75歳のばあちゃんが、裕次郎さんの映画を見て、若かりしの感想と違った角度から、
心を共有できる思いやりに気が付きました。
昭和30年代の後半
日本人、、、独特の、家庭的で、
穏やかな安心感のある、
背広姿の、または開襟シャツのサラリーマンが
満員電車で、駅員さんに背中を押してもらって、
電車にやっと乗れたと、ほっとする時代であった。
父ちゃんタイプのマイホーム型の男性が日常の空気だった。
突然、、、和製アメリカ人?のような、足の長い映画スターが現れた。
自由な、天然の演技を感じさせない銀幕のタフガイは
戦後の若者のアイドル以上の、不思議な世代の誕生を感じさせたものだった。
中学校では、視聴覚教育が学校に取り入れられて
岩波文庫の作品のような、模範的な映画が推奨されていた。
私は、兄が2人、弟一人、いとこの三人姉妹と末っ子の男の子、
親戚の、大学生のお兄ちゃんが二人、父とは10歳以上離れているおじさんと
母の弟にあたる日大中退で、戦場に行って
シベリア体験のあるおじさんと、疎開先で頑張っていたおばさん。
何よりも、疎開先では、政治を担当していたおじいちゃんが
戦後の里帰りの東京生まれの父と、同居を始めたのでした。
東京の下町に、戦後の里帰りをすることで、
終戦後の子供たちに、アメリカの新しい教育をするためにも、
東京に医療施設を開業した父のもとに、
親戚が集まってしまったというわけでした。
そのほかに、小さな個室で我慢してくれた「お手伝い」「准看護婦さん」
通いの正看護婦さん、レントゲンの技師さん、、、
東京の下町の240坪の敷地の小さな開業施設に、
戦後からの復活を目指して、
居候がいっぱい同居していたという環境でした。
父は医師として、母はピアノ教室の先生として、
祖父は、町長さんやら、校長先生やら、アメリカ留学をしていたこともあり
娘婿の父を助けるつもりで、一緒に上京してくれていた。
事務長さんや、職場管理の従業員の取りまとめなど、
父の苦手の事務作業を、公認会計士さんを頼んでてきぱきと処理してくれていた。
我が家は、我が家であって、、、私にとっては、下宿しているような気分で
できるだけ、必要なこと以外は皆と話をしないで、図書館に行っていた。
江戸川が近くの土手に守られた中学校には、
いろいろのタイプの同級生がいた。
ポール・アンカの英語の歌は実にネイテイヴな発音で歌えるのに
英語の教科書の初歩も読めないとか、
私には、笑える楽しい同級生がいた。
「ウシクダラ、、、ジデレケ。。。キャストテンビンテトラキャ、、、???」
腰を振りながら、休み時間に歌っていた。
「勉強ばっかりしてないで、映画行こう!!!」
彼女に誘われて、クラス委員の私と、まったく視点の違う二人は友人になった。
勉強に逃げ込んでいたのかもしれない、、、私は映画の面白さに目覚めたのでした。
彼女のお母さんは、カウンターのある小さなお店をしていた。
遊びに行くと、高菜の漬物の葉のくるんだおにぎりを出してくださった。
中学二年の3学期ごろまで、彼女の誘ってくれる映画に、私は、同行した。
太陽の季節、狂った果実、赤いハンカチだったかな?、、、嵐を呼ぶ男、、、
彼女は、昼休みに、箸で机をたたきながら
「おいらはドラマ、、、」と歌っていた。
一度聞いた歌はすぐに覚えた学友だった。
中学を卒業すると、お母さんのお店を手伝っていたが
、、、私が高校2年生の時には、
結婚して、遠くに引っ越してしまった。
裕次郎さんの映画の面白さを知ったのは
彼女がいたからだと、思い出すのです。
「裕ちゃんてね、、、タフガイって思うでしょう?
