クタビレ爺イの山日記

諸先達の記録などを後追いして高崎近辺の低山中心に歩いています。

妙義・お菊伝説探訪 H-19-1-20

2007-01-20 19:48:30 | 伝説・史跡探訪
萩原進編・群馬の墓巡り郡部編をパラパラと捲っていたら
「お菊の墓」が妙義町・中里と紹介されていた。アレッ!お菊の墓は
甘楽の宝積(シャク)寺ではなかったのか?
さては宝積寺のものは寺の作った供養碑かな。それなら町指定の文化財
リストにも載っていないかもしれない。
最近、お菊伝説に拘わったハイキングをしているので一寸気になる。
土曜の午後、時間が空いたので遥々妙義町探訪に出かけた。
妙義町・中里へは十八号線からでも行かれるが、一寸複雑な個所も
あるので判り易い254号線から。「一ノ宮北」信号を右折して
47号線に入れば一直線だ。
この道、確か昔は「富岡・妙義線」と言っていたが今は「一ノ宮・妙義線」。
高田地区を通過して上信越高速の高架が見えたところの右に妙義町
消防分署があり、良く見えるところに上のような看板があるので
見逃す事は無い。
すぐ先には妙義中学もあるし、「北山」交叉点もある。道路を反対側に
渡ると直ぐに説明看板があるが

余り整備はされていなく民家の蔭と言う感じ。

下の写真の様に左から五輪の搭・中世の石像物・添碑が二基である。

五輪搭は伝説当時の物と言われるが、専門家によると造りに戦国以前の
様式が見られるそうなので本当の話し、伝説の主の墓である保証は無い。
但し、伝説からも宝積寺に伝わるお菊の芝居でも、登場人物の殆どが
実在を確認できる人物像であり、特にお菊の最後を看取ったとされる
小柏源六は長篠で戦死したれっきとした実在人物であるので
事件其のものは確かにあったと考えて良いのではないかな。
添碑の左側は、苔生して写真では判らないが正面に「菊女の墓所」、
向かって左側面に「信州松代藩中小幡長右衛門平龍蟄立石」とある。

年号は安政五年とあるから1858年、正に幕末、井伊直弼が大老に
なった時、小田原攻めより268年後、つまり推定で事件発生から
約270年後の添碑建設である。龍蟄とは小幡城主の末裔とか。
右の添碑は写真で判るように正面に「菊無妙」側面に「菊女父母」。
お菊の悲劇の顛末については諸説あり、代表的なのは
同輩に妬まれ城主・信行の食事椀に針を入れたとした冤罪を着せられた、
もう一つは信行が小田原へ従軍中、山田軍兵衛なるものが、お菊懐妊と
妻女に告げ、蛇責めの刑にあわせたと言うもの。
妙義の説明板には「城主・信真」とされているが、この城主、信実に
始まって信真―信貞―信行と改名しているので惑わされないように。
安中の「八重ヶ淵伝説」、前橋の「お虎ヶ淵伝説」はこのお菊伝説の
伝播という識者もいる。
今度は小幡氏の国峰城や毎度見逃してきた「菊ヶ池跡」を訪ねなくては
ならない。

「北甘楽郡史・妙義町の項」
「…事露われて菊女に疑かかり、遂に小幡の山、熊倉という所の池において
蛇責めの惨刑を受け、苦悶して死せりという。小幡氏十一世の孫、長左衛門
古五輪の側に一碑をたてる。菊女は甲州藤井の庄より出て゛小幡の臣なりし
菅根正治の女なりと。昔、この辺を菅根の庄、菊女墓のあるところを字菅根
という。…・」

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2 コメント

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Unknown (be.yond)
2007-01-21 15:04:15
あちこち歩いていると、いろんな伝説や史跡にお目にかかることでしょう。

私もかつて県内の古墳を訪ね歩いたことがあります。
ゴルフばかりしてないで、また始めてみようかなとも考えています。
返信する
伝説巡り (爺イ)
2007-01-21 16:32:53
小生、生来の心肺機能の弱さと中年で患ったメニエールの
後遺症のため、高い山・険しい山には行かれない代わりに
里山・低山の伝承や故事に興味があります。
世間には郷土史家が大勢居られて書籍も豊富ですので
出来るだけ後追いをしていて史跡探訪のアイテムを
作って楽しんでいます。
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