ワタリウム美術館での建築家藤本壮介展の一環の、東 浩紀とのトークセッションに参加。
建築の学生とワタリウム美術館のメンバーとおぼしき年配の方がほとんどで、仕事帰りのサラリーマンというのは僕だけだったようで、ちょっと浮いてたけど。
東浩紀を生で見るのは初めて。
『存在論的、郵便的』(1998)のときは20代だったけど、もう40近いんだよね。(まあ、そのぶん僕も歳をとったのですがw)
トークセッションといいながら、8割がたは東浩紀が話してました。
異業種ということでけっこう気楽に話していたようなので面白い話がきけました。
基本は「日本は昔からガラパゴスだったし、これからもガラパゴスでしかありえない」
「金がない時間がない土地がない」というところにものすごいエネルギーを投じて何かを作り出してきたのが日本で、その意味ではゲームも一戸建ても一緒
大化の改新から明治維新まで、日本は重要なときは外国人の力を借りて変革をしてきた。「いざとなったら伝統を捨てる」ことが日本の伝統で、その意味では今の日本はまだ困ってないのでこのまま2,30年は行くのではないか
明治維新以降の「近代日本」というのが一つのガラパゴス。教育のために言文一致運動を主導したのが文学者で、そのために文学者・評論家というのが特異な地位を占めている。その尻尾に自分(東)はいる。20歳くらいのときにそう考えれば海外に出ていただろうが、今の「大学に属さない批評家」(reviewerとも違う)というポジションは海外にはないので、(日本語を使う仕事とういう点を抜きにしても)自分は海外には出られない
だって、外国に柄谷行人みたいなpositionないでしょ?(ワロタ)
日本を出て成功した例では村上隆がいるが、彼は日本のオタクにも、日本の美術界(これもガラパゴス)からも評価されていない。
しかもグローバルには「日本人が何か面白いことやってる」というローカルな点で評価されている。
なので、とても孤独な立場ではある。
最後の村上隆についての指摘は特に面白かった。
評価軸のずれを鞘取りするといってしまえば簡単ですが、どちらからも諸手をあげて歓迎されているわけではないという状態に耐える強さ、したたかさが必要なわけです。
たとえば外資系投資銀行の日本人社員とかそういうものなのかもしれません(それこそ外からの見方ですが)。
また「世界と日本」に限らず、ポジションのとり方について示唆に富むと思います。