「境界に生きた心子」

境界性パーソナリティ障害の彼女と過ごした千変万化の日々を綴った、ノンフィクションのラブストーリー[星和書店・刊]

心子が最後の夜を 過ごしたホテルの部屋 (1)

2007年02月13日 22時39分48秒 | 「境界に生きた心子」
 
 今までの記事でも書いたように、心子が最期を迎えたホテルには

 何回か問い合わせをしたり 足を運んだりしています。

 心子が旅立った翌日、まずホテルへ赴いて 大体の話を聞き、

 彼女が舞い降りた位置に 白い花を供えました。

 心子が泊まった部屋の前まで 案内してもらいましたが、

 その日は 別の人が予約しているということで、

 中には 入れてもらえませんでした。

 その数日後、僕は 心子が最後の夜を 過ごした部屋で、

 彼女が居合わせた空間を 共有したくなり、

 彼女が窓の外から 臨んだ光景も この目で実感したいと 思ったりしました。

 ホテルに電話をかけ、部屋に入れてくれないか 願い出ると、

 電話を受けた人は 承知してくれ、日時も約束しました。

 ところが その2~3日後、ホテルの上司から 電話がかかってきて、

 部屋に入るという約束は 勘弁してもらえないかと 切り出しました。

 部屋の窓も 開けられないように修繕したと。

 その代わり、電話で話せることは できるだけお話しするので、

 それで終わりにしてほしいと 申し出てきたのです。

 やむを得ず それに従い、当夜の心子の行動などを 詳しく聞かせてもらいました。

(レストランで フランス料理のフルコースを注文したとか、

 ルームサービスで ジンのカクテルを頼んだとか。)

 ところで、後になって ふと思ったのですが (^^; )、

 ホテル側は 僕が後追い自殺をするのを 恐れたのではないかと。

 電話を受けた人は そのことを認識していなくて、

 あとで上司から 咎められたのかもしれません。

(続く)
 
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刑事と取り調べ室にσ (^^;)

2007年02月12日 23時16分18秒 | 「境界に生きた心子」
 
 実は僕は、警察の取り調べ室で 刑事さんと差しで 話したことがあります。

 心子が ホテルの最上階から 宙に舞った翌日、

 所轄の警察に連絡をして 事情を聞かせてもらえないか お願いをしました。

 心子の死亡が 事故か事件かの 捜査をした刑事さんが、

 詳しい話をするから 署まで来ないかと言ってくれました。

 その日 僕は葬儀に参列する前に、所轄署へ足を運んだのです。

 そして 通されたのが 取り調べ室でした。 (^^;)

