春の立ちける日よめる 紀貫之
袖漬(ひ)ちて掬(むす)びし水の凍れるを 春かた今日(けふ)の風や溶くらむ
題知らず 読み人知らず
春霞たゝるやいづこみ吉野の 吉野の山に雪は降りつつ
先週の一番歌に引き続き、高野切第一種の書き出し部分の二番歌、三番歌です。
(半切縦1/2×略2枚)
高野切では、前回臨書しました個所と同じページにあり、
この合わせたページは、仮名教室などで課題として出されることが多いとのことです。
この2首を書きながらその意味が分からないところがあり、今回は、
そのことを中心に進めたいと思います。
高野切は書道のお手本なので、何もそこまで、とも思いますが、
そこを突っ込んでしまう・・・自分の悪い習性であります。
しかも、どうせ中途半端な結論しか出ないのに、であります。
以下少々細かいことになりますがお許し下さい。
ポイントは、“春(や春霞)が立つ”、
即ち二つの歌にとってのキーワード“立春”そのものの表現がどうか、
といえましょう。
分からないところは
二番歌の下の句で「はる可た遣不の」(春かた今日(けふ)の)と
三番歌の上の句「者る可春み多ゝるや」(春霞たゝるや)の2か所です。
そもそも平安初期(10世紀初め)に編纂された古今和歌集は、
この高野切を含む三十数種の書写本や切(断簡)が現存しているとのことです。
そのうち特に和歌集の史料として重要視されているのが
「元永本」と「定家本」(註参照)と呼ばれるものとのことで、
この二冊を当たってみました。
前者は書道の、後者は和歌の第一人者の筆によります。
ともに国宝で文化遺産オンラインのオープン史料からです。
虫眼鏡、いや拡大鏡を使って確認したつもりであります。
二番歌・高野切の「はる可た遣不の」は、
元永本では「はるたつ介ふの」(介:け)、
定家本では「春立けふの」とあり、
双方が“春立つ”となっているようです。
この二番歌だけを見たときは、一瞬、高野切クラスでも誤写はあるのかと思いました。
しかし、三番歌・高野切の「者る可春み多ゝるや」は、
元永本では「者る可数三たゝるや」(と自分には見えます)、
定家本では「春霞堂てるや」(堂:た)とあり、
定家本だけは“立てる”となっていますが、
高野切と元永本は“たゝるや”で一緒のようです。
その“たゝる”も、古語辞典には“たたる”にせよ“ただる”にせよ、
“立つ(立てる)”につながる、それらしい意味はないようです。
時系列的には、高野切が最も古く(11世紀中ごろ)、次いで元永本(12世紀初め)、定家本(13世紀初め)となっており、
また写本の系統なども複雑を極め、
どれが正しいかなど、自分に分かるはずもありません。
分かったことといえば、“写本にも色々あるんだなあ”ということぐらいですが、
それでも自分なりに満足しております。
細かいことで失礼しました。
[註]
「元永本」は、平安末期(元永)(1120年頃)、
能筆の藤原定実(平安三蹟の一人・藤原行成の曾孫)が書いたとされる
仮名序と20巻全てが揃った最古の完本。巻子本とも。
「定家本」は、鎌倉初期(嘉禄)(1226年頃)、
歌人の藤原定家(新古今和歌集や小倉百人一首などの撰者)が書いたもので冷泉家に伝わる。「嘉禄本」とも。
古今和歌集本文として最も読まれているとのこと。
コメントの中身となりますと良く分からず、そうなんだろうなと思いつつなんだか異次元の世界を歩いているような感じがしますが、色々次から次へと深く掘り下げられることに本当に感心します。やはりこの姿勢が色々な作品の向上に繋がっているのだと思いました。
書の道、まさに修行なのですね。
高野切は書のお手本に過ぎない、なぞっていればそれでいい人が大半だと思いますが、その真髄に分け入って道を究めたい、まさに書道なのだと思いました。
作品は作者の心映えを反映した、美しく優しさにあふれたものだと感じます。
修行の道、書道を応援しております。