「境界に生きた心子」

境界性パーソナリティ障害の彼女と過ごした千変万化の日々を綴った、ノンフィクションのラブストーリー[星和書店・刊]

日本の被災者の 誇るべき心

2011年04月12日 22時02分59秒 | 東日本大震災
 
 日本人の被災者の姿は、 海外メディアから依然として 驚異の目で見られています。

 米・ クリントン国務長官

 「日本人が この震災にあたって見せた  “忍耐” の精神に、

 敬意を覚えざるを得ません」

 米・ ロサンゼルスタイムズ

 「巨大地震も、 日本人の 非の打ち所のないマナーを 変えることはなかった」

 英・ フィナンシャルタイムズ

 「日本はこの危機を前に、 驚くべき落ち着きと、

 堅忍不抜の精神を持って 臨んでいる」

 中国・ 第一財経日報

 「日本は国民の間に、 自助・ 共助・ 公助の意識が 身に付いている」

 イスラエル医療チーム

 「日本人は痛みを我慢し、 文句も言わず、 静かに治療を受けていました」

 「ここまで悲惨な災害に 直面した人たちが、

 冷静で秩序を保ち、 他人に配慮している様子は 見たことがありません」

 米・ CBSリポーター

 「海外メディア関係者は 被災者の姿に ショックを受けました。

 家を失い 何もかもありませんでしたが、 失っていないものがありました。

 それは人間としての 尊厳です」

 2005年のハリケーン・ カトリーナや 去年のハイチ大地震で 見られたように、

 極限状態では 水や食料を求める混乱や、 略奪・ 凶悪犯罪などが頻発します。

 ところが 今回の震災では、

 一部で 車からガソリンが抜き取られたり、 物が盗まれた被害はありましたが、

 全体として 被災地の治安の良さが 言われています。

 世界が驚いた 冷静さや忍耐強さは、 一体どこから来たものなのでしょう? 

(次の記事に続く)

〔 TBS 「サンデーモーニング」 より 〕
 
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店に広がる 義援金の輪

2011年04月10日 21時34分32秒 | 東日本大震災
 
 東京の各地で、 東北へ義援金を送る 店舗が沢山出てきています。

 八重洲にある 福島の観光物産店は、店先で福島の青果を 2割引で販売しています。

 売上は 全て義援金になります。

 出荷制限がされていない農産物なので、 利用客は 「気にしていない」 と言います。

 開店からわずか15分で 完売しました。

 港区の創作料理の店では、 1500円のリゾットの売上を 青森の義援金に。

 さらに このリゾットが注文されるごとに、 店から1500円を募金します。

 また、 福島の農家から預かった 米粉ときな粉で 試作のパンを作り、

 販売すると 次々に売れていきました。

 「福島県産だから 買いに来ました」 という お客さんたち。

 渋谷のボーリング場では、 ストライクが1回出ると 100円を寄付します。

 1ゲーム600円なので、 6回ストライクが出ると 店は赤字です。

 このボーリング場は 地震当日、 帰宅困難者に避難所として開放しました。

 食べ物や飲物を 無料で提供したそうです。

 赤坂の神社は、 地震で屋根瓦が落ちるなど、 自らが被災しました。

 賽銭箱の隣の募金箱は、 賽銭箱より ずっと多くのお金が 入っているといいます。

 住職は ありがたいことだと言い、 募金を日赤に送ります。

 元スーパーウェルター級チャンピオン・ 輪島功一さんが営む 団子屋さん。

 50円以上寄付した人は、 70円のみたらし団子が ただで食べられます。

 輪島さんは、 頭先行はだめ、 心先行、 そして行動だと言っています。

 赤坂の飲食店は、 東北の食材で 義援金メニューを作り、 全てを義援金に。

 オープンするとき 三陸の漁師に助けてもらったので、 その恩返しなのだといいます。

 多くの人が 互助の気持ちで、 被災地に手を差し伸べたいと 思っているのですね。

〔 テレビ朝日 「スーパーJチャンネル」 より 〕
 
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日本人と桜の物語 (2)

2011年04月09日 20時14分52秒 | Weblog
 
(前の記事からの続き)

