今日4月6日の朝日新聞の朝刊都内版に、私が41年前の昭和42年に卒業した小学校である杉並第五小学校が「80年余りの歴史に幕」との記事が出ていました。荻窪に住まわれている方から、そのような話が出ているとは聞いてはいたのですが・・・。しかし、いざ私や妹が通っていた小学校が消えてしまうと聞くと一抹の寂しさがあります。その記事を呆然と眺めながら数多くの記憶が一気に蘇って来たのでした。
友達と、鉄人28号の主題歌をがなり立てながら帰宅した通学路。襷・鉢巻き扇子を持って応援団長をやっていた運動会。腎臓を悪くして長期欠席し、母が作った無塩弁当を毎日届けて貰っていた3年生の頃。選挙で学級委員に選ばれてしまって困惑した事。得意だった算数や体育の授業。授業中にお父さんがお亡くなりになったと呼ばれて泣きながら帰って行った同級生。諸先生方に時々叱って頂いた事。学校の都内巡りのバスで乗った首都高速道路がガラガラだった事。野球、水泳に明け暮れた夏の頃。カメラ好きの父が同行してくれた遠足、等々。全く忘れていたことさえも不思議と次々と思い出されて来たのでした。
私が入学したのが、昭和36年4月ですから東京オリンピックのまだ3年半前ですから、東海道新幹線はまだ無く、新宿駅さえも木造の駅舎であったと記憶しています。そんな日本がまだまだ貧しかった頃から、東京オリンピックという国際舞台に日本という国が再デビューして、あの奇跡の高度成長を続けた頃だったのでした。
「サラリーマンは~気楽な稼業と、きたもんだぁ!」という台詞ではじまる、クレージーキャッツ植木等の”スーダラ節”が大ヒットした頃でもありました。
その中央線荻窪駅の北側の住宅地天沼地区にある杉並第5小学校では、高度経済成長によって、地方からどんどんと若い子連れの勤め人家庭が流入して来たのでした。当時、東京駅から電車で30~40分ほどで来られる東京郊外の西外れの便利な町で、井伏鱒二などの著名な作家や画家なども住む文化の香る新興住宅地でもあったのでした。ちなみに、荻窪より西の小金井、国立、八王子などは、当時はまだまだ田園風景が多く残る長閑な土地でした。
そんな子供達を抱えた活気のある若い家族がひしめいていた当時の荻窪天沼地区も、今は高齢者だけが住む住宅と、独身者だけが住むマンションやアパートばかりなってしまって、小学校に通う子供達が居なくなってしまったようです。これも、時代の流れ。やむを得ないのかもしれません。そういう私自身も、既にこのこの町から離れてしまった一人である訳なのですから・・・。
この思い出が山のように詰まった小学校で起こった出来事を、これを機会に次回から少しづつ書き残してみようかと思っています。
残念ですよね。
私の母校は今は過疎で子供が少なくなり、
統合で廃校になっています。
しかも、看護学校まで・・・。
私の母校はことごとく無くなってしまいましたが
今でも思い出は残ったままです。
東京でも生徒が少なくなって廃校になるところもあるんだそうですね。
なんだか、不思議ですよ。
東京なのにって思うと。
けれど、少し郊外に行くと、田んぼや畑があって
田舎の風景を持っている都市なんですね。
昭和30年代40年代には、日本にはまだまだ子供が多かったのです。路上で遊ぶ子供は当たり前の時代だったのですが・・・。
一方で、土地価格の高騰で、若い家族連れが住める地域が可成り都心から遠方へ移動した事も都心の過疎化の原因かもしれません。
それでも、昨今はバブル崩壊から土地価格の下落が進み、一部で都心回帰現象が起きてはいるのですが、それでもまだまだ東京23区内の土地価格は、簡単に手が届く価格ではないようです。
母校にふらっと立ち寄ったとき、なぜかほとんど忘れていた当時の思い出が一気にあふれてきたのを思い出しました。
日本全国で廃校になっているところが増えているんですかね。
残念です。
そういえば東京も昔は自然がたくさんだったんですよね。
昔の原宿、秋葉原などの写真をテレビでみて驚きました。
杉並区は住宅街ですから、都心や地方のように小中学校が廃校になるとは夢にも思っていませんでした。それだけ、人口減少が深刻なのでしょうか・・・。
父が戦前の学生なのですが、「当時は、渋谷も田舎でねぇ。狸が出だほどだったんだよ!」なんて言われても、さすがにそこまでは・・・って感じですが・・・。
でも私が子供頃(昭和30年代)では、幕張、国立、八王子など、今ではショッピングセンターが居並ぶような近隣都市も本当に田舎でした。幕張なんて潮干狩りに行った所でしたから。本当に。