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1/25、予定通り京都の測量・測地学研究家の上西勝也氏を迎えて前橋・新堀の
利根川改修に絡む水準点、観音山・乗附山の亜炭坑鉱区に使われた
「東鉱」標