 捜査は 現場で調べる刑事と 署で連絡が入るのを待つ刑事と 二人組で行なうそうで、

 応対してくれたのは 署で控えていた刑事さんです。

 現場へ行った刑事さんは いかつくて恐そうな人でしたが、

 話をしてくれたのは 優しそうな 人情刑事さん風でした。

 刑事さんは事のあらましを 説明してくれ、ちょっと 生々しい話もありましたが。

 心子の持ち物から 精神科の診察券が出てきたので 病院に連絡を取ったこと、

 遺書があったこと、ホテルでは 不審な人物の出入りはなかったこと、

 総合的に見て、事件ではなく 事故という結論だった ということでした。

 まぁ、僕としては 最初から事件であるはずはないと 分かっていたわけですが。

 ところで、後になって ふと思ったのですが、

 刑事さんは 僕を署に呼んだとき、僕に説明を してくれるというよりも、

 僕も “関係者” として一応 話を聞いておこうと、

 本当に 「取り調べ」 を したのではなかったのかと…… (^^;)。
 

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部屋の明かり---心子が来ていないか

2007年02月11日 13時54分41秒 | 「境界に生きた心子」
 
 拙著に 次のようなエピソードを書いています。

 心子とトラブルがあって、彼女が消息を 絶ってしまったときのことです。

『それから 心子と連絡が付かなくなった。

 僕は日夜 電話とメールを送ったが、反応はなかった。

 夜道を帰宅するとき、アパートから五十mほどの 駐車場の空間越しに、

 僕の部屋の窓が 垣間見える箇所があるのだが、

 そこを通るたび 僕は部屋の窓を確認した。

 明かりが点いていないか、今日は心子が来ていないかと。』

 そして、拙著の一番最後は 次の一節で締めくくっています。

『今も僕は、夜道を帰ってくるとき、

 今日は部屋の明かりが 点いていないか、いつも確かめている。』

 ところが、拙著の出版後しばらくして、

 ちょうどその箇所に 常緑樹が植えられてしまいました。

 部屋の窓がさえぎられて 見えなくなり、

 明かりが点いているか 確かめられなくなってしまったのです。(;_;)

 拙著に嘘を 書いたわけではありませんが、

 読者の方には 現実と違うことを 伝えることになってしまいました。

 でも 最近、その木が刈られて、

 また 窓が見えるようになったのです。 (^o ^)

 今 ふたたび僕は、夜道を帰ってくるとき、

 今日は部屋の明かりが 点いていないか、いつも確かめています。 (^^)
 
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BPDの生物学的原因 (2)

2007年02月10日 12時40分49秒 | BPD,パーソナリティ障害の書籍から
 
( http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/45008012.html からの続き)

 脳の先天的な原因に加え、後天的な器質の要因もあります。

 幼児虐待を受けた子は、脳の神経内分泌系の機能に 支障をきたし、

 それが 成人してからも持続します。

 また、記憶に関係している 「海馬」 や、

 感情をコントロールする 「扁桃体」 が 小さくなってしまいます。

 その結果、怒りや行動を制御することに 障害が出てきてしまうのです。

 神経伝達物質は、感情や思考,行動の仕方に 大きく関わっています。

 神経回路の中の 神経伝達物質のバランスが、先天的,後天的に崩れていると、

 衝動的になったり 感情が不安定になったりし、

 適合不全という形で 現れてくるのです。

 
 従来のBPDの研究においては 生育歴を原因として強調してきましたが、

 それは 患者の記憶による申告に基づいています。

 BPDの資質を持っている子供は、苦痛な体験が 実際以上に過大に記憶され、

 のちに 悪影響を及ぼしてしまいます。

 BPDの子の親が 本当にどの程度 愛情不足だったのか、

 子供がBPDの特質のために 愛情を感じることができなかったのか、

 判別するのは難しいことです。

 いずれにしても 子供に罪はありませんし、

 親も全面的に責められないということを 知っておくのは大切だと思います。

[参考文献 「境界性パーソナリティ障害 最新ガイド」 (星和書店) ]
 
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BPDの生物学的原因 (1)

2007年02月09日 20時04分08秒 | BPD,パーソナリティ障害の書籍から
 
(関連記事
http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/17091476.html 
http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/18478190.html )

 拙著を執筆したときには まだよく分かっていなかった BPDの生物学的原因が、

 現在アメリカでは だんだん定説になりつつあるようです。

 確かに 養育歴による影響が 大きいと言われていますが、

 米国精神医学界の治療ガイドラインや ほとんどの精神医学のテキストで、

 BPDの遺伝的要因を 記しているそうです。

 元々脳に 障害のファクターがあるのだということは、

 BPDは性格の問題と言われるよりも 人から理解を得やすくなるのではないでしょうか? 

 生まれながらの障害は、親の責任でも 子供のせいでもありません。

 まず先天的に脳に 何らかの原因があり、

 その後 環境的な要素が加わって BPDが生じてしまいます。

 親の育て方だけでは BPDにはならないのです。

 実際、虐待を受けた子供のうち大半は 心に傷を持っていても、

 BPDのような 深刻な症状を起こしません。

(むしろ 幼児期の性的虐待は 成人後のうつ病に関係しているということです。)
 

