枇杷の葉なし

枇杷の生育や、葉・花芽・種のことを日々の生活のなかで書いていく。

旧七夕

2015年08月20日 | Weblog

 台風が接近しておる。昨年は、丁度タイミング佳く、8月7日であったが、昨年の閏霜月で、可なりの日数がずれこんだ。ここ数日、不安定な天気に、気を揉んでいたが、当たらずともで晴れそうにない。昼間の空に黒雲が湧いて、叩きつける雨である。

 短い夏も終り、秋の到来に肌寒さを感じる。こういった時期であるからこそ、体調には気をつけたい。咽喉は通草があれば心配ない。枇杷葉も、花芽と種とで蓄えがあるのも安心だ。左の肩が痛いのは、焼酎に漬けた枇杷葉で処置してるが、中々だな。

 勤務先で野菜を作ろう、というが、さて何をどうするんだろう?プランターでの栽培なら、20日大根辺りがいいよ。ラディッシュのこと。サラダにもなるし、植え易く作るのも簡単だ。問題は土です。粘りがないと、しわくて食べれないもの。遊歩道にしようよ。

 花を植えても、野菜にしても、ちゃんと手入れをして、小まめに見回りをしないと、昆虫の格好の餌になる。百姓の仕事は、そんな簡単なものではありません。私など、僅かに一つ二つで、遠く百には及ばない。木村秋則さんも、そんなことを言われてた。

 命を育てることには、心を込めて接したい。物を壊したり、殺めたりは簡単にできるが、人間には単独で命を誕生させることはできない。神さまが一瞬にして消すのであれば、新たなる命も誕生させる。然し、人間には、技術ではどう足掻いたって不可。

 猿に西瓜を与えていたら、果肉・皮・種のどれから食べていくか。枇杷葉でも、桃や杏にしても同じで、核の中にある仁が一番大切な命の誕生になる。動物の本能でしょうね。種から口にするそうです。人間は、これを平気で捨てます。愚かなことですね。

 そういう自然の摂理を知らないでいるのと、そこに異なる宇宙を見つけるのとでは、考え方や生き方が変って来ます。風や雨や、太陽に月が、命を育んでいくのです。土壌も必要な要素です。化学の力で生まれた物は、害こそ成せ援けにはなりません。

 次々と咲いていく、クリスマスローズ。鉢に植えたのも、増えないと思ってのこと。種が零れて発芽する。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

暑さ、通り越す。

2015年08月19日 | Weblog

 夜半も10時を過ぎると、寒く感じる。勤務先から帰宅し、珈琲を飲んでのブログ更新。窓は半分くらいに開けている。締め切っていると、呼吸が苦しくなる。室内にも観葉植物は置いているが、空気が流れないためだ。外は雨が降っているが、程佳い湿り。

 研修に参加する気持ちはあるが、休日の中を出かけるのが、最近は億劫になってしまう。スイッチ切れているのを、活動モードにするには、可なりの時間を要する。充電する体に、送り込むエネジーが中途半端になって、休み明けのエンジンが掛からない。

 休みくらい、自由にしていたいと思うのに、焼肉をするからというのも迷惑だ。そんなにしてまで行く使命感はない。集まりと言えば、夕方以降なのも困る。昼間にお茶を飲む程度でいい。何故アルコールがなければ駄目なのか?安物ばかりで胃痛が起る。

 職場の改善を促す目的なら、たくさんの話し合いが必要だ。本音で言える雰囲気も大切。亦、幾らその時に言っていても、約束事の守れない、守ろうとしない者も居る。協力はするが、給料に見合った内容の仕事をしよう。若いのは年齢だけで、動かない。

 日々の暮らしの中で、気温の変化や、食べ物の彩が、食欲を促したり、生きる意欲に繋がるように寄り添いたい。それなのに、スーパーで季節を問わない野菜の陳列に、何の疑問も抱かないで、安ければ買う。美味しくも何とも無い。短い夏は終わったよ。

 百日紅が咲き競う。小さな苗木で買ったのが、随分と大きくなったもの。北と東、南に植えている。どの色も風に揺れる様が凉らしい。枇杷葉の木との相性も良く、風の通りもいい。猿も木から落ちる、と言うが、木肌が剥がれて滑るので、諺になったものか。

 クリスマスローズの黒色。珍しいので買ったら、一輪咲いた。気品と落ち着きの趣が、眼を惹く。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

