枇杷の葉なし

枇杷の生育や、葉・花芽・種のことを日々の生活のなかで書いていく。

送り火・・・

2015年08月16日 | Weblog

 今朝は、早々と目覚め、ベトナムの桜を少し読む。毎日新聞の日曜版に、僅か1年の連載であった。大筋は変わりないが、最後の件が書き加えてあった。途中も加筆されているのかも知れないが、今更にベトナムの遠いことに気づいた。

 天皇・皇后両陛下の、終戦への追悼の際に、はっきりと近隣諸国への謝罪を、深く反省すると現された。何と潔く、責任の強いお言葉だろうか。戦争の過ちを認めることこそが、自分達の生きていく術かもしれない。生きることの意味を想う。

 だが、決して忘れてはならない。日本軍が中国や韓国に侵略をし、そこに居る何の咎もない人々を殺し、沖縄を決戦地にしてあだら命を奪ったこと。広島と長崎に原爆を落されたこと。多くの命を犠牲にし、得た平和と言う現在を語り継ごう。

 ご先祖の命を繋ぎ、自分達の命を守り、未来に託していく責任を、新たに考えるよう、憲法の意味を知っていく。戦争は、どんな諍いでも、人が人を殺すのだ。武器を手にして、殺される前に殺すこと。言い訳にも思える戦争は、起こさない。

 誰でもいいから、殺してみたかった。殺人の動機で口走る。そんな理不尽な思いで、人間が殺されることが、平気で行われる。戦争になったら、原爆を使えば一瞬だ。その燃料になる、プルトニュームやウランが、核のゴミで大量に出るんだ。

 原発再稼動を、認めることはできない。電力会社の横暴で、身勝手な考えに、庶民を巻き込んでほしくない。政府が許可を与える権利など、嘘つきの誤魔化しだ。裏で手を組んでいるんだから、同じ穴の狢。戦争へ着々と進めていっている。

 自然からの警告を無視し、自分達の責任を回避しながら、批判が止まなくなったら丸投げをする。政治はゲームではない。国民は持ち駒でもない。これだけの当たり前のことが、わからないとは。戦争はしてはならない。話し合いで解決しよう。

 薄紫の小さな袋状の花が愛らしい。寒さの残る春の陽射しに、そこだけが明るくなったようだった。

 

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