 脳の気質によって 生まれつき過敏だったり 衝動性が強かったり、

 感情のコントロールが 苦手だったりする子供は、

 親にとっても扱いづらく、親子双方にトラブルを もたらしやすくなります。

 そのような子にとっては 他の子には普通であるしつけなども、

 過剰にストレスに感じて 混乱してしまうでしょう。

 すると 親もさらに困惑し、ヒステリックになったりして、

 親子関係が 悪循環に陥ってしまいます。

 BPDの子は 人一倍傷つきやすいために、他の子と同じ体験をしたとしても、

 親に対する不満や 愛情欲求が より以上に強くなってしまうのです。

(続く)
http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/45027369.html
 
[参考文献 「境界性パーソナリティ障害 最新ガイド」 (星和書店) ]
 
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「幸せのちから」

2007年02月08日 12時10分17秒 | 映画
 
 ウィル=スミス主演の 実話を元にした作品です。

 骨密度測定器を売るクリスは 事業に失敗し、

 妻に逃げられ、アパートも追い出されてしまいます。

 幼い息子を抱えて、一流証券会社への就職に 挑戦することになりました。

 しかし、採用されるのは 20人のエリートの中から たった一人、

 しかも 半年間の研修期間は無給という 過酷な条件なのです。

 現代版 「自転車泥棒」 (1948年・伊) と評する レビューがありましたが、

 まさに どん底で奮闘する ペーソスも感じさせました。

 僕には子供はいませんが、守るべきものがあると 人間は本当に強くなれるのですね。

 クリスの息子を ウィル=スミスの実の息子が演じ、

 とても自然で 達者な芝居を見せていました。

 将来期待の役者ではないでしょうか。

 
 ストーリーは、こんな偶然のハプニングばかり起こるか

 と思ってしまう所もあるのですが、

 ラストシーンの演出と ウィル=スミスの抑制しきった演技が、

 深い感動を呼び起こします。

 終わり良ければ 全て良し、 と感じてしまった映画でした。
 
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「それでもボクはやってない」 (3) [おまけ 「愛の流刑地」]

2007年02月07日 11時43分20秒 | 映画
 
( http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/44904348.html からの続き)

 「10人の真犯人を逃がしても、一人の無辜 (無実の人) を生んではならない」。

 裁判の金科玉条です。

 ところが 日本の裁判の現状は、それが死守されないだけでなく、

 “疑わしきは 被告の不利益に”

 とされているのが 現実であるかのようです。

 そういう意味でも、2009年に施行される 裁判員制度の必要性は

 非常に大きいのかも知れません。

 そんなことを思わされた 作品でした。
 

 
(この日 (映画の日) は、もう1本 法廷劇の映画を観ました。

 渡辺淳一・原作の 「愛の流刑地」 です。

 性行為の最高潮に達したとき 女が男に 首を締めて殺してくれと懇願し、

 実際に死なせてしまうということが ありうるのか、

 僕には分からないので 何とも言えないのですが……。

 「それでもボクはやってない」 で、主人公と拘置所で相部屋の

 ちょっとオカマっぽい役回りだった 本田博太郎が、

 この映画では裁判長役をしており 少々苦笑い。

 また 長谷川京子の演じる 女性検事が、やけに肌の露出度が多くて

 法廷でもシナを作ったりし、声も高目で 浅薄に思われました。

 周防監督のリアルな演出に比べて 見劣りを感じてしまった次第です。)
 
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「それでもボクはやってない」 (2)

2007年02月06日 10時54分39秒 | 映画
 
( http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/44885903.html からの続き)

