かもめ、かもめ、サヨナラあばよ~~
浅川マキ亡くなりし晩に、ミッキー安川もまた。
出会いは小学校時代のローラーゲームだった。プロレスになかばマンネリ感を感じていた頃、東京12チャンネルという新興チャンネルと共に忽然と現れたスピード感ある格闘技に圧倒された。サンフランシスコ・ジャイアンツ、東京ボンバーズ・・・
怪しげなアメリカ人たちの中で互角に渡り合っていたのがミッキー安川だった。米国留学時代に身に付けたスラングで、ポーキーなどとやりあっていた正体不明のバタくさいおっさん。トラブルに油を注がせたら天下一品だった。
横浜のセントジョセフカレッジだかの出身で、EHエリック、岡田真澄、ウイリー沖山なんかと一緒に舞台に出たとか言ってたな。ウイリーはヨーデルの名手なんだがインド人なんだぜと語っていた。
中野鍋屋横丁の21という店で一緒になった。ここは故エディ・タウンゼントの奥さんがやるスナック。ミッキーさんは一杯やりながら米国武者修行時代のことを語ってくれた。
彼がいた時代は人種差別の厳しい時代。生意気だったし英語はよく解らないし、とにかくコテンコテンに殴られ続けたという。ある時、ぶちのめされて、あんまり頭にきたので、カウンターの中で沸いているスープの寸胴を相手の頭から浴びせてやったという。それからはようやく「あいつはcrazyだ」と認められるようになったという。存在を認めさせるには本気でケンカしなきゃいけないんだ、とそんなことを言ってたような記憶がある。
べらんめぇ調だが、下町風でもなく堂々たる体躯に青い背広なんぞをシュッと着こなして、ハマ育ちの颯爽たる米国帰りだった。テレビでガチンコでリポーターを務めた最初の頃の人ではなかったろうか。そして最後まで右か左かもよくわからぬ正体不明な人だった。若き日、日劇ミュージックホールでショーの合間のコントなんかをやってたというから、そういう謎の部分は詳らかにしない方がいいと知っていたのだろう。
あの世でもひと暴れしてください。合掌。
浅川マキ亡くなりし晩に、ミッキー安川もまた。
出会いは小学校時代のローラーゲームだった。プロレスになかばマンネリ感を感じていた頃、東京12チャンネルという新興チャンネルと共に忽然と現れたスピード感ある格闘技に圧倒された。サンフランシスコ・ジャイアンツ、東京ボンバーズ・・・
怪しげなアメリカ人たちの中で互角に渡り合っていたのがミッキー安川だった。米国留学時代に身に付けたスラングで、ポーキーなどとやりあっていた正体不明のバタくさいおっさん。トラブルに油を注がせたら天下一品だった。
横浜のセントジョセフカレッジだかの出身で、EHエリック、岡田真澄、ウイリー沖山なんかと一緒に舞台に出たとか言ってたな。ウイリーはヨーデルの名手なんだがインド人なんだぜと語っていた。
中野鍋屋横丁の21という店で一緒になった。ここは故エディ・タウンゼントの奥さんがやるスナック。ミッキーさんは一杯やりながら米国武者修行時代のことを語ってくれた。
彼がいた時代は人種差別の厳しい時代。生意気だったし英語はよく解らないし、とにかくコテンコテンに殴られ続けたという。ある時、ぶちのめされて、あんまり頭にきたので、カウンターの中で沸いているスープの寸胴を相手の頭から浴びせてやったという。それからはようやく「あいつはcrazyだ」と認められるようになったという。存在を認めさせるには本気でケンカしなきゃいけないんだ、とそんなことを言ってたような記憶がある。
べらんめぇ調だが、下町風でもなく堂々たる体躯に青い背広なんぞをシュッと着こなして、ハマ育ちの颯爽たる米国帰りだった。テレビでガチンコでリポーターを務めた最初の頃の人ではなかったろうか。そして最後まで右か左かもよくわからぬ正体不明な人だった。若き日、日劇ミュージックホールでショーの合間のコントなんかをやってたというから、そういう謎の部分は詳らかにしない方がいいと知っていたのだろう。
あの世でもひと暴れしてください。合掌。