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旧(ふ)る年に春立ちける日よめる
在原元方
年の内に春は来にけり一年を 去年とやいはむ今年とやいはむ
高野切第一種を拡大して臨書しました。
(半切縦1/2大×1.5枚)
全20巻、約1,100首ある古今和歌集の、“仮名序”の次に来る 第一番歌です。
実は恥ずかしながら古今和歌集を“和歌集”として体系的に学んだことはありません。
このブログの書道を通して、
例えば「古今和歌集(元永本)」等では仮名序を学んだほか、
「関戸本古今集」では春歌や秋歌を、
「本阿弥切古今集」では恋歌を、「高野切第三種」では雑歌などを、
それぞれ数首学んだだけです。
今回初めて一番歌に接しましたが、それも「高野切第一種」という書道を通してで、
本当に恥ずかしながら、であります。
まずは歌意からいきたいところですが、これがまた悲しいかな、
何やらわかったような、わからないような、であります。
なじみの薄い“陰暦の旧正月”と“立春”の関係について頭の整理が必要なようです。
陰暦の旧正月は月を、立春は太陽を基準とし、この二つには後先(あとさき)があり、
それは年々によって変わるというところがミソのようです。
難しそうな暦学や天文学はさておきまして、
例えば、目の前にある今年2023年のカレンダーを見ますと、
1月22日が旧正月、2月4日が立春となっており、旧正月が先です。
(中国では昨日(旧正月)コロナ禍で数億人の移動とか)
ところが2021年では、2月3日が立春、2月12日が旧正月と、立春が先になっていたようで、
本歌が詠まれた年もこのような「年内立春」(年の内に春は来にけり)だった、と。
そして「高野切」です。
ちょうど1年前、初めて高野切(第三種)を練習しましたが、その折に次のように記しておりました。
「高野切」は、スタイル、気品良しの、いわば正統派の“ミス・日本”
「関戸本」は、書家(玄人)が好む“年増の女性”
「本阿弥切」は、肉感躍動する“ルノアールが描く女性”
といったところでしょうか、と。
(今のご時世、女性の方に怒られるかもしれませんがお許し下さい。)
今回は、その高野切の中でも一段と格調高いとされる「第一種」です。
「高野切古今集[第一種]」(日本名跡叢刊 二玄社)の監修・解説者・小松茂美氏(註参照)によれば、
少ない現存する高野切の中で、「第一種」の筆者は、第一巻と第二十巻を担当しており、
巻頭(筆初め)と巻末(筆止め)を書くのは、高野切を書いた一座(3人)の中心人物で、
当時の第一等の能書家か身分の高い高貴な方であったはず、とされています。
その小松氏によれば、第一種の書風は「優麗典雅」とされており、
この表現はほかの書家の方(熊谷恒子氏や桑田三舟氏など)も同じ言葉を使っておられます。
明鏡辞典によれば、
「優麗」とは、気品があって美しいこと、
「典雅」とは、きちんと整って上品なさま、
とありました。
ほかにもいろいろ表現したのがありますが、その言葉を例示すればするほど、
自分の練習作品とのギャップを曝け出すことになりますので
この辺で失礼をばいたします。
そんな中ではありますが、臨書にあたり私として特に留意したのは、
丁寧にしかし伸び伸びと、濃淡・太細の変化、
随所における連綿の仕方、
数回出てくる同じ字(は、や、と、る、・・・)の変化のさせ方などですが、
はてさて・・であります。
かって、エリザベス・テーラーさんの似顔を描いた時と同じ気分でおります。
またここ数日youtubeで、大好きな曲「船頭可愛いや」(高橋掬太郎作詞 古関裕而作曲)を
美空ひばりと三橋美智也が歌うそれに聴き惚れていましたが、
二人の絶対真似できない節回し(抑揚や小節)にもこの書と共通するものがあるなあ、と。
[註]小松茂美氏(1925~2010)は、古筆学、美術史学の権威。著書多数
コメントを読んでビックリするやら感心するやらでした。殆どの事は初めての事ですが、立春と旧正月は時々聞いていましたので年によって前後しているのにはビックリしました。
作品は素人目でありますが、品格があってバランスも良く墨の濃淡、筆の伸びやかさはお見事だと思います。同じ字の変化は言われてみて再度確認し、成程と感心しました。
作者が本作品を書くにあたり留意された「丁寧にしかし伸び伸びと、濃淡・太細の変化」など、大いに納得、共感できるものでした。
説明されている書の歴史は蘊蓄の塊みたいで、すごい、としか言いようがありません。