 江戸時代になると、 庶民も花を見られる 場所が増え、

 桜の品種改良も 盛んに行なわれました。

 赤い関山 (かんざん)、 緑色の御衣黄 (ぎょいこう)、 楊貴妃、 菊桜、

 江戸の人たちが見ていた桜は バラエティーに富んでいたのです。

 明治の世となり、 桜が植えられていた 大名屋敷や庭園は、

 次々と取り壊されて 洋館に変わっていきます。

 桜は切り倒されて 薪にされ、 絶滅の危機に瀕します。

 高木孫右衛門という植木職人は、 かろうじて残った桜を 探し歩きます。

 桜は環境の変化に弱く、 移植して育てるのは 難しい作業ですが、

 高木は試行錯誤しながら 桜を根付かせていきました。

 清水謙吾は 高木に桜を分けてもらい、

 堤防を作る予定だった荒川堤に 桜並木を作ることにしました。

 村を活気づけようと、 50人の有志で 始められた計画に、

 150人以上の村人が参加します。

 桜を根付かせる作業は、 10年を超える 長い取り組みになりました。

 24年後の明治43年の春、 荒川堤の桜が 一斉に咲き誇ります。

 桜は78種類、 3200本に達し、

 ピンクや赤、 緑に黄色などが咲き乱れて、 「五色桜」 と呼ばれました。

 絶滅寸前だった 品種の保存が進み、 ここから全国に広がっていったのです。

 さらに 荒川堤の桜は海を渡り、 ワシントンの桜並木は 日米友好の証です。

 しかし 太平洋戦争が勃発、 物資が極端に不足するなか、

 荒川堤の桜は 燃料として切り倒され、 消えしまいました。

 それから 30年以上経った昭和56年、

 かつて ワシントンに送られた桜が、 枝分けされて送り返されてきました。

 足立区では、 以前の桜並木を再現する 取り組みが進められています。

〔 NHK 「歴史秘話ヒストリア ~ 桜の木に恋して ~」 より 〕
 
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日本人と桜の物語 (1)

2011年04月08日 21時27分34秒 | Weblog

 NHKで 桜の歴史の物語をやっていました。

 平安時代は 「花見」 と言えば 梅だったそうです。

 けれども嵯峨天皇は、 たまたま通りかかった地主神社の 桜を見て感銘します。

 3回も牛車を引き返させ、 桜の花に見とれたといいます。

 以後毎年、 神社から桜の枝を 宮中に献上させるようになりました。

 花宴 (公式の花見) を始め、 他の貴族の間にも 桜は急速に広まっていきます。

 そんななか、 藤原定家は 御所の桜の美しさに 心を奪われ、

 ある明け方、 御所に侵入し 桜の枝を盗んでしまいました。

 翌日 天皇に問いただされる 羽目になったといいます。

 藤原俊家は 御所の桜を見て、神聖な場であるにも拘らず 歌いだし、

 護衛も一緒に 踊りだしてしまいました。

 妃の中宮彰子は、 興福寺の桜を 根っこから引き抜いて 持っていこうとし、

 興福寺の僧兵と 一触即発の瀬戸際に。

 桜の美しさは かくも人の心を惑わすのでしょうか。

 源氏物語でも 桜は重要なモチーフで、

 桜は美しい女性の 代名詞となり、 愛されていきます。

 万葉集では 桜より梅が歌われていましたが、 古今和歌集では これが逆転しました。

 源氏物語でも 桜は重要なモチーフで、

 400年前、 醍醐寺で 日本最大の花見が行なわれました。

 開催したのは豊臣秀吉、 何と700本の桜を 植林したといいます。

 今まで妻や側室たちに 苦労をかけてきた秀吉は、

 女性を労うために演出したのだそうです。

 娯楽施設も建設して、 醍醐寺を 桜のテーマパークに作り上げました。

 さらに、 参加する1300人の女房衆に、

 約40億円かけて 一人3着ずつの着物を 新調したといいます。

〔 NHK 「歴史秘話ヒストリア ~ 桜の木に恋して ~」 より 〕

(次の記事に続く)
 
