このところ、私的織田作之助リバイバルである。
友人が秋に織田の「わが町」を舞台にかけるというので、そのために
織田作フェア状態なのだ。実家の書架から文庫本を取ってきて読み返している。オダサク倶楽部の講演にも出かけてきた。
これは織田が大阪の恩人、と書いた「五代友厚」の初版本。
昭和17年、西区阿波座の日進社が発行元。
こんな気骨のある出版社はなんぼもあったが、もはや絶滅した。
持主はオダサク倶楽部仕掛人、井村身恒さん。
博覧強記、織田のことではまず知らぬことはない研究者。
読書人でもないので、ほとんど全集物など持ち合わせていないが、
織田作全集だけは別。作品もさることながら、その人間に惚れた。
若き日、織田の足跡を追うようにミナミを歩き回った。
織田作之助は大阪天王寺区下寺町の出身。「夫婦善哉」で一躍注目され、戦後は太宰、安吾と共に無頼派をなのり、戦後の一時期を風のように駆け抜けていった文士。焼け跡から大阪の可能性を書き綴り、東京に負けまいと奮闘し、最後は「土曜夫人」執筆中に東京で客死。討ち死にと言われた。
織田熱にうなされ、銀座の「バー・ルパン」にもよく出かけた。上は林忠彦の写真。太宰の写真で有名だが、その時、織田も一緒に居合わせた。
ここは天王寺区にある楞厳寺(りょうごんじ)。作之助の菩提寺。
織田の高津中学時代の同級生、田尻玄龍上人が95歳にして今も
お元気だった。母屋を訪ね、しばし織田作の話を拝聴す。
織田作の墓。
閑静なといいたいところだが、北隣の高津中学のブラバンのラッパの音がけっこううるさいのだ。
墓碑銘は藤沢桓夫の筆による。
織田の戒名の左は、一枝が並ぶ。
二人は此処にて永遠の伴侶となれりか。
二人は所帯を北野田(丈六)で持ち、一枝はよくできた嫁だった。
毎夜、友人詰めかける宴会の後片付けを全て済ませ、仕事に向かう織田の後ろにペタンと座り、織田が小説で使う漢字を辞書で調べた。原稿が朝方出来上がると、「これ編集者に渡しといてんか」と寝てしまう作。
一枝は過労がたたり、体を壊し癌となった。
妻を亡くした織田作は、「ワシが殺したんや」と葬儀の日、住職に呟き、泣いたと、田尻上人のお話。
その憔悴ぶりは「高野線」、「競馬」に見られる。「競馬」では死んだ嫁の名前の一ばかり馬券を買い続ける哀れな男の話を描いている。
その後、2度結婚するが、生涯一枝の幻影は捨て切れなかったようだ。
墓参りの帰り、精進落としではないが、ちょいと時間がある。織田作ゆかりの店で仕上げようと、自由軒に向かったが、ちょうど定休日。では、と同じ洋食屋で、精華小学校裏の「重亭(じゅうてい)」へ。この名前は古く、明治時代にはあった。その名前だけいただいたという。
ポークチャップ この甘い、ドミグラスとは全然ちがうソースが、
なんとも懐かしい。
ビールを飲もうっ!
ミックスフライ。
海老、カキ、ヒレの盛り合わせ。
照り焼きステーキ
織田がここを知ってたかどうかは知らんが、波屋書房へ行ったり、
法善寺界隈に向かう前後、この路地も歩いていたのは確実だ。
そんな昔から、ひとつも味が変わらないのだろう。
これは今どき、見上げたことなのかもしれぬ。
楞厳寺 大阪市天王寺区城南寺町1
重 亭 大阪市中央区難波3
かっこよろしい。
粋で無頼、そんでもって男前や。
嫁さんも別嬪さんで・・・
大阪をよく知らないおのぼり、田舎もんはすぐ「大阪人っぽくないシュっとしたエエ男や」とか、「大阪にこんな洒落た人いるのね・・・」とか本当の大阪人を知らないくせに陳腐な表現の《大阪っぽい人》を思いこんでいるのですな。
大阪には粋でカッコエエ男は仰山いてます。ただ、マスコミが注目しないだけで・・・
いや粋な人ほどそんな野暮な場所へは出ませんな。
織田作之助、最高、これが大阪の男じゃ。