クタビレ爺イの山日記

諸先達の記録などを後追いして高崎近辺の低山中心に歩いています。

史跡探訪・神流川合戦(2) (改) H-21-12-12

2009-12-12 18:40:06 | 伝説・史跡探訪
(1)首塚八幡宮 高崎市新町



R-17を東進し新町駅前信号を過ぎて二つ目の「笛木町」をR-40へ
右(南)折、JR線を潜って進んで左に堂前郵便局を見ながら尚も南進、
高速手前のこの看板で左(東)折して約200m。



新興住宅地の間に首塚八幡の鳥居。



八幡の石碑と



文化財の首塚。北条方が戦死した兵の首を埋葬して菩提を弔った
場所とされている。




(2)胴塚稲荷 藤岡市岡之郷



車はそのまま八幡宮に置いて元の道標に戻って道路の反対側の細道。
人家に挟まれた道の直ぐの突き当たりに稲荷の鳥居。



小さな社殿



社殿脇に古墳の説明板。



同じく神流川合戦史の説明板



一益軍の戦死者を祀ってあるといわれる。
市指定史跡の胴塚稲荷古墳は径14m、高さ2.2m。

(3)軍配山古墳 玉村町角渕



R-40を北進、R-17を突っ切って進んで岩倉橋の中間が高崎と
玉村の境界。玉村を北上してカインズホーム手前を右折。
住宅地を抜けて畑地が広がると左手に古墳の全景が見える。



狭い道なので適当に路傍駐車。近づくとこんな感じの古墳の岡。



左手前に石宮が並ぶ。



ここは一益の本陣跡との言い伝え。古墳の元の名は「御幣山古墳」で
この地の有力豪族の墓の積りだったが、現地の説明では
古墳の名が主体で「元の名」どころではなく、軍配の地の方が
付け足しの扱い。



古墳の上からは展望が良く、赤城と



榛名




(4)神流川合戦碑 高崎市新町



R-17に戻って東進、神流橋の高崎側に記念碑。駐車場所なしなので
堤防上の遊歩道脇に際どく駐車。石碑の裏面に戦況が詳しく
刻まれている。



古戦場の説明板




(5)大光寺 埼玉県上里町勅使河原



神流橋を埼玉側に渡って最初の信号を右(南)折。JR高架を潜ると
右は既に寺の敷地で駐車場へ。



本堂手前の右手に町指定の文化財になっている常夜燈がある。
江戸時代の渡しの目標だった「見透灯篭」。1815年の作。



群馬側のものは現在大八木に移されている。



墓地入り口にこの巨大な供養塔。



本堂の裏手に回ると旧総門がある。元々、寺はこの南にあつたが
神流合戦で焼失してこの総門の北に移転。所が時代が下がって
直ぐ裏に鉄道が通り、当時の蒸気機関車の火の粉が降りかかって
再び焼失、現在の本堂はその後の再建。



総門の柱に戦国時代の「矢瑕」と称するものが残っている。





墓地脇に曰くありげな石幢。六面地蔵石幢で1509年の銘。





左隣は「親子地蔵」で「表裏に陰刻のある画像板石卒塔婆」という
難しい説明。
考えてみれば陰刻とは石材に文字や画像を彫るものだから
石碑などを見れば普通の事だが、仏像などは逆に半肉彫り
などで像が浮き出て居るのが普通だ。
この親子は勅使河原直重親子との説明つき。
この辺一帯は(上里)武蔵七党の一つ「丹党」の本拠地で、中でも
勅使河原氏の系統は著名、しばしば歴史書に登場する。
平家物語や源平盛衰記では1184年に都からの脱出を謀る
義仲を追う義経軍の中に勅使河原氏の活躍が書かれている。
最も壮絶なのが太平記に書かれた出来事。源平から152年後、
楠・新田が湊川で破れると後醍醐天皇は比叡山に逃避する。
天皇守護の勅使河原氏はそれを見送った後、「我何ノ顔アリテ
亡朝ノ臣トシテ不義ノ臣ニ従ワンヤ」の言葉を残して自決する。

(6)金窪城址 上里町金久保



R-17に戻って東進、「金久保」信号で左(北)折して小さな忍保川を
渡って「黛神社」に駐車して川の南側を僅かに戻って東進。



金窪城址公園というミニ公園の中を突っ切って道の反対側。
記念碑には城址ではなく「館跡」。



説明板。



氏邦が鉢形衆を核に深谷・上杉と忍・成田の援軍を伴ってここに
入ったのは1582-6-17の夕刻。但し、氏邦は城の守りは斉藤氏に
任せて別行動をとる。翌日の早朝からの一益軍の急襲で斉藤定盛弟の
基盛の守る支城の川井城と共に陥落して斉藤一族は壊滅、
城は簡単に落ちる。此れを見て氏邦はさっさと退却して本隊の
到着を待った。この城の歴史は古く1180年頃の築城とされるので
実に頼朝の時代、その後、1330年代に新田義貞一統が使用し、更に
1460年頃から斉藤氏の居城だった。斉藤氏は源平合戦で有名な
斉藤実盛の末裔。但し、滅亡とされる時期より後の氏邦時代の
伝馬金窪の責任者に斉藤一路(光清・定盛弟)の名があったり
小田原攻めの後の1591年の文書に定盛署名文書があるので
巷説の滅亡という言い方は間違いと思われる。
以上で神流川合戦関連一回りは終了したが、どうも地元での
取り扱いが軽すぎると感じた。

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4 コメント

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首塚 (haruna3)
2009-12-14 10:33:23
腑に落ちました

師匠のお話は顛末までしっかり書かれていて、実に後味がいい!
玉村の軍配山はしょっちゅう目にするのですが自分で調べる意気地がありませんでした。神流川合戦前後これでスッキリしました(笑)

折も折、H18年8月19日に掲載された下小鳥の首塚について最近詳細なブログ記事を見つけ関心があったしだいです(こちらは趣が違うようですが)

返信する
初めまして。 (アリス)
2009-12-14 14:15:32
お~ちゃんのところからやって参りました、アリスです。
どうぞよろしくお願いします。

神流川の合戦、興味深く読ませていただきました。
いろんなところに当時の面影も残っているんですね。
わたしは以前、八王子に住んでいました。
北条氏政の八王子城・・今はご主殿跡しかありませんけど。
近くだったのでよく散歩していました。

群馬を走っていると畑にこんもりとあるのは古墳なんですね!
関東に意外に多いのに驚きです。
また時々お邪魔させてください。
返信する
RE:神流川合戦 (爺イ)
2009-12-15 05:46:45
haruna3さん
お元気でご活躍と推察しています。
この一件は群馬勢の負けという事と
一益さんがどうも好きになれない武将
なので今まで深入りしなかったのですが、箕輪城祭りで幟を見たり、最近手にした「小さな町の物語・新町」なる
小冊子の巻頭に半ページほど書かれていたので暇つぶしに探訪しました。
冬場はこんな事などして過ごします。
返信する
RE:神流合戦 (爺イ)
2009-12-15 05:56:27
アリスさん
はじめまして。何時もミクシィのお仲間たちとの軽妙なやり取りでお名前は
良く承知しております。
お~ちゃんの様なトレラン選手ではなくヨタヨタと低山を這い回る事しか出来ない正真正銘のジジイです。
ブックマークにある「昭和記録集」の中のカテゴリーで「日本編」に
見聞きした昭和裏話と称するヨタ記事もありますのでお暇のときにどうぞ。
返信する

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