クタビレ爺イの山日記

諸先達の記録などを後追いして高崎近辺の低山中心に歩いています。

史跡探訪・神流川合戦(1)(改) H-21-12-12

2009-12-12 18:44:38 | 伝説・史跡探訪
10/25の「箕輪城まつり」の記事を見直していたら武者行列の中に
「滝川一益隊」と寄居の「鉢形城三鱗会」の姿があったのを思い
出した。共に一時期は長野氏の後、箕輪城に君臨した勢力である。
この両者は永禄九年の長野氏滅亡から16年後の天正10年、武田が
滅んだ3ヵ月後の本能寺の変から15日後に神流川河原で決戦をして、
敗れた一益は伊勢に逃げ帰っているので祭りでは呉越同舟である。
鉢形城は北条氏邦の居城であり三鱗は後北条の家紋。
雨上がりの土曜日、その神流川合戦の史跡を探訪することにした。

その前に「後北条」の皆さん、名前は「氏0」が多くて紛らわしい。
そこでほんの少し、名前の整理。

後北条はご存知の様に創始者は戦国時代の扉を開いた男・「早雲」。
遥かの後年に北条早雲と通称される事になる「伊勢盛時、出家して
伊勢宗瑞」。
因みに「北条」を名乗るのは二代目の氏綱から。もっと云えば
早雲が永享四年(1432)に生まれて永正十六年(1519)に没し
享年88歳というのは江戸時代の創作。実際は24年後の
康生二年(1456)の生まれで享年は64歳。従って歴史小説で
取り上げられている彼の「城取り物語」は複数の近親者の
事跡を複合させた作り話だよ。と、なると今川義忠に嫁した
北川殿は1453年の生まれと推定されているから、小説で
言われる妹ではなく、早雲の姉だな。

その後継が「氏綱」で三代目が戦国史を賑わした「北条氏康」。
本編の主役はその子達。(一般に戦国時代は応仁の乱の1467年、
それが終結した1477年からと言われるが爺イは早雲の小田原城奪取の
1495年からと思い込んでいる)

            氏 康(正室の子供たち・早逝は除く)                          _______________________ |
 |     |     |    |    |
景虎    氏規    氏邦   氏照   氏政  
(上杉養子)  (韮山城)  (鉢形城) (八王子城)  
                    氏房  氏直
                  (岩付城) 

さて、ここからは「講釈師見ていた様な嘘をつき」の類で恐縮だが
爺イの神流川合戦の一席。

武田勝頼が天目山田野で惨殺され、信長より上野国を任された
滝川一益はその数ヵ月後に本能寺の変(1582-6-2)を事件発生から
7日後に知る。(勝家同様に5日後の説あり)
甲賀忍者出身とも噂される胡散臭さもあったが、一面では文化人
とも伝わる一益、咄嗟に逃走を決める。所が周囲は二ヶ月の付き
合いしかない元・武田軍団の上野国人衆、しかも信長倒れると知れば
直ぐに寄せてくる事が予想される北条も直ぐ南の武蔵に居る。
そこで採った作戦は、国人衆を味方につけて当座の反乱を防ぎつつ、
北条の頭をほんの一寸叩いて退路を確保してから本拠の伊勢・長島へ
遁走するという高等戦術。

度胸良く厩橋に留め置いた国人衆の人質を全て解放し、信長の死も
伝えて一旦解散後の再度の結集を求める。国人衆はその潔さに感服
して合力を約するという思惑通りの進展。

作戦は小田原の氏政・氏直の本隊が来る前に寄居・鉢形城の氏邦を
叩こうというもので、「信長弔い合戦のため上洛するから厩橋城を
受け取りに来い」と挑発。これに乗せられた氏邦は鉢形から僅かに
2500の兵力だけで配下の斉藤光透・光房の守る金窪城(現・金久保)まで
のこのことやってくる。もう、山崎で明智光秀は討たれている時期。

時に1582-6-17の夕方、だがその北・西側には一益隊・国人隊連合が
陣を敷いて待ち構えていた。国人の大将は倉賀野16騎で名高い
金井淡路守、沼田安堵で借りのある真田昌幸も五千を率いて一益隊。
第一回戦は6-18の早朝から。上野勢が圧倒的に主導権を取って完勝。
だが、夕方には氏政本隊も2キロ南まで到達していた。

二回戦は翌日の朝から余勢を駆った上野勢から仕掛ける。午前中は
上野勢が押し捲ったが北条の大道寺の作戦に嵌って形成大逆転。
つまり、本隊到着で三倍の兵力となった北条が突然引き始める。
つんのめるように一益隊は突進するが、それが包み込んで殲滅する
北条の罠。

まんまと嵌められて上野勢は厩橋に撤退、一益は予定通り碓氷峠
から伊勢・長島に向かって遁走。此処までは予定通りだったが、
織田重臣の筈の一益はこの敗けっぷりと逃げ足の速さが祟って
後継指名の清洲会議(6-27)にも呼ばれなかつた?
資料では松井田城を経て、追って来る北条勢を振り払いつつ、碓氷峠を
通り小諸城を26日に発って伊勢に向けて遁走。そうすると
27日の清洲会議には呼ばれなかったと云うより、未だ帰着して
いなかったので結果的に呼ばれる情勢には無かったのだな。

秀吉は決着を付けてから大返しをやり、柴田勝家は
NHK大河ドラマで詳細が語られたように、漸く上杉の魚津城を
落としたばかりなのに、交戦を中断して防備を固めてから越前に
帰ったので「山崎の合戦(6-13)」に間に合わなかった。
一益同様に堺から逃げまくり、三河に帰ってからも恐怖で腰を
抜かしたままだつた家康も、四国征伐のため大阪にまで来ていた
のに本能寺の変を聞いて兵卒が逃げ散って解体した信長庶出の
三男・信孝も参戦が小勢力だったので清洲会議には日和見・信雄
共々参加資格を失った。
その上に勝家滅亡後には兄・信雄の命で切腹させられている。
兄と言っても生まれは信雄が20日遅いが母親の身分の違い。

信雄は近江まで進軍したのに合戦の終了を知ってさっさと帰国。
だが、後に信忠・信孝の遺領を独り占めの狡猾漢。
因みに清洲会議は勝家の招集で6-27。参加者は勝家・秀吉と山崎に
参戦した武将の内から丹羽長秀・池田恒興の四人。

その後の一益は勝家と組んで織田信孝を擁するも賎ヶ岳で敗戦、
秀吉に付いてからも小牧・長久手で家康に敗れて剃髪、越前で
寂しくその一生を閉じている。

上野勢は何時もの通りの変わり身の旨さであっさりと北条に靡くが、
これが1590年の秀吉の小田原攻めで裏目に出て多くの国人衆の名が
戦国の終焉と共に消え去った。

北条勢は対秀吉強硬派が氏政・氏照・氏邦、穏健の上洛派は氏直・
氏規に分かれるが敗戦処理では氏政・氏照は切腹、氏直・氏規・
氏房は高野山追放、いち早く北陸軍の前田利家に降参した氏邦は無傷。
まあ、ざっとこんな事が420年程前に起きていたのだ。

次ページにつづく

ご来訪のついでに下のバナーをポチッと。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 史跡探訪・神流川合戦(2) (改... | トップ | 藤岡の三角点探訪(2) H-21-1... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

伝説・史跡探訪」カテゴリの最新記事