初秋に想う・・・

2015年08月18日 | Weblog

 暦の上では、秋です。旧暦の文月は、れっきとした初秋。こんな時に想いだすのは、安房直子さんの、きつねの窓です。桔梗は秋の七草の1つで、野草の物は濃い色が特徴で、時折見かける薄桃や、その場所にしか咲かない白色もあった。

 祖母が、竹で編んだ籠に、欠け茶碗を入れて挿す。薄暗い土間に、そこだけ明るくなったようであったのも懐かしい。十五夜には、女郎花、薄、萩を活けて、おはぎと一緒に供えていた。子どもの頃、ついと外に出れば見慣れた風景だった。

 勤務を終えて、駐車場までの距離を歩いていたら、蝉がやたらと鳴く。地元の方に挨拶をして行きかけ、思わず足を止めた。子どもの姿が見えないのだ。その方も同様に呟く。蝉なんか、誰も捕らんよ。そうか、これが蝉時雨とも知らずだろう。

 農薬を、特に草枯らしをやるから、蝉は幼虫で死ぬ。人間は、人でなかったらいいのかしら?自然からの恩恵を、一気に断ち切ることを平気で遣って退ける。自分では、何一つ作り出すこともできないのに。その時だけの、言い逃ればっかり。

 自然が、気の遠くなる時間を手繰って創り上げた物を、人類は一瞬で壊してしまう。それが修復できないことも知っていながら、欲得だけでやってしまう。原発の再稼動で、核のゴミが出るのも常識だ。そのゴミを、処理できる施設が無いの知る。

 青森県の六ヶ所村の、処理施設が満杯なのを知っていますか。これ以上の能力がないのに、原発再稼動させ、ゴミを増やしていく。戦争に使えば、金儲けができる。武器に形を変え、他国に売れば占めたもの。人類破滅の路に近づくんだよ。

 日本は戦争をしないと決めたから、平和を保ててきた。スイスのように中立を表明するのでもなく、それだけで成り立っているのも際どいが、侵略の事実も、虐殺の真実も、認めて謝罪することからが始まり。歴史を正しく、詳しく読み解いていこう。

 光度が、マイナスになると、輝きが眩しい。肉眼の視力の基本が、こと座のベガで、0等星だ。6等星まで観えればしめたもの。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

暴風雨・・・

2015年08月17日 | Weblog

 勤務先では、激しい雨であると眺めながら、仕事に励んでおりました。帰宅して、惨状に唖然となる。叩きつける雨脚に、隙間から吹き込んで、大水になっている出窓。そこら中惨憺たる有り様に呆然とする。然し、気を取り直して掃除に励んだ。

 水遣りはしなくても良くなっていたが、突風に車庫の中は、物が散らばって、愛車も直ぐには入れられない。藪蚊に刺されながら、手早く片付ける。窓ガラスは無事であったのが救い。玄関を開けてぎょっとした。敲きにまで吹き込んでいたのに唖然。

 被害も、困窮すると言うほどでもなく、屋根が抜けていたら、書籍が全滅だから、これは泣くに泣けないもの。まあ、古屋の漏りは困るが、今回は無事であったことを慶ぶ。自然災害は、何時どのような時に起こるかもしれない。原発は即刻停止に。

 核との共存など有り得ないことだ。桜島の噴火も、レベル4に上がって来ているのに、再稼動して、更に拍車をかけるような危険を、人間の判断で行うことは間違っている。電気は足りているのに、何故再稼動へと進むのか。安全等誰が保障する。

 オリンピックを辞退しよう。福島第一原発の惨状から、捗々しく進まない復興に、それどころではない筈だ。何千億という莫大な資金が集まるなら、復興の方が先だ。放射線の心配を他所にして、海に垂れ流しにしている。嘘ばっかりで固めている。

 人間だけの命の問題ではない。でも、それらは全て、人類への恩恵に還って来る。放射能に汚染された地球にも、たくさんの命が生まれ、消えていくのだ。人間は驕ってはならない。豊かさとは、何かが犠牲になった上で、作られていくのだから。

 今年は、扇風機も1日しか点けなかった。友人が来ての食事だったので、止む無く点けた。汗をかきながら、夏の暑さを乗切れたことを、有り難く思う。夏野菜での工夫や、衣類の着用に、枇杷葉の葉影にも、大いに感謝している。涼しさを有難う。

 家の近くにまで飛んで来ている、鶯。以外に目立たない羽色で、じっと観ていると、直ぐに飛び立つ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

送り火・・・

2015年08月16日 | Weblog

 今朝は、早々と目覚め、ベトナムの桜を少し読む。毎日新聞の日曜版に、僅か1年の連載であった。大筋は変わりないが、最後の件が書き加えてあった。途中も加筆されているのかも知れないが、今更にベトナムの遠いことに気づいた。

