上の写真は、松井田・安中合併以降、新規に制作された「峠道探訪」の
標題部分。
旧松井田町時代のデザインに比べて大幅に変更されているが、特に
目を引くのが、下のイラストの様に旧観光マップにあつた「御巡幸道路」
の表示が消えている。
理由は多分、18号線開通以来廃道同然となっているし
整備も全くされていなく、数件の山岳事故もあつたので、新市としては
推奨しかねると言う所か?
さて問題は下記の地図。今回、参考までに送られてきたもので
10年ほど前に旧松井田・教育委員会が製作したと思われる
「中山道碓氷峠越え」の一部分。和宮道・御巡幸道路・中山道を
図示したもの。
良く見ると「御巡幸道路」は熊野神社から北に進んで「和宮道」を行き
子持山の南で旧中山道に合流、「栗ヶ原」から再び旧中山道と離れて
南進した後、碓氷川沿いに東進して碓氷湖東端辺で旧18号に合わさっている。
国土地理院の1/25000の地形図に破線が入っていることや、権威ある古道調査
のサイトの地図に記載があるので多くの人が御巡幸道路としているメガネ橋へ
の道は、線の記載はあるものの、道名はない。
だからと言ってどうと言う事も無いが、爺イの御巡幸道路出口を碓氷湖
東端とした記事は修正しなくても良さそうだ。
さて、何時もながらの蛇足を一席。お題は当然「国道18号線のあれこれ」。
明治天皇の1878年の(明治11年)北陸御巡幸当時は未だ中山道其のまま。
御巡幸に合せて脇道を新設したりの整備はしたものの、程度は「取り敢えず」
の域を出ていない。雨でも降ればドロドロ状態だったらしい。
従って天皇が輿から降りて自ら歩いたとの伝承も、道が急峻と言う事のほかに
前日の雨によって道が泥濘化していた事が一因らしい。
そこで1883年より本格改良が開始され、翌年に新道が完成した。この新道
が完成した事で従来計画されていた和美峠を通過させ様とする信越本線計画が
資材の運搬の便から今の碓氷峠越えに変更される事も起きている。
1885年(明治18年)、文明開化の日本は「国道」を指定する事になる。
国道5号線―「新潟港に達する路線」として東京―高崎―坂本―長野―直江津
-新潟 が指定された。
同時に制定された群馬関連には「国道8号線」「国道12号線」があり、
8号線は「新潟港に達する別路線」で東京―新町―前橋―清水―長岡―新潟
の路線。ここでの「清水」とは「清水峠」の事で峠の連なる「三国峠越え」は
「一等国道」とされてはいたが県道に格下げで敬遠され、1920年には
一時的ではあつたが県道指定からも外される。
12号線は「群馬県に達する路線」で東京―深谷―伊勢崎―前橋の路線。
当時の18号線は東京―愛知―福井の線。
其の後、大正年間に長野までを10号線、それ以北を11号線とする変遷を経て
戦後の1952年(昭和27年)の一級国道指定により高崎―直江津が18号線。
当然、17号線は新潟まで、因みに縁のあつた5号線は北海道に飛んで
函館―札幌間、8号線は新潟―京都間、12号線は札幌―旭川間に変貌。
翌年には二級国道指定が成されるが、その後は膨大な数の昇格・降格、市町村
合併による始点・終点標記変更が繰り返され、1965年(40年)には
一級・二級の別が廃されて全て「一般国道」になっている。県道に残る
二桁の主要県道、三桁の一般県道はこの流れの名残かも。
ご参考
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標題部分。
旧松井田町時代のデザインに比べて大幅に変更されているが、特に
目を引くのが、下のイラストの様に旧観光マップにあつた「御巡幸道路」
の表示が消えている。
理由は多分、18号線開通以来廃道同然となっているし
整備も全くされていなく、数件の山岳事故もあつたので、新市としては
推奨しかねると言う所か?
さて問題は下記の地図。今回、参考までに送られてきたもので
10年ほど前に旧松井田・教育委員会が製作したと思われる
「中山道碓氷峠越え」の一部分。和宮道・御巡幸道路・中山道を
図示したもの。
良く見ると「御巡幸道路」は熊野神社から北に進んで「和宮道」を行き
子持山の南で旧中山道に合流、「栗ヶ原」から再び旧中山道と離れて
南進した後、碓氷川沿いに東進して碓氷湖東端辺で旧18号に合わさっている。
国土地理院の1/25000の地形図に破線が入っていることや、権威ある古道調査
のサイトの地図に記載があるので多くの人が御巡幸道路としているメガネ橋へ
の道は、線の記載はあるものの、道名はない。
だからと言ってどうと言う事も無いが、爺イの御巡幸道路出口を碓氷湖
東端とした記事は修正しなくても良さそうだ。
さて、何時もながらの蛇足を一席。お題は当然「国道18号線のあれこれ」。
明治天皇の1878年の(明治11年)北陸御巡幸当時は未だ中山道其のまま。
御巡幸に合せて脇道を新設したりの整備はしたものの、程度は「取り敢えず」
の域を出ていない。雨でも降ればドロドロ状態だったらしい。
従って天皇が輿から降りて自ら歩いたとの伝承も、道が急峻と言う事のほかに
前日の雨によって道が泥濘化していた事が一因らしい。
そこで1883年より本格改良が開始され、翌年に新道が完成した。この新道
が完成した事で従来計画されていた和美峠を通過させ様とする信越本線計画が
資材の運搬の便から今の碓氷峠越えに変更される事も起きている。
1885年(明治18年)、文明開化の日本は「国道」を指定する事になる。
国道5号線―「新潟港に達する路線」として東京―高崎―坂本―長野―直江津
-新潟 が指定された。
同時に制定された群馬関連には「国道8号線」「国道12号線」があり、
8号線は「新潟港に達する別路線」で東京―新町―前橋―清水―長岡―新潟
の路線。ここでの「清水」とは「清水峠」の事で峠の連なる「三国峠越え」は
「一等国道」とされてはいたが県道に格下げで敬遠され、1920年には
一時的ではあつたが県道指定からも外される。
12号線は「群馬県に達する路線」で東京―深谷―伊勢崎―前橋の路線。
当時の18号線は東京―愛知―福井の線。
其の後、大正年間に長野までを10号線、それ以北を11号線とする変遷を経て
戦後の1952年(昭和27年)の一級国道指定により高崎―直江津が18号線。
当然、17号線は新潟まで、因みに縁のあつた5号線は北海道に飛んで
函館―札幌間、8号線は新潟―京都間、12号線は札幌―旭川間に変貌。
翌年には二級国道指定が成されるが、その後は膨大な数の昇格・降格、市町村
合併による始点・終点標記変更が繰り返され、1965年(40年)には
一級・二級の別が廃されて全て「一般国道」になっている。県道に残る
二桁の主要県道、三桁の一般県道はこの流れの名残かも。
ご参考
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「群馬県御巡幸記」なる書籍があると側聞したので
高崎市立図書館で探しましたが保有していないようです。
台風の余波で当分天候不順でしょうから、爺イの山行きは
休止状態。
実踏破での御賢察を待っています。
今日は雨予報の間隙を縫ってゴルフをやってきましたが
午後にほんの一降りあっただけで何とかできました。
現在、テレビの前で5連敗で首位転落の危機にある
巨人を叱咤しております。
国土地理院に行って5万分の1地形図の図歴を閲覧、謄本の取得をしてきました。
詳しくはURLに載せてあります。
大正元年の測図では御巡幸道路の入口はめがね橋の東側、昭和12年の修正測図からは爺イさまの降りられた第2トンネルの西側となっておりました。
わたしの辿った道はめがね橋の西側のコンクリート道路からなので、大正元年の地図は爺イさまも参考にされた「道・鎌倉街道上道」にある道に近いラインとなります。
だからどうだと言う訳ではないのですが、近いうちに再度、現地調査に行って見るつもりです。
今更ながら考え合わせると色々と迷う事ばかりです。先日、
立入り禁止の鎖を潜って坂本へ下る前は、当然御巡幸道路はメガネ橋までとの認識でした。
理由は例の地形図の破線と、或るHPの地図からです。既にご存知かとも思いますが「鎌倉街道」研究家の長大なサイトがあります。ド素人の小生から見れば学術的でさえありますが、
その番外編に「碓氷峠への尾根に残る古道跡」の記事があり
http://www.asahi-net.or.jp/~AB9T-YMH/mukasino_Folder/usui_folder/usui1.html
付属詳細地図にはっきり御巡幸道路がメガネ橋のところに書かれていたからです。このコメント欄に画像を貼り付ける方法が判らないのでこのブログ本文の最後にご参考として追加してあります。
しかし、H-16にkame-donさんが辿った時に危険な急坂数カ所あり、との情報が気になっていました。小生の下った道は崩落部分があるとはいえ始めから最後まで幅広で、荒れ道とは言え距離が長いせいか傾斜も一定で緩かったのです。
そこで出番は「松井田町史」となりました。
明治天皇はM-11-9-3に群馬入りして高崎に一泊、翌日前橋に行ってから再び高崎に戻り9-5に兵営で観兵式、雨の中を中山道を下る。
当日は松井田に一泊、9-6にいよいよ北陸巡幸に出発。五料本陣で馬車から板輿に乗り換えて坂本へ。この後の記述が気になりました。
「10時に坂本から碓氷峠に向かうが、峻険な羽根石山(刎石とは書いてないが)を避けて開鑿された御巡幸道路を進む。前日来の雨で新道の赤土は泥濘、板輿での進行が出来なくなった。天皇はやむを得ず輿を降りて歩かれたがこれは前代未聞の事。」
尚、群馬県百年史には輿を降りた場所を七曲りとして栗ヶ原に到着が11時。
と言うわけで、確かに坂本から旧中山道に入ると直ぐに刎石山にかかる急坂が「覗」まで続きますが、それでは、あの程度の坂を避けたと言う御巡幸道路には急峻は存在しない筈となりますし、当時は旧18号線もなく碓氷峠へは旧中山道きりないのにメガネ橋まで行き、そこから山道とは考えられません。
メガネ橋はM-25年の建設ですからもしそうなら御巡幸道路の
起点は坂本になります。それに輿を降りたのは巷間伝えられた急峻のためとは書いてなく、あくまで泥濘化した赤土の道のせいとされています。
小生は実際にメガネ橋には降りてないので、程度が実感できませんが、どうも坂本の旧中山道入り口近くから刎石の南をダラダラと進むのが板輿には無難な道だったように思えます。
まあ、良くは判りませんが雨模様の暇つぶしに考えてみました。
どうやら、貴兄の考証が正しいようです。
1878年の明治天皇ご巡幸時はめがね橋はもちろん、そこへ至る道はなかったと思われるので、堰堤からの九十九折のショートカットは恐らく信越本線(新線)のときの作業道として作られた後のものなのでしょう。
これを確証するためには1963年以前の5万分の1地図を探し出して見なければなりませんが。
#再度、貴兄のルートで行かなければ。。