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被災のなかで 想い出の花見

2011年04月07日 22時14分28秒 | 心子、もろもろ
 
 震災のことに気を取られているうち、 知らない間に 桜が満開を向かえていました。

 勤務先の隣の公園の桜が ちっとも咲かないので、

 今年は遅れているのだろうと 思っていたのです。

 でも 勤務先の近くの大きな公園では すっかり満開となり、

 先日は 利用者さんと一緒に 花見に行ってきました。

 とても天気もよく、 桜の下で弁当を広げ、 楽しんでもらえたと思います。

 「淡い色でいいわね」 「素晴らしい」 などと言われ、

 撮った写真も喜んでくれました。

 今日は 心子と楽しんだ桜並木にも 行ってきました。

 例年より 人出が少なめでしたが、いまだに自粛ムードなのでしょうか。

 自粛による経済停滞は 復興を妨げると言われて、 何日も経つというのに。

 岩手県の南部美人の蔵元が 動画サイトで、

 自粛によって 経済的な二次被害を受ける、

 花見をして お酒を飲んでもらう方がありがたい、 と訴えて 話題になっていますね。

 岩手県知事も、 被災地の復旧には 力強い日本経済が 不可欠だと言い、

 日本の元気が 復興に繋がると訴えています。

 さて、 桜はおおよそ満開でしたが、 つぼみもまだあり、

 何故か木によっては 五分咲きくらいのものもありました。

 来週も見頃かもしれません。

 心子とベンチに座った 公園がふたつ、 造成中で 新しく姿を変えてしまいます。

 彼女が 火事を発見した民家は、 その後取り壊されて 駐車場になっていましたが、

 今日見たら 芝生の公園になっていました。

 だんだん当時の面影が 変化していってしまいますが、 これも街の発展でしょうか。

 想い出は大切で そのままの形で 取っておきたいものですが、

 新しい姿を受け入れていくのも 必要なのかもしれません。

 東北の人たちも 失われた過去の上に、 新たな将来を 築き上げていくことでしょう。
 
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古い設計を見直さなかった 福島第一原発

2011年04月07日 00時12分39秒 | 東日本大震災
 
 「福島第一原発は、 他の原発と比べても 極端に津波に弱いんです」

 原子力安全委員の一人は そう指摘しました。

 福島第一原発では、 非常用ディーゼル発電機が タービン建屋内に設置され、

 海水ポンプ (冷却用の海水をくみ出すもの) も むきだし状態で置かれています。

 一方 第二原発は、 非常用発電機は 機密性の高い原子炉建屋に 設置され、

 海水ポンプも建屋に覆われています。

 その結果、 第一では発電機もポンプも ほぼ使用不能になったのに対し、

 第二では機能が維持されたのです。

 第一原発は 国内では最も古い部類で、 60~70年代に建設され、

 70~80年代に 耐震性が強化されましたが、

 発電機の設置場所や ポンプの建屋は 検討されませんでした。

 移設をすると 大規模な工事になってしまい、

 多額の費用が かかってしまうからだったといいます。

 そもそも 第一原発の原子炉の設計図は、 当時アメリカから まるまる買っただけで、

 設計図通りに作ることが 当時の命題でした。

 試行錯誤しながら学ぶ 練習コースのようなもので、

 日本には 改良する技術の蓄積がありませんでした。

 しかしアメリカは 地震や津波への警戒が少なく、

 スリーマイル以前の 古い設計思想で作られていました。

 その後 第二原発は、 経験を積みながら 改良されていきましたが、

 第一原発にその安全思想は 還元されなかったのです。

 想定以上の津波の危険性は 元より指摘されており、

 防波堤を高くすることは 東電内部でも言われていました。

 ところが東電幹部は、

 「後から高くすると、 当初の津波対策は甘かった と指摘されてしまう。

 それを避けたかった」 と言うのです。

 安全が大切なのか、 自分の面子が大事なのか、 全くもって話になりません。

 設計思想を 根本的に変える必要があります。

〔 朝日新聞より 〕
 
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避難所での認知症の人

2011年04月06日 12時06分31秒 | 介護帳
 
 避難所での暮らしが長引くと、 ストレスに弱い 認知症の人は混乱しがちです。

 落ち着かずに 大声を出したり、 徘徊する (歩き回る) 人もいます。

 被災して 急激に症状が悪化した人も 多いといいます。

 「避難所で 老人がうろうろして困っている」

 「食事が配られても 一人では食べられない」

 認知症グループホーム協議会には、 様々な相談が寄せられます。

 でも ちょっとした配慮で安定し、 周りの負担も軽くなります。

 お年寄りからは  「どうしてここにいるの?」 と聞かれます。

 「地震だよ」 と 簡潔に答えるのがいいそうです。

 「皆でいるとあったかいから、 くっついていよう」 と

 肌の触れ合いを大切にします。

 認知症の人は、 人の出入りや雑音が多いと 落ち着きません。

 避難所では、 出入り口から離れた所に 居場所を確保するのが望ましいですが、

 難しければ 本人の座る向きを 出入り口と反対にするだけでも 違います。

 時折、 外の空気を 一緒に吸いに行ったり、 手足や足首を温めるなど、

 少しでも心地よい刺激を与えます。

 触り心地のいいタオルや毛布を 渡すのも有用です。

 片づけや子供の見守りなど、 高齢者の力を発揮できる 場面作りも心がけましょう。
 

『避難所で過ごす 認知症の人・ 家族への支援ガイド』

・ ざわめきや雑音の ストレスから守る工夫

・ ゆったり、 ひとつずつ伝える

・ 本人なりに見当がつくよう、 情報を

・ 飲食、 排泄、 睡眠の確保

・ 少しでも 「快の刺激」 を

・ 体を動かそう

・ 落ち着かない場合、 抑えるのではなく、 早めに 本人にそった対応を

・ 見守る家族や介護職員が 解放される時間の確保

「いつどこネット」 参照

http://itsu-doko.net/support_refugees/index.html

〔 朝日新聞より 〕
 
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再会を待つ亡骸(なきがら)

