昭和37年小学校2年生の秋、私は慢性の腎炎であることが分かり、突然長期欠席せざるを得ない事になったのでした。
食事から塩分摂取を極力さける為に、御飯・味噌汁という朝食から、パン・コーヒーという食事に切り替えたのでした。そして、私だけには、更に無塩醤油、無塩バターを使った特別食を母が別途に作ったのでした。それは、お世辞にも美味しい食事ではありませんでしたが、作った母はさぞかし大変だったと思います。また、病の原因の一つであると思われた扁桃腺も切除しました。
まだ遊びたい盛りの子供にとって、学校を長期欠席せざるを得ない状況はとても辛いことでした。その上に、学校の授業を受けられなかったので、3年生へは進級できないと、年明け早々担任の先生に言われたのでした。私は、父母という家庭教師によって自宅学習することになったのでした。父は、算数と理科を担当し、母は国語と社会と担当しました。しかし、本当に一番辛かったのは、今思えば実は父や母だったのでしょうね。
私が発病したのは、ご近所に住む大学生が私と同じ腎臓病で亡くなった直後の事でした。ですから父や母にとってはさぞかし深刻で、本当に必死だったのだと思います。そして、私も子供ながらに、その父母の真剣さを理解したのでした。”また皆と遊びたい!XXさんのお兄さんみたいに死んじゃうのはいやだ~” 直らないかもしれない病を罹った8歳の子供の正直な気持ちでした。
1日でも早く学校に戻りたかった私は、味が無いような不味い食事でも我慢して食べました。また、父母が教えてくれた勉強もどんどん進んで取り組みました。結果、算数と国語は短期間で5~6年生レベルまで進んでいたのでした。
学校を休んで6ヶ月近く経った3月のある日、担任の先生が訪れて、私の健康状態と自宅学習の状態を見に来られたのでした。4月からの3年生としての通学については、医師からは一定の条件であれば、通学を再開しても構わないとの許可が出ていたのでした。一方で、担任の先生は、私の学力の進捗の事を最も心配していたようでした。しかしながら、算数、国語の進捗具合を見て、これなら進級に全く問題は無いと、私の3年生への進級を許可して頂いたのでした。
昭和38年4月、私は半年ぶりに学校に通うことができたのでした。しかし、飽くまでも特別扱いでした。体育はすべて見学、給食は食べずに午前中の授業4時間で帰宅していたのでした。しかし、検査結果が良好であったことから、午後の授業への出席も、その後直ぐに医師は許可してくれたのでした。但し、給食は別の食事とすること、体育の授業に出ない事が条件でした。
母は、毎日私に塩分を控えたお弁当やサンドイッチを届けてくれました。今でもその姿は決して忘れる事はありません。私が発病した年の夏のラジオ体操の日に付いて来て、そのまま居着いて飼い犬となったテリー系の雑種犬を連れて、毎日欠かさずやって来てくれたのでした。そして、いつも学校の校門の門扉に犬のベルトを結びつけ、校庭を弁当箱を抱えて縦断してやって来る母の姿を、私はいつも窓辺から眺めていたからです。私が気が付かなくとも、同級生が”中村君の弁当が来たよ!”と教えてくれたのでした。その手作り弁当は、旨味の基本というべき塩分が殆ど含まれていない特別食でしたから、決して美味しい弁当ではありませんでした。しかし、私は我慢して食べたのでした。でも甘い卵焼きだけは美味しかったと記憶しています。
そして、1年後の昭和39年3月、医師はついに腎炎から完治した事を宣言して、通常通りの生活を送ることを許可してくれたのでした。病に倒れてから実に1年6ヶ月後の事でした。当時、直らない病と言われていただけに、本当によく回復できたものだと今でも思っています。年老いた父は、今なお健在ですが、母は23年前60歳を前にして亡くなりました。父と同級生で、医学書を父に見せては今後の治療方法を丁寧に説明していた名医のM先生も、70歳を前にして既に亡くなられています。
こんな特別な思い出のある小学校も、もうすぐ跡形もなく取り壊される運命です。やはり、寂しい限りです。
先生も遊びたい盛りにそんなことになってしまって…
でも、お母様の気持ちがよく分かったから一生懸命頑張ったんですよね。
その頑張りが報われて本当に良かったです^^
しかし、本当に「母は強し」ですね!
(私はちっとも自信がありませんが(>_<))
私の母校でもあり娘の学校でもある、○○小学校…小さいので少し心配しています。
私高校も母校が残ってないので、小学校はずっと残っていて欲しいです(/_;)
あの当時、まだまだ日本の医療レベルや生活は決して高くない頃でした。そんな時代でも、医師のM先生(あの、白い巨塔の舞台となった大学のご出身)には本当に助けられました。勿論、父母の献身的な看病があってこそですが。
その後の事ですが、どこからか噂を聞きつけてきて、同じ腎臓で苦しむ子供を持つ方々から我が家に問い合わせもあったようです。また、M先生は、私を完治させたことで近所で評判となり、その後はいつも診療所から溢れる程の患者さんで一杯でした。それが、逆にM先生の寿命を縮めてしまったではないかと思うと複雑な思いです・・・。
さとみんみんさんの小学校は親子で同窓生ですか。そりぁ、尚更残って貰わないとね。でも、子供がどんどん減っていますから、どうなるのでしょうか・・・。
体にとっては重要な臓器です。
その当時で此処までの栄養管理ができていた
ということはかなり勉強していたのでしょうね。
そこからも助かってほしい、治って欲しいという
ご両親の願いが込められていることが分かります。
もちろんご自身の気持ちが一番重要なのですが
がんばる気力を持ち続けられたのも
ご両親と医師のおかげだったのでしょうね。
本当に、私が今日あるのは両親と医師のM先生のお陰だと思っています。この後、私は健康なスポーツ少年となったのですが、6年後私が中学3年生の時に妹が血小板減少性紫斑病になった時には本当に心配しました。
当初、白血病と思われた程の酷い症状で流石に、一時は駄目かと思われた程の症状だったからです。
この時は、流石に町医者の設備では対処できなかったのですが、当時の血液病の権威であったT医科大学のU教授をM先生は紹介して下さって、やはり1年数ヶ月かけて妹は助かりました。その妹も今では、大学生と中学生の母親ですから、本当に我々兄妹二人共、両親とM先生に助けられて今日があるのです。
今後ともよろしくお願いいたします。
こちらこそ光栄です。それにしても世の中狭いですね!ブログで知っている方と偶然お会いするとは思いもよりませんでした。
これも何かのご縁ですので、今後とも宜しくお願い致します。