 天皇・皇后両陛下の、終戦への追悼の際に、はっきりと近隣諸国への謝罪を、深く反省すると現された。何と潔く、責任の強いお言葉だろうか。戦争の過ちを認めることこそが、自分達の生きていく術かもしれない。生きることの意味を想う。

 だが、決して忘れてはならない。日本軍が中国や韓国に侵略をし、そこに居る何の咎もない人々を殺し、沖縄を決戦地にしてあだら命を奪ったこと。広島と長崎に原爆を落されたこと。多くの命を犠牲にし、得た平和と言う現在を語り継ごう。

 ご先祖の命を繋ぎ、自分達の命を守り、未来に託していく責任を、新たに考えるよう、憲法の意味を知っていく。戦争は、どんな諍いでも、人が人を殺すのだ。武器を手にして、殺される前に殺すこと。言い訳にも思える戦争は、起こさない。

 誰でもいいから、殺してみたかった。殺人の動機で口走る。そんな理不尽な思いで、人間が殺されることが、平気で行われる。戦争になったら、原爆を使えば一瞬だ。その燃料になる、プルトニュームやウランが、核のゴミで大量に出るんだ。

 原発再稼動を、認めることはできない。電力会社の横暴で、身勝手な考えに、庶民を巻き込んでほしくない。政府が許可を与える権利など、嘘つきの誤魔化しだ。裏で手を組んでいるんだから、同じ穴の狢。戦争へ着々と進めていっている。

 自然からの警告を無視し、自分達の責任を回避しながら、批判が止まなくなったら丸投げをする。政治はゲームではない。国民は持ち駒でもない。これだけの当たり前のことが、わからないとは。戦争はしてはならない。話し合いで解決しよう。

 薄紫の小さな袋状の花が愛らしい。寒さの残る春の陽射しに、そこだけが明るくなったようだった。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

終戦記念日?

2015年08月15日 | Weblog

 ちと違和感のある日。戦争終結日の方が、好いようにも思える。戦後70年が経ったんだ。戦後生まれの身では、当時のことは知ることはないが、防空頭巾や、電球を覆う黒い布、千人針に、日の丸の小旗等、納戸にある行李に詰められていた。

 祖母の視えない彼方に向ける眼差しに、墓参りに上がっていく姿に、戦死した息子への想いをひしひしと感じた。お骨も還って来ない死である。シベリアに抑留された、と言う話だが、雲を掴むようでなす術もない。叔父は祖母は無念であったろう。

 祖母は、夫を早くに亡くし、息子を戦争で殺され、小さな子どもを抱えて、働くことしか頭になかった。朝早く起き、陽の登らぬ内に家畜の餌の草刈。夏は汗びっしょり、冬は悴むのを堪え、洗濯や掃除は手早く済ませ、ご飯を炊き食べさせ野良仕事。

 一時も休むこともなく、次から次へと段取りをして、貧しい暮らしの中で、生計を立っていた。祖母には、一日の段取りが何時もあり、確実に片付けることで、次へと進むのが、一番速いのを知っていた。天気を読み、雨の降るのや風向きにも長じた。

 自然と仲良くすることを心得ており、感謝し祈り、供えてもいた。祖母の姿には、無知なるが故に、自然を恐れ敬う気持ちが耐えずあった。三隣亡には、山に入ってはならぬとか。村の寄り合いは満月・望と決まっていた。提灯が無くても明るいのだ。

 暦を見て、その日の暮らしを立てる。それが妙に当るのも不思議だった。種蒔や、梅を取る時期、漬けるのも、収穫時もピタリと当てる。祖母の言うことに、間違いはなかったもの。それだからして、亡くなってその存在の大きさに気づいた。遅かった。

 枇杷葉の硬くてごわごわの葉を選んで採る。夕方の涼しい時間になって、フェンスの外に出て草を刈る。蔦が伸び放題のと、大豆の中に草が生えているのを取る。その後、水遣りをして、あちこち剪定をした。白枇杷の元気がないのを窓下に動す。

 葡萄を持って行こうと嫁に電話したら、実家に行っての帰りだと言う。遅くなってもいいから寄るように言う。夕食を済ませ、風呂も入っていたら、やっと来た。孫の顔もある。あの小さかった孫も、母親をとうに追い抜く背丈だ。吹奏部で頑張ってます。

