しげるの自遊学

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戦後70年,私の体験

2015-08-15 20:36:25 | Weblog

  

 

 中学3年生の孫が「戦争体験」について話を聞きたいとかで、我が家へやって来るそうな。聞いたところでは、学校の宿題に関係があるらしい。

 戦争が終わったのは、私が中学3年生の時だった。(今の孫と同学年) 勤労動員先の工場の広場で「玉音放送」を聞いた。ラジオの状態がよくなく、内容がよく理解出来なかったが、周りの人たちの話で、戦争が終わったことが分かった。日本が負けるなどということが信じられなかった。あの時は、自分でもよく分からない不思議な気分だった。

 鳥取県の片田舎のことゆえ、それまでは直接怖い体験はしてなかった。終戦より1ケ月半程前の7月28日午前8時頃悲劇は起こった。11輌編成の列車が米軍の艦載機(グラマン)3機の襲撃を受けたのだった。私はこの列車の4輌目に乗車していた。先頭の1輌目には、傷痍軍人とそれに付き添う看護婦が乗車、列車の外天井には、大きく赤十字のマークがついていたそうな。勤労動員に出かける人達で列車は満員だった。

 男子生徒は前の車両、女子生徒は後部の車両に乗車するのが決まりだった。 私は御来屋という駅で4輌目に乗り込んだ。ぎゅうぎゅう積めの満員列車。次の停車駅「大山口」に近付いた時、列車はなぜか駅の大分手前で停車。そして次の瞬間、列車はバックし始めた。「何だ!」、「どうしたんだ!」などという怒声が上がる。と、次の瞬間、ダダーンとものすごい爆音。敵機の襲来だった。それから、米軍グラマン艦載機3機の襲撃が始まったのだった。その時は何が何だか分からなかった。繰り返し、繰り返し鳴り響く銃撃の音。どれくらいの時間が経過したのだろう。機銃掃射の音が止まった。次の瞬間、我先に列車を飛び降り、列車の下にもぐりこんだのだった。それからまた、3機が次から次と急降下して機銃掃射。悲鳴と怒号。恐怖のあまりか、小便を垂れ流す男がいた。

 どれぐらいの時間が経ったのだろう。機銃掃射の音が止んだ。機関車にロケット弾が打ち込まれたとか、付近の民家が燃えているとか、大勢死んだり、怪我しているぞ等々の怒号も聞こえた。ようやく、助かったという実感が沸いてきた。それから、急いで列車を離れ、友人たちと線路伝いに元来た方向、御来屋の方へ戻ったのだった。途中、阿弥陀川という川があって、そこには長い長い鉄橋がある。線路の真ん中に板が渡してあり、その上を歩いたのだが、下を見ると目がくらむ。列車が来たら逃げ場がない。鉄橋下の川へ飛び込むしかないな、などと言いながら鉄橋を渡った。

 このグラマン艦載機3機の襲撃で、死者45名、負傷者30名以上だったとか。私の学友も右腕貫通銃創1発、同じく右腕に盲貫銃創2発、頭頂部にも盲貫銃創という大怪我を負ったのだった。親しい友人だったが、あのときは、そんな重傷を負ったことなど露知らず、ほったらかして逃げ帰ったことを、今だに後悔している。(彼は現役を退いてからは、語り部となり、あちらこちらで、戦争の恐ろしさについて語っている)

 戦争中の思い出は沢山あるが、この列車襲撃は殊のほか強烈な思い出ではある。中学3年の孫を見ていると、幼い感じがして、こんな話をして理解出来るのかなと、訝る。

 (写真の碑は、列車空襲事件を風化させないため建立されたもの。列車が襲撃された現場の駅近くにある。)

 

 

 


ブログの終わり方について考える

2015-08-13 08:52:43 | Weblog

   私が時々訪問していた岩手の方のブログがある。今朝、久しぶりに訪問して驚いた。「更新終了のご挨拶」とあるではないか。そこには息子さんのメッセージがあった。

   「母の晩年を彩ってくれましたブログを終了させて頂きます。母は7月に他界しました。母は沢山のコメントを頂くのを大変嬉しく思っていました」と。

  私も、時々、ブログの終わり方について考えることがある。ある日突然、この世を去ったような場合、更新されないままのブログが宇宙空間ならぬネット空間をさまようことになるのだろうか?その答えを今朝見つけたと思う。エンディング・ノートにこのこともしっかり記述しておく必要があるとあらためて自分に言い聞かせた。

  

 寒い冬の写真が秀抜だった。(写真掲載をお許しください)