2011年04月05日 07時51分21秒 | 東日本大震災
 
 「会えてよかった……」

 静まり返った体育館で、 遺族が 物言わぬ亡骸に語りかけています。

 行方知れずの家族を 見つけることさえ困難な状況で、

 愛する人が 亡くなった悲しみよりも、

 やっと会えたという 安堵感が溢れてくるのだといいます。

 体育館の床には、 緑色のシートが敷かれ、

 袋にくるまれた遺体が 整然と並んでいます。

 遺体が多すぎて、 棺に入ることができないのです。

 遺体は 顔が膨れ上がるなどして、 確認しにくいものが 半数ほどだといいます。

 それでも遺族は その前でじっと目を凝らし、 踏みとどまっています。

 普通なら 直視できないような光景ですが、 遺族は必死に捜しているのです。

 運良く探し出せても、 抱きしめることはもちろん、 触れることさえできません。

 感染症の恐れがあるため、 警察から止められているのです。

 顔を近づけて 感情を吐露することしかできません。

 きれいな状態で発見され、 身元が分かる 持ち物があるのに、

 いつもでも引き取られない人もいます。

 恐らく家族全員が 帰らぬ身となってしまったのでしょう。

 身元が特定できない遺体は、 発見場所の市町村に 引き渡されることになりました。

 遺体は 家族の元に戻ることなく、 葬られることになります。

 遺留品などを確認、 DNA資料や写真を保管して、

 担当課長が用紙にサインし、 遺体引渡し手続きが行なわれます。

 市内の火葬場だけでは とても対応しきれませんが、 土葬にするのは忍びなく、

 遠方の火葬場に運ぶということです。

 あくまでも仮埋葬、 いずれ永代供養しますと、 住職は話しました。

〔 朝日新聞より 〕
 
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原発をPRした、 つらい世話役

2011年04月04日 07時34分49秒 | 東日本大震災
 
 福島第一原発で働いていた 社員たちが、 避難所で 被災者の支援をしています。

 原発のそばで生まれ育ち、 原発の安全性を PRしてきた人たちです。

 自らも被災しながら、 事故の重さを背負って、

 隠れるように働いているのだといいます。

 第一原発広報部のリーダーだった 社員Sさんは、 避難所支援に名乗りを挙げました。

 「原発の町」 大熊町に 生まれたSさんにとって、

 原発は 「あこがれの職業」 でした。

 広報を担当して7年、  「原発は安全安心」 と説明し続け、

 「津波がきても大丈夫です」 と 百回も言いました。

 「みんなに石をぶつけられても、 ののしられても仕方ない」 と 思いました。

 ところが 避難所の人たちは、

 「よう手伝いに来てくれたなあ。 あんたは大丈夫か」 と 声をかけてくれます。

 「とても温かいのが、 かえってつらいのです」

 町の 「臨時役場」 に寝泊まりし、 支援作業をする 東電広報部の社員もいます。

 東電との連絡役として 朝夕2回、 町に 第一原発の現状を伝えます。

 手の空いた時間には 掃除を手伝っています。

 ずっと見学者らに  「原発は安全」 と説明してきました。

 「事故のことを どう説明すればいいのか。 言葉が見つからない」

 東電原子力立地本部の部長は、 各地の避難所や自治体を訪ねて 謝罪をする日々です。

 首長に 面談を断られることもあります。

 「地域への貢献を原点に 仕事をしてきたつもりだった。

 非常に申し訳ない 気持ちで一杯です」

 原発で成り立つ 町のために尽くしてきた、 東電の社員たちに 罪はないのです。

 彼らもまた被災者であり、 被害者です。

〔 朝日新聞より 〕
 
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「命がけ」 の作業

2011年04月03日 16時46分12秒 | 東日本大震災
 
 「作業員の安全」 か、 「原発事故の収束」 か--。

 究極の選択が迫られています。

 ある厚労省幹部は 心情を漏らしました。

 「仕事に 『命がけ』 が あっていいわけがない。

 でも 原発を抑え込む重要性は、 労働政策の域を超えている。

 労働者の安全と どちらが優先されるべきか、 自信が持てない」

 「原発の危険を収束させてほしい」 という 国民の期待が大きく、

 労働者の安全確保に 影響することが懸念されています。

 平時と比較すると、安全管理は機能マヒと言えます。

 深刻なトラブルが 連鎖的に起こり、 その対応に追われて、

 作業の安全管理まで 把握できなかったということです。

 3月24日には、 作業員が 放射線の線量計を持たずに 水に浸かって、

 被曝しました。

 東電は高レベルの放射線量を 確認していたにもかかわらず、

 作業員に伝えていませんでした。

 人手が足りず、 正規の作業手順が省略されることが 続出していたといいます。

 ケーブル敷設や水の除去など 作業は山積みですが、

 作業時間が長くなれば 被曝量は多くなります。

 一人の放射線量が増えないよう 人海戦術が必要ですが、

 作業員の安全な作業のために 環境を細かく把握しなければなりません。

 しかし、 作業員たちが危険を覚悟で 臨んでいることも事実です。

 作業員は、 「とにかく自分たちで 何とかするしかない」 という 思いでいます。

 ある協力会社は社員に、

 「作業を拒否できる」 ことや、 「拒否しても査定に影響しない」 ことを

 明示しましたが、 全員が 「行きたい」 と答えたそうです。

〔 朝日新聞より 〕
 
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途上国の心からの支援

2011年04月02日 22時30分43秒 | 東日本大震災
 
 海外からの支援が 続々と届いていますが、

 途上国からの支援も多いのが、今回の特徴だといいます。

 アフガニスタンが2千万円、 ガボンが8千万円、

 モンゴルは国家公務員全員が、 給与1~5日分を寄付することを

 決めたということです。

 さらにモンゴルでは、 孤児院が 生活保護金一ヶ月分を寄付したいと 申し出ました。

 日本の大使館員は 一度それを断りましたが、 孤児院側は 

 「子供たちが、 そう言っているんです」 と言ったそうです。

 モルジブでは、 国営放送が 義援金を募る24時間テレビを放送し、

 また大統領が呼びかけて ラジオ番組も流されました。

 というのは、

 日本のODA (政府開発援助) がモルジブに 護岸工事を行なったことによって、

 2004年スマトラ島沖地震の 津波が押し寄せたとき、

 一人も死者が出なかったのです。

 モルジブの人は 子供でも誰でも それを知っており、

 「日本ありがとう」 と 感謝しているそうです。

 あるスリランカ人は、

 スマトラ地震のとき 真っ先に助けに来てくれたのが 日本人だったと言って、

 被災地で 4000人分のカレーの 炊き出しをしました。

 ケニアの寒村で、 日本人の保健指導員の下に、

 現地の住民が  「これは日本の被災者に 役に立つでしょうか?」 と、

 村で取れる 数少ない作物である 豆を持ってきたそうです。

 村では 食料も満足にない中、 ラジオで日本の被災を知って 何かできないかと、

 自分たちの食べるものを 送ろうとしたのです。

 指導員はさすがに、

 「大丈夫です。 気持ちだけ受け取らせてもらいます」 と 伝えたということです。

 スペインの7才の女の子が、

 乗馬のために貯金していた 60ユーロ (約7000円) を、

 「日本の人のために 使ってください」 という 手紙と共に寄付しました。

 こうした活動が 各地で起きているのです。

 日本は 今年の人道的支援が 世界3位という援助大国ですが、

 被援助国としても スーダンに次ぐ2位となりました。

 世界の人は 本当に相身互いです。

 このことを忘れずに、 苦しいときに 助け合っていきたいものです。

〔 朝日新聞, TBS 「ひるおび!」 より 〕
 
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放射線下での限界作業

2011年04月01日 21時49分41秒 | 東日本大震災
 
 福島第一原発で奮闘している、 東電や協力会社の 作業員は約500人。

 3日働いて1日休む ローテーションで、

 楢葉町近くの 民宿や宿泊所から通っています。

 原発敷地内では、 免震重要棟の 「緊急時対策室」 を 拠点としています。

 放射線を防ぐ 特殊な構造で、 放射線を取り除くフィルターや、