 国家権力の前に 我々は全くの無力です。

 容疑者段階での人権蹂躙も 目を覆うばかりのものがありました。

 推定無罪でなければ いけないはずなのに、

 拘置所から検察庁へ送られる際の 罪人扱いぶりは 僕も始めて知ったことで、

 信じられないくらい 屈辱的な待遇でした。
 

 周防監督は、とにかくリアルに表現することを 心がけたということです。

 供述調書は 全く警察の作文であること,

 検察官も 容疑者の話を 端から聞いてくれないこと,

 日本の裁判の有罪率は 99.9%であること,

 裁判官も自分の保身のために 公正さを欠いてしまうのは人情であること,

 それらが 簡単に起こりうる現実を 映画は伝えてきます。

 言うまでもなく、全ての裁判官,検察官,刑事が 悪質なのではなく、

 いい人間は当然 沢山いるわけで、何でも冤罪になるわけではないでしょう。

 でも 裁判官という職業に限っては、他の仕事のように

 いい人もいれば 悪い人もいる、では困ってしまいます。

 悪徳医師や 不正な警官などから 被害を受けたとしても、

 裁判はその悪を正す  「最後の砦」 でなければならないはずです。

 ところが、日本の裁判は 真実を明らかにする場所ではなく、

 法廷という限られた空間で、書類の上だけで、裁判官の心証で、

 取り敢えず 判断が下されるに過ぎないのだ ということが表されます。

(続く)
http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/44935988.html
 
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「それでもボクはやってない」 (1)

2007年02月05日 20時20分07秒 | 映画
 
 周防正行監督の 11年ぶりの最新作です。

 実際にあった 痴漢冤罪事件をベースにして、

 あたかも ドキュメンタリーのように作られています。

 主人公の男性(加瀬亮)が、満員電車のドアに挟まれた 自分のコートを引き抜こうと

 手を動かしていたのを、前にいた女性に 痴漢と間違われたこと,

 それを目撃していた 別の女性の証言があったこと,

 友人や家族達が総出で 電車内の再現実験をして、

 主人公に犯行は無理だと 実証したことなど,

 事実をそのまま踏襲しています。

 もちろん 事実とは違う部分もあり、ラストに向かいます。

 実際の事件の経緯は 僕も報道を通じて よく知っているので、

 話の流れは分かっているわけですが、それでも 引き込まれて観てしまいました。

 但し、周防監督が作る必要が あった作品なのか、とは思ってしまいますが。

 
 周防監督は この冤罪事件を取材するうちに、日本の裁判のシステムに疑問を抱き、

 人権侵害への怒りや 冤罪を生む土壌を 訴えたかったといいます。

 僕も以前、裁判官のことを調べたことがあるので、

 信用していた日本の裁判でも 冤罪は充分ありうるのだ ということは知っていました。

 でも それを実写で表現した この作品を観て、

 もし自分が 無実の罪を着せられたときの 裁判の恐ろしさを、

 実感として感じました。

 元々 物証のない痴漢事件では、

 やっていないということを 被疑者側が証明しなくてはなりません。

 それは やったことを証明するより はるかに難しいことです。

(続く)
http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/44904348.html
 
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「どろろ」 (3)

2007年02月04日 12時02分26秒 | 映画
 
( http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/44813722.html からの続き)

 百鬼丸に同行するどろろも 魔物と闘う百鬼丸に加勢して、

 次第に二人は 兄弟のような感情で 結ばれていき、

 さらには 男女の愛情にも育っていきます。

 その道程で、百鬼丸の体を魔物に差し出したのは ほかならぬ百鬼丸の父・景光であり、

 その父に捨てられたのだ ということが分かってきます。

 百鬼丸は どろろの宿敵の子供だったのです。

 どろろの心には 憎しみと愛情の 激しい葛藤が渦巻きます。

 百鬼丸は、生きる目的を 失いかけてしまいます。

 決別する二人ですが、どろろは再び 百鬼丸の前に姿を見せ、

 復讐の憎しみを捨てるから 百鬼丸も生きろと 訴えるのです。

 そしてクライマックスは、百鬼丸と景光の一騎討ちへと 向かっていきます。

 そこに魔物が現れ、景光に再び 悪の取引を迫るのでした。
 

 映画は 壮観なスケールで展開しながら、

 生身の人間の感情を 目の前に突きつけます。

 愛情と憎悪が 同時に交錯し、激しくぶつかり合うのです。

 作品のテーマは 親子の愛憎、失われたものの回復、迫害への怒り、

 そんな世界で 虐げられた者の生きる力など、

 多様なものが 含まれているでしょう。

 手塚作品は重層的で、様々な人物と要素が絡み合い、物語が広がっていきます。

 正に手塚治虫は 日本が世界に誇れる 偉大な巨匠でした。

 

(僕は学生時代、 「手塚治虫展」 の会場で 手塚治虫さんと

 直接 言葉を交わしていただいたことが 忘れられません。

 そして 巨星が落ちた時には 青山斎場へ焼香に行きました。

 一般参列者の長い列に並んでいると、当時僕の担当だった編集者が 僕を見つけて

 関係者の列に案内してくれたため、短い列で、

 手塚さんの大きな遺影のある祭壇のほうで 焼香することができました。

 著名人の葬儀に参列したのは 僕はそのときだけです。)
 
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「どろろ」 (2)

2007年02月03日 10時23分43秒 | 映画
 
( http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/44799445.html からの続き)

 映画の設定は、

 “いつでもない時代、日本に似た どこでもない国”とされています。

 ニュージーランドでのロケーションは、その雰囲気を荘厳に表しています。

 どろろは 原作では少年ですが、映画では 大人の設定になっています。

 親子関係にまつわる愛憎、乱世を生き延びるバイタリティなどを

 子役で表現できるか、

 また 長丁場のアクションに 子役が耐えられるか、という懸念があったそうです。

 そこで 柴咲コウを想定した シナリオを書く(当て書き)というところから、

 作品は出発したといいます。

 なお どろろは 実は女ですが、母親の遺言により 乱世を生き抜くために、

 本当に強い男と出会うまでは 男として生きています。

 そんなどろろを、柴咲コウは闊達に演じて 小気味よく感じました。

 百鬼丸も 原作では14才ですが、映画では20才前後に 推定されています。

 まだ少年の面影を 残しているという役柄ですが、

 妻夫木聡は虚無的ながらも とても美しい風貌を 漂わせていました。

 
 話の縦軸は、百鬼丸の念が 魔物との遭遇を呼び寄せて 果たし合い、

 体の部分を取り戻していく というものです。

 例えば 百鬼丸の右足を奪っていた 魔物を倒すと、

 今まで作り物だった 百鬼丸の右足が脱落し、本物の右足が 生えてくるのです。

 アクション監督は 「少林サッカー」 「LOVERS」の チン=シウトンが務め、

 CGも駆使されています。

 特に、肘から先が刀になっている 百鬼丸に腕に、

 呪い医師・寿海が 作り物の手をはめ込むと、

 それが 妻夫木聡の腕となって動きだす というノーカットのシーンは、

 熟達した技術者が 1ヶ月もかけて作ったそうです。

(続く)
http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/44844014.html
 
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「どろろ」 (1)

2007年02月02日 20時34分48秒 | 映画
 
 手塚治虫・原作 「どろろ」 の 初の実写版映画です。(塩田明彦 監督)

 手塚さんの主な作品のなかで、僕は 「どろろ」 は読んでいなかったのですが、

 改めて手塚さんの 偉大さに感じ入りました。

 その世界観の大きさと深さ、多彩さ。

 しかも そういう壮大な傑作を 手塚治虫は同時に 何作も執筆していたのですから、

 「天才」という言葉でさえ くくりきれないように思えます。

 
 原作の時代設定は 戦国の世、

 武将・景光(中井貴一)は 天下統一の野望と引き換えに、

 48人の魔物たちと 禁断の契りを交わします。

 妻が身ごもっている我が子の、体の48ヶ所を 魔物どもに引き渡したのです。

 そして生まれた 百鬼丸(妻夫木聡)は、魔物に奪われた体を 取り戻すために

 魔物と対決していく、という着想が 傑出しています。

 百鬼丸は 生まれてすぐに捨てられ、

 呪い医師・寿海(原田芳雄)に 拾われます。

 百鬼丸は寿海によって 作り物の体を与えられ、

 実の父のことも知らず、武術を仕込まれながら育ちます。

 寿海の死を機に、百鬼丸は 自分の体を取り戻す旅に出、

 その途中で どろろ(柴咲コウ)に出会います。

 どろろは実は 景光に親を殺された身で、

 天涯孤独ながら 獣のような生命力で 地を這いずるように生き抜き、

 景光への復讐を 胸に誓っています。

 そんな運命のいたずらを 知るよしもなく、

 二人は最初は反目しながらも 旅の道連れとなるのです。

(続く)
http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/44813722.html
 
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