クタビレ爺イの山日記

諸先達の記録などを後追いして高崎近辺の低山中心に歩いています。

第34回 小幡桜祭り武者行列 H-30- 4-8

2018-04-09 12:09:50 | 伝説・史跡探訪
裏日本の天候が悪く群馬も低温・強風らしいが昨年行けなかったので
二年振りの武者行列見物。
あちこちの行列イベントを見て回っているので甲冑姿の友人も
何人か出来て彼らに会うのも楽しみ。

例年、駐車場所確保に苦労しているので本日は開始一時間前に
現地に着き楽々と街中に駐車。だが、桜は既に葉桜で「桜祭り」
とは云える状態ではなく、吹き抜けの様な台地の小幡は寒風が
強くまるで冬に逆戻りした様。

体温を上げるためにせっせと速足で街中を西進し。この道標で
右折。



ここは中小路て町の重文に指定されている「高橋家」「山田家」
「柴田家」などの武家屋敷が続く。何気なく見ている石垣も
重文なのだ。



中程の空き地では山車囃子が機運の盛り上げに一役。
(途中で止めるには画面左下の縦二本棒をクリック、その途中から再開は
右向き矢印、終了してからもう一度見るには左下に現れる反時計回り
反転マークをクリック)

山車の出迎え


定刻には未だ時間があるが準備の出来た鎧武者たちが観客に
混じって大きな中門を潜って楽山園の集結場所に向かっている。
この楽山(ラクサン)園は「知者は水を楽しみ仁者は山を楽しむ」から
命名されたと云い丁度6年前に10年の歳月を掛けた大改修が終り、
新しい大名庭園として生まれ変わり「国指定名勝楽山園」と称している。



塀際の桜を見ると僅かに花は残るが矢張り葉桜。だが良く見ると
葉桜も意外に風情があるものだ。



参加者の様子
(途中で止めるには画面左下の縦二本棒をクリック、その途中から再開は
右向き矢印、終了してからもう一度見るには左下に現れる反時計回り
反転マークをクリック)

武者行列参加者集結


そうこうしているうちに出陣式のリハーサル、毎年同じ人だが
巧みな話術で勝手に歓談している人たちの視線を演台に
集中させる。



傍では甘楽町のマスコット「かんらちゃん」も一役。



正面に目立つのは本日のゲスト「バンビーノ」のコンビ。
吉本の芸人さんだとか。爺イは知らないが多くの声が
掛かるところを見ると結構知られたコンビかな。
数年前には西郷輝彦とか和泉元弥、城之内早苗クラスが
ゲストだったがだんだんお笑い芸人の傾向にあるようだ。



長い挨拶もなく大将役の人が「エイエイオー」勝ち鬨を上げて
隊列が出発。



今年の騎馬武者は男女一人づつの二騎、ゲストさんではなく地元の方々。



武者行列の様子はこちらからご覧ください。
(途中で止めるには画面左下の縦二本棒をクリック、その途中から再開は
右向き矢印、終了してからもう一度見るには左下に現れる反時計回り
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武者行列纏め


神社で往路は終わり代表の武将が参拝している間、休憩と
観客との交歓時間となり、再び反転して午前中からイベント開催中の
「お祭り広場」に帰着して「凱旋式」という運びであったが
生憎と爺イは午後から町内会の年次総会があるため、神社までの
お供で退散。

例によって蛇足

戦国時代、この地は国峰城に拠り長野氏などの関東管領派から
離れて武田の被官になった小幡氏の支配地、だが武田氏の滅亡後、
小幡氏は北条氏に属したのが裏目に出て1590年の小田原征伐で
上杉景勝や北陸勢に攻められ城主の小田原詰めの留守を守って
奮戦するも衆寡てきさず国峯城は無念にも落城し廃城。

小田原戦の後、徳川家康が関東に入部すると、その家臣奥平信昌が
三河国亀山から転封し1590年から1601年までの11年間は、小幡領2万石と
して領主となり、国峯城の枝城であった宮崎城(現富岡市)に入った。
奥平信昌は甘楽郡奥平郷(現高崎吉井町)出身で、徳川家康に属して
長篠の戦で武功をあげ、家康の長女亀姫を夫人とした男。
ところが1600年の関ヶ原合戦の功によって美濃国加納へ十万石で再び
転封となり、宮崎城は廃城となってしまう。

1601年から1602年の1年間は、奥平信昌の四男で徳川家康の養子と
なった松平忠明が領主、1602年から1615年の大坂夏の陣までの13年間は、
水野忠清が小幡1万石を領した。但し、この間の1610年から1615年
までの5年間は、箕輪城12万石の領主井伊直政の二男直孝が、福島に
陣屋を築き甘楽郡東部の地1万石を支配し、ここに織田が使った
福島陣屋が発祥していた。

肝心の織田信雄(ノブカツ)、明智との決戦後の清洲会議で兄・信忠亡き後の織田家の
後継者になろうとするものの、結局、織田家当主は三法師に攫われたが
信長の遺領配分で、尾張・伊賀・南伊勢約100万石を相続した。
織田姓に復して信雄と称したのはこの時である、
その後、小田原攻めの後、家康旧領への転封を拒否して改易・流罪の憂目に
遭うが家康の斡旋で秀吉に出仕、更に 関ヶ原の時その曖昧な態度から西軍
寄りと見なされて家康によって再度の改易をされて今度は大阪冬の陣まで
淀殿支配の豊臣に出仕するが、夏の陣直前に大阪城より逃亡。戦後に大和国宇陀郡
3万石・上州小幡2万石が与えられ、1616年に信雄の子信良が福島の
御殿に入り、織田氏による小幡支配が漸く開始されたのであるが
信雄本人は貴人気取りで京が好き、当初は小幡で過ごして後は京都に実質隠居だった。

息子信良は小幡藩を創設して八代・信邦が明和事件に連座して1767年に出羽に
転封されるまで小幡は織田支配の城下町。但し、当初の陣屋は「福島」で
三代・信昌の1642年に小幡に陣屋が移されている。
従って「歴代小幡藩主」という場合は創設者の信雄四男・信良を初代として
転封された8代の信邦までの7人を云うのであり、一方で「織田家七代の墓」
と言う場合は信雄を初代として七代藩主信富までの7人である。
従って小幡は1615年に織田氏の所領となり、以来約152年に
わたって治められた事になる。

信雄→信良→信昌→信久→信就→信右→信富→信邦

明和事件が起こった翌年1767年に信邦は蟄居となり、弟信浮は養子として
認められ、出羽高畠2万石に移封となった。
織田家移封の後、1767年に小幡2万石に封ぜられたのは、奥平家とも縁続きの
松平忠恒である。3代忠恵は、50年にわたり藩主や幕府の奏者番・
若年寄の要職を勤めた功績により1850年に「城主格」を拝命し、
以後小幡陣屋は「小幡城」と呼ばれた。そして 4代忠恕は、小幡藩最後の
藩主で1869年版籍奉還するまで続いたーーーーこれが小幡の概略歴史だ。

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