 作業員を除染する設備もあり、 防護服なしで過ごすことができます。

 昨年7月に完成したばかりで、 それが不幸中の幸いでした。

 寝泊まりができますが、 ベッドが足りないので、

 作業員は毛布にくるまって 雑魚寝しています。

 食事は1日2回、 朝は乾パンと野菜ジュース、 夜はレトルト食品や缶詰です。

(ただし当初は ビスケットやジュースなどだけで、 1日400キロカロリー、

 水も1日1.5リットルだった という話を聞きました。

 極限の環境下の 心身とも過酷な重労働には、 とても耐えられないような悪食です。

 文字通り我と我が身を懸けて 日本を救おうとしている勇士に対して、

 拷問のような待遇です。)

 放射線量の高い場所で 作業をする場合は、

 放射線管理員が 事前に放射線量を測定し、 安全を確かめてから作業に入ります。

 汚染水の処理や、

 機器の復旧や動作確認など 電気系統に関わる 仕事をしているようです。

 人海戦術なので、 その都度 協力会社に連絡して 応援を求めています。

 人数を増やして、 一人当たりの負担や被曝量を 少なくしなければなりません。

 いま 一番重要なのは、 作業員たちの待遇改善です。

 疲労からくる作業ミスによる 二次被害を防ぐためにも、

 被曝線量をできるだけ抑え、 充分リフレッシュできる環境を 整えることが必要です。

 放射性物質を制圧しながら、 効率的に作業を進めるには、

 内外の知恵を 総動員しなければなりません。

 4つの原子炉施設で 同時並行に発生する、 未知数の危険に立ち向かって、

 死中に活路を見いだそうとする、 世界でも例のない難作業が

 いま行なわれているのです。

〔 参考資料 : 朝日新聞 〕
 
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泥縄式の福島原発

2011年04月01日 00時15分15秒 | 東日本大震災
 
 僕は大学で 建築学科だったのですが、

 入学直後に 原子力発電所の映画を見せられたのを、

 今でも印象深く 覚えています。

 科学の粋を集め、 原子力に対して 厳密な計算の元に、

 安全面でも 周到な防御をしている計画に、 当時の僕は 感動したものでした。

 核分裂する原子核という ミクロの世界と、 巨大な原子炉という マクロの世界が、

 まさしく合致したという  感慨を持ちました。

 僕は理系ですから、 科学の力を信じ、 原発は有益で 安全だと思ったのです。

 二十歳にもならない 世間知らずの学生に、

 原発の良い面だけを 描いた映画を見せ、 教化しようとしたのでしょう。

 原発の旧耐震指針が 国によって作られ、 原発を推進した 時期と一致します。

 ところがその後、 スリーマイルやチェルノブイリ、

 日本でも  「もんじゅ」 のナトリウム漏洩、 柏崎刈羽原発の事故など、

 いくつもの事故が起きました。

 原発は決して 完璧などではなく、

 こういう恐ろしい 現実は起こるのだと 思い知らされた次第です。

 そして今や、 次々と 予期せぬ危険な局面を あらわにする福島原発です。

 それらの緊急事態に、 正に泥縄式の対応で、

 汲々と追い立てられている 東電や行政。

 当初は僕は、 そのうち治めることができるのだろうと 楽観視し、

 こんな立て続けに 新たな難局が発生してくるとは 思っていませんでした。

 東電は どのような事態の可能性まで  “想定” していたのでしょう? 

 今後 どんな展開になるのか分からず、 長期化は免れません。

 ただ、 TVでは 解決策を述べている 専門家もいました。

 当面は タンクやタンカーに 汚染水を溜め、

 その間に 防水加工をした 大きなプールを作って 汚染水を集め、

 放射性物質を濃縮して ドラム缶にし、

 六ヶ所村 (核燃料再処理施設) へ持っていけば 確実に処理できると。

(数ヶ月の作業と言っていたか)

 しかしその後も、 炉心の冷却は 年単位の時間が必要で、

 廃炉には数十年かかるといいます。

 決して油断することなく、 かといって過度な反応もせず、

 予断を持たずに 見つめていかなければなりません。
 
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