 待ちにに待った春に、心が浮き立つ。庭の色彩も豊かになり、花が咲いていく。命があることに気づく。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

旧文月、朔・大潮

2015年08月14日 | Weblog

 薄桃色の百日紅が、咲き出す。今朝は、塩を換えて、枇杷葉の生葉を幾許か採る。焼酎に漬けておかねば、いざという時になく慌てふためく。大きな果実瓶なので、両腕に持ちきれない程採る。葉の軸と葉先を切って、瓶に入れ焼酎を注ぐ。

 午後から、近くの信用金庫に、孫の掲載文のコピーを持って行く。地元の新聞に載っていたのだが、案外見落としている。まあ、新聞もテレビ欄くらいしか見ないからな。個人的には、そういった内容で、番組のあり方がわかる。だから観ない。

 金星が内合となり、ここから明けの明星となる。夕方の宇宙で、一際明るく眼を惹いていた輝きが、明け方の宇宙に光る。昔、新聞配達、牛乳配達、パン屋さんは、明けの宇宙の金星を、良く知っており、時刻や季節の移ろいを感じていた。

 休日の一日目は、朔日なので塩を換えることから始まる。ゆっくりと珈琲豆を挽き、のんびりと淹れて飲む。新聞に眼を通し、洗濯物を干す。布団も久々に広げた。疲れが溜まって、昼寝をする。蒟蒻を温めたのを、腰に当てて休憩にする。

 覚醒しているのに、しゃんとしないので、珈琲を淹れる。洗濯物を取り込み、再び蒟蒻を温める。今度は、肩に置いた。テーブルクロスも汚れが目立つので、取り換えておく。明日は、友人が来る予定だ。庭を見回っていたら、胡瓜があった。

 冷蔵庫に入れたままだった茗荷を湯がく。酢と砂糖と塩を入れて沸騰させ、茗荷を漬け込む。今度の酢飯に使うので、保管をしておく。文庫本を注文しようと、在庫を確かめる。ばんば憑きと、蒲生邸事件がなかった。でも、お盆だし開てる?

 夕方、更新をしていたら、携帯に着信が入る。息子の同級生からだ。この子の親とは、同級生で幼馴染なので、先日茗荷寿しを作って届けた。葡萄農家なので箱でお礼を持って来る。海老で鯛を釣るような按配だが、孫等の好物に受け取る。

 月の光が、輝きが、日に依って違うことに気づく。同じ月でありながら、魅惑的な姿、清々しさ、儚げでありもする。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大潮、盂蘭盆会・・・

2015年08月13日 | Weblog

 三十年前の夕方、昼寝から起きねば、と思いつつ朦朧とした状態で、黒いぶよぶよとした物が次第に広がっていった。と次の瞬間、そこから無数の手が、わらわらと伸びてきた。自分の叫び声と、娘の悲鳴とが入り混じり眼が覚めた。背筋に冷たい感覚が残る。

 あれは何だったの?胸騒ぎがしていたら、日航機が墜落した。というテロップが流れた。知っていた人の安否が気になり、名前の確認を夢中でした。そこには知人の名前はなく、電話で声も聴けてほっとした。だが、乗員は全てが生きてはいない、と報道した。

 一昼夜経ってか、生存者が4名居ることが確認され、救出される様子がテレビに映っていた。あれから三十年が過ぎた。残された者の心は、言いようの無い想いだろう。有名人であろうとなかろうと、人間の命は同じだ。人類の夢の、飛ぶ機械が墜落したのだ。

 この時点で、原発も安全性は不確かであった。狭い日本列島に乱立させ、電気生活を余儀なくし、嘘で固めた砦を、地震と津波は明らかにした。科学の発展と豪語し、福島第一原発の過ちは繰り返さない事も、第一福竜丸の事にも、長崎や広島の事にも無視。

 自分達の悼みではないから、平気で嘘がつけるし、幾らでも誤魔化しをする。自分達の生活を守るために、庶民の犠牲は当然という見下した物言い。沖縄から基地を撤退しよう。辺野古に基地を移設するのではなく、アメリカは即刻引き上げよ!戦争は駄目。

 希望の木、晩鐘を借りた。三連休だが、全部は読めないなぁ。モエは雑誌なので、直ぐに読めるが、書籍の情報も載っているので借りている。毎日新聞の、内田康夫の連載が中止になる。作者の病状の懸念らしいが、新聞を止めたくなる。愉しみにしてたが。

 明日から三連休にした。働き過ぎで、過労死になっても仕方ないが、年齢的な衰えを痛感してしまう。明日のことは解らないもので、気長に付き合っていくしかないが、ちとしんどくなった。医者に掛からず、薬を当てにせず、枇杷葉茶でゆっくりと歩もうと想うが・・・

 ローズ色のクリスマスローズ。ちょっとくすんだような、しっとりとした色合いが好ましい。蕾が出たかと思うえば、一斉に咲く。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

雨に・・・悲喜こもごも

2015年08月12日 | Weblog

 本来なら、この雨は有り難い。然し、今晩の状況には、ちょっと淋しい。ペルセウス流星群が観えないからだ。今晩の10時頃から明日の未明にかけて流れる。今年の条件は、月が欠けていくので、観易かったのだが。雨ではどうにもならない。

 一般的感覚の思考では、勤務時間が終わって、図書館に寄るというのはないらしい。休日には、返却や借りに行くが、普段でも足が向く。借りられる書籍があるに越したことはないが、掘り出し物があるやも知れずで、時間があれば寄りたい。

 研修の試験がさっぱりわからなかった。係ることが少なく、任されることもないからだ。その話をしたら、持っている本だから、見せてあげるよ。と貸してくれた。パソコンに打ち込んでおこう。覚えられるとは限らないが、学べることには変りないもの。

 介護福祉士の試験とは違い、別段持っていなくてもいいか、と思っていたが、講義を聴いてもさっぱりだ。質問さえ思いつかない。わからないことが、わからないので、質問ができなかった。専門分野は、図書館に行っても探せないので有難い。

 昨夜、日付が変るようになった時間。裏の家から怒鳴り声がする。子どもばかりを風呂に入れて、親は知らん顔をしていたのだ。小競り合いが始まって、何時もの泣き声が、叫び声になって、父親の怒鳴り声が辺りに響く。何時だと思ってるんだ!

 唖然とした。小学生の子どもが上で、下に年中、年少、幼児です。夜半に風呂に入れる時間ではないし、子ども等だけで、入っているのも可笑しい。どんなに遅くとも、午後の8時までには就寝させたい。例え、夏休みであろうと同じ暮らしですよ。

 何時だと思っているんだ。は、こちらが言わせてもらいたい。叱るでもなく、怒るを通り過ぎて、怒鳴っているのも違うことです。子どもを育てる資格はありませんが、この夫婦にはないでしょう。虐待にも、当然のことに言葉に依るものも含まれます。

 淡い桃色の花弁が、何とも可憐で、座りこんで見惚れる。この他にも、濃い桃や、白に緑がかかったの、八重も咲いている。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

珍客・・・

2015年08月11日 | Weblog

 このところ、珍客が多いのだが、雷さまは怖いとみえて、こおろぎ、やもり、蟷螂にびっくり。でも一体何処から入って来たのだろう?網戸の隙間か、ちょっと開けておいた時か。洗濯物を慌てて取り込んでいれば、見過ごす。そろそろ交響曲が始まる。

 今朝は、夕方の雨で涼しかった。足元が冷え込んできて、綿毛布を引き上げた。網戸にしていると、自然のクーラーがよく効いている。扇風機は、友人が来た日だけ点けた。田舎では、我慢すれば大抵のことは凌げる。帰宅しては水遣りをしている。

 例年、夏祭りに参加して、それなりにやってきたが、体力の衰えは防げない。何よりも、そういった賑やかに厭きてきたこともあり、今年からイベントに出るのは止めた。大勢の人混みに酔うのが解っているからで、お祭り騒ぎはうんざりだ。裏家で沢山。

 帰宅途上で、図書館に寄る。平岩弓枝さんの『ベトナムの桜』を借りる。児童書は、著者代送で持っているので、置いておく。波の底にも、ランプの精・ジンジン。読まなければならない書籍は多いが、自分が読みたい本は少ない。三国志、中々進まず。

 ランタナが咲き出す。夏の花だが、皐月には雨の多い日が続き、今年は駄目かとも思った。百日紅の淡い桃色も、やっと蕾をつけた。水遣りを欠かさずしていても、たった一日の猛暑で、猿梨が落ちてしまった。これは地植にしたのがいいのかも知れず。

 球根の植え付けをして、来春への準備がある。休みの日には、計画して進めなければと、思ってはいるが捗らない。まあ、ゆっくりとやらなくちゃね、冬が訪れる前までに。盂蘭盆会が近くなり、ご先祖さまの、帰って来られる所がないのも淋しいものだ。

 最近は、放っておくのだが、いつの間にか花が咲く。以前に比べて、随分と横着になった。今年はちゃんとしよう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする