように言ったそうです。
「あなたはジェントルマンですよね」
 アメリカ人の乗客には、
「あなたはヒーローになれます」
 ドイツ人には、
「これは規則です」

 そして日本人男性には何と言ったかというと、
「皆さん、そうしてらっしゃいます」

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「男たちの大和 YAMATO」(1)

2005年12月08日 22時53分26秒 | 映画

 「男たちの大和」の試写会を観てきました。

 当時の科学と軍事力の粋を集めて建造された超弩級の軍艦でありながら、ほとんど戦果を上げることなく、海のもくずと化した大和。
 しかしそこから松本零士の「宇宙戦艦ヤマト」も生まれたように、何故か我々のロマンをかき立てます。

 ちょうど先日、NHKの「そのとき歴史は動いた」で、浮沈艦大和が何故沈没したのかという番組をやっていました。
 当時はすでに戦闘機を中心とした空中戦の時代に移っており、大和は敵戦闘機の集中砲火を浴びて、あえなく撃沈したのでした。

 高速で空を飛び交う戦闘機に囲まれては、小島のような大和は格好の餌食。
 左舷だけに集中的に魚雷を撃ち込まれ、浸水して傾いた巨大な船体を修復することができませんでした。
 もはや時代遅れのでくのぼうという印象でした。

 映画によると、戦況悪化してきたなか、大和は戦意を鼓舞するための特攻隊作戦のさきがけとして、沖縄へ向かいます。
 援護する味方戦闘機を一機も連れず、燃料も片道だけという、正に死ぬための出陣です。
 全員二度と故郷の土を踏むことはないという覚悟でした。

 敵機を前に機銃兵は防弾壁もなく、銃弾の嵐のなかで丸裸同然、次々と血しぶきを上げて倒れていきます。
 映画の戦闘シーンを観ると、いつも戦争の無残さ、空しさを感じます。

 沈没のシーンは「タイタニック」には大分及ばないものの、迫るものはありました。
 3000人以上の命が海の底深くに沈み、味方の駆逐艦に救助されたのは270名ほどでした。

 この映画では戦闘シーンよりも、個々の登場人物たちの家族や恋人との愛情と別れを中心に描きます。
 戦争の犠牲は常に弱い人たちということです。

 クレジットタイトルのあとに、「彼らが守ろうとした日本に、私たちはいま生きている」という内容の、ちょっと取ってつけたようなテロップが出るのですが、それは確かにそうなので、心に銘じたいことだと思います。

(続く)

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境界例の人の「境界」(2)

2005年12月07日 21時33分50秒 | ボーダーに関して
 境界例の人と付き合うとき必要なのは、相手との「境界」をきちんと決めておくことだと言われます。
 精神的にも物理的(距離,時間)にも、自分の尊厳や生活を侵されないボーダーラインの設定です

 でも境界例の人はその「境界」を何よりも嫌悪し、死に物狂いでそれを突き崩そうとしてくるでしょう。
 境界例の人の気持ちに共感することと、境界を守ることの兼ね合いは、よくよく頭の痛いところです。

 どうしても収拾がつかないときは、しばらく離れるしかないでしょう。
「時間を置こう」
 心子の情緒が乱れているとき、僕はしばしばそう言いました。

 その間、彼女の悶々とした苦悩がいかばかりのものかと思うと、胸の痛みと己の無力さに苛まれざるを得ません。
 けれども、彼女の心を平静にするにはどんな言葉も功を奏することはなく、ただ常に時間だけが彼女を快復させるのでした。

「君の感情は君のもので、僕には変えられない。でも僕はいつでもここにいて、君の味方だ」
 そういうメッセージを伝え続けることが肝心なのだと思います。

 幼少時に損なわれた愛情によって冒された心を癒すものは、ひたすら愛情でしかありません。
 詰まるところ、人間にとって最も不可欠なものは愛情なのでしょう。

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境界例の人の「境界」(1)

2005年12月06日 21時05分58秒 | ボーダーに関して
 カテゴリー「境界性人格障害」の「境界性人格障害の呼称(2)」(11月30日)に、境界例の人は相手との「境界」を設けることが難しいと書きました。

 愛する者同士は互いの境界がなくなり、溶け合ったような気持ちになります。
 愛情の最大の特徴は「境界がなくなること」だとも言えます。

 心子も愛し合うとき、「ひとつになりたい」という言い方をしていました。
 彼女の究極の一体感への願望を象徴しています。
 そして肉体的にだけでなく、精神的にも一体化することを欲しています。

 心子が僕の愛情が足りないと非難するとき、
「あなたは誰よりも自分の世界を守ろうとする。あなたほど他人を自分の中に入れない人間はいない」
 と言われました。


 また、境界例の人は、社会の様々な「境界」(=枠組み)の設定を嫌います。
 心子も、偽善的な約束事や人の肩書きなどにはとらわれず、権力を傘に着る人間などには怒りをあらわにしました。

 境界例の人は相手と向かいあうとき、社会的立場ではなく生身の人間同士として関わることを欲するといいます。
 しかし、人間は社会的な役割に保護されているという面もあり、常に裸で接すると互いに傷つけ合ってしまい、それを持続するのは苦痛です。

 境界例の人は自分や相手の身を守ることが、極めて困難なのでしょう。

(続く)

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神宮外苑--心子の引き合わせ? 

2005年12月05日 21時01分09秒 | 心子、もろもろ

 書き忘れていましたが、心子との想い出の場所・神宮外苑は、「境界に生きた心子」の出版元・新風舎のすぐそばにあります。
 縁あって新風舎から拙著を発刊することになったわけですが、もしかしたらこれも心子の引き合わせかも知れません。
 執筆中、新風舎の編集部へしばしば行った際には、いつも外苑の銀杏並木を散歩していました。
 そのたびに心子が偲ばれました。

 先日外苑へ行ったとき、銀杏の落ち葉を何枚か見つくろって拾ってきました。
 結構何ヶ月もきれいな黄色がもつんですね。
 ちょっとしゃれた本のしおりにもなります。

 銀杏並木には心子との色々な想い出があります。
 11月25日に書いた、火曜サスペンス“出演”(^^;)。
 ライトアップされた絵画館を背景に交わした長いキス。
 心子がキレまくって、人目をはばからず食ってかかってきたこと。
 et cetera ………。

 今年もそろそろ銀杏の季節が終わりを迎えます。
 来年はどんな黄葉を見せてくれるでしょうか? 
 また楽しみに待つことにします。
 心子も楽しみにしているでしょう。

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ボーダーの原因(2)

2005年12月04日 20時32分57秒 | ボーダーに関して

 書庫「境界性人格障害」の「ボーダーの原因」(11月21日)に補足します。

 アメリカでは、ボーダーの原因は生物学的な素因が第一にあるということが言われています。
 ボーダーの人の親が、子供の育て方に問題があったと責められたり、悩んでしまうことも多いために、それを緩和する意味もあります。
 でも日本ではボーダーの認識はまだそこまでも広まっていません。

 親が自分の責任を理解できなかったり、全く認めないというケースも多く見聞きします。
 そういう親だから、子供は境界例的性質が育てられるということになってしまうのでしょう。
 心ある親ならば、生育歴は関係なく先天的な要因だけでも(親の意思に関わらないことでも)、産んでしまった自分を責めたりしてしまうものですが。

 ボーダーの方から見みれば、親を恨むのは自然だと思います。
 多くのボーダーの方がそうであるように、心子もまたそうでした。

 先天的に生物学的な要因を持っていたとしても、普通の愛情をもって育てられればボーダーは発現しないでしょう。
 生物学的な要素と、その後の生育環境の両方があって、ボーダーは生じてしまうということです。


 ちなみに蛇足ながら、先天的ということと、いわゆる遺伝というのは異なります。
 親の素質を受け継ぐことが遺伝ですが〔*注:〕、親と似ていなくても持って生まれたものならば先天的です。
 遺伝は先天的の中に含まれますが、先天的=いわゆる遺伝とは限りません。

〔*注:病気などの場合、親はその遺伝子は持っていても発症しないこともあります。〕

 ボーダーの人の親がボーダーであるケースが多いのは、生物学的な遺伝ではなく、親子では似たような環境が受け継がれやすいという、生育歴の世代間連鎖です。

 その悲劇の再生産のシナリオを書き換えることが、今の世代に課せられている宿題でしょう。

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自閉症児のお父さん

2005年12月04日 16時27分30秒 | 「境界に生きた心子」

 知り合いの人がご自分のブログで、「境界に生きた心子」の感想を書いてくれました。
 以前パソコン通信で知り合ったシナリオライターの人で、自閉症のお子さんを持つお父さんです。

 今はシナリオライターをやめ、自閉症児の施設「つくしんぼ」を運営して、ブログやホームページも開設しています。
 下記が、拙著の感想のページです。
http://bokuumi.cocolog-nifty.com/blog/2005/03/post_1.html

 ブログではお子さんのことや「つくしんぼ」のことも書かれています。
 こちらもどうぞご覧になってください。

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脚本家・清水喜美子さんの自己愛性人格障害の話

2005年12月03日 20時59分01秒 | 「境界に生きた心子」

 シナリオライターの清水喜美子さんが、「境界に生きた心子」を紹介してくれました。
 清水さんとは、インターネット上のシナリオライターのグループ「プラネット・ラボ」の会員として知り合いました。

 清水さん自身が自己愛性人格障害の人の取材をされており、拙著に関心を持ってくれました。
 下記のページで紹介されています。
http://see-saw.way-nifty.com/diary/2005/05/post_c334_1.html

 実に多岐に渡る話題を掲載しているホームページです。

 そして、清水さんは自己愛性人格障害の人の話のシナリオを、書き下ろしでネット配信しています。
 下記のトップページから携帯(au)で見られるようです。
(僕はauを持っていないので見られないのがとても残念です。)
http://www.iyashi-web.com/dorama_hp/kyakuhon.html

 色々な新しい媒体による作品が出てきています。
 ネットワークが広がっていくといいと思います。

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