足も長くってさ、、、かっこいいよね!、、、」
幸せそうにはしゃいでいた、天然の彼女のことがふと、、、思い出される。
あの時は、母親が、堅気の弟ばかりに愛を注ぎ、
不良のチンピラを演じる兄さん役の裕次郎さんを、愛さないという、
息子としては「愛されない息子はどうやって生きたらいいのか?」
愛情貧乏という、「心の貧乏に苦しんでいた。」
普通の世間の兄弟なら、
弟を認めないことで、自分を認めさせるという、愛情の地獄を通過することが多い。
根っこに、人間としての豊かさや、
素直な目で見て、芸術と技術の違いに気付いている。
育ってゆく音楽の感性を弟の中に見出し、認め
生き方の違いを真摯に受け止めて、身を引いて戦う、
昭和30年代の戦後の復活期の裏町と、大道を征く者の違いと、
母親の愛の存在が、裕次郎の演じる不良にとっては
それだけが、社会のぬくもりに思えたのかもしれません。
映画は、お客さんが入ることが生きることでしょうから、
いろいろのタイプの観客が喜んでストレスを発散させて、
映画感を出るときは、
みんな裕ちゃんになったつもりで出てくるのが、なんともおかしくて、楽しかった。
慶応大学という社会の上層部の裕次郎さんが、
裏町の社会の興業のややこしい社会でのチンピラを演じるのだから
当時中学生だった私には、社会勉強にもなった。
その後「豚と軍艦」とか、「赤木圭一郎の映画」なども観に行った。
吉永小百合さんが登場してきたあたりから、
受験戦争に目覚めて。しばらく映画を見ないうちに
友達がどんどん入れ替わっていきました。
高校に進学してからは、
加賀まりこさんと、北大路欣也さんの
「オンディーヌ」という舞台劇を、、、確か、、、日生劇場で見た。
劇場の面白さに目覚めてからは、
森繁久彌さんや、扇千景さんや、森光子さんの舞台を
新橋などに観に行った。
がり勉は知識に偏ると、点数で優劣を決める社会に突入してしまうので、
ここらへんで、、、止めとこう、、、という
中途半端な我儘が通用する範囲で、次々と、対象物を変えていった。
母とはもっぱら、、、宝塚、歌舞伎、、、
歌右衛門や、菊五郎のフアンの母は
私の教育も考えていたのだろうとおもわれます。
日本舞踊や、お茶や、鐘紡のチャーミングスクールに通わされたこともありました。
チャーミングスクールで、、、私に、、、何を身に着けて来いというのでしょうか?
高橋恵三さんや、時の有名人が講義をするのです。
合間には、柴山さんとかおっしゃっていましたが、
服装や、おしゃれのセンスや、化粧品の選び方など、、、講義をするのです。
サングラスをいつもしていた大内順子さんとおっしゃる方が
女性のおしゃれのセンスについて講義をなさったのが印象的でした。
「医者の娘」というのは、会社の受付嬢のように
マナーを教育される期間を避けるわけにはゆきません。
患者さんや、ご家族と、接触する時がどうしても発生する以上
いろいろの方の、諸族がすぐに判断できて、
その方の所属する社会環境の視点で、応対せねばならないという状況に置かれているからだと
私なりに、一人前に独立するまでは、
私も、居候の一人だから、、、母や兄や、年上の居候や、
同居し始めた、学生結婚をした兄の嫁さんには
絶対服従の立場にいましたから、
彼女が生け花や、大関早苗先生がこの世の中の一番の先生だというなら、
お供を余儀なくする立場だった。
女子ゴルフクラブに入会するといえば、
腰元役の私は、姫君のステッキの役で、入会。
リバーサイドの早朝ゴルフに付き合うという
働かざる者食うべからず、、、の精神で、
ともかく、、、大学卒業までは
私なりに、サバイバルがかかっていましたので、
なんでも付き合いました。
ダンスにも、ブルース、ワルツ、ジルバ、ルンバ、クイック、、、と
お相手をする基本のステップだけはできますが、
女性同士のおけいこの相手は、、、カンベンネ、、、と。
一生ダンスは、、、しなくても過ごせる環境と結婚!。
雪かきに始まり、雪かきに終わる、冬の季節との遭遇に
人生の半分は。「愚公、、、雪山を移す」
75歳になって、裕次郎さんと、
思いっきり素敵な美人の「北原美枝」さんの
「嵐を呼ぶ男」の映画をTVで観ました。
筋書きはともかく、、、
裕次郎さんと、北原美枝さんの
フレッシュな素敵な伸びやかな肢体には
改めて感動しました。
今ではレッドソックスに
外人もびっくりのスタイルの
野球選手が、時代のの経過とともに
日本の青年のスタイルを国際レベルにアピールできています。
ラグビーの五郎丸さんも、そのほかのアスリートも
日本人のスタイルを変えたと、、、感心しています。
TVに出てくる日本のタレントは、見分けがつかないような、
同じに見える、、、美人ばかりになりました。
健康な、戦後の、
日本人の若者のスタイルが、
裕次郎さんが出てきたころの、、、
このあたりから始まったのかもしれないと
改めて、新鮮な気分になりました。
札幌には
ゆかりのある裕次郎さんの「時計台の恋」の歌は
、、、昭和時代の、、
札幌の新しい風だったかもしれないと思うのでした。
これは、、、全くの日記帳です。
私だけの、、、裕次郎さんの映画の思いをつづっただけで、
小樽の記念館がなくなったときは、、、
やはり、、、時代の過ぎてゆく時を、、、感じたものでした。
来るべき孫の時代には
180センチはスタンダードな背丈の時代が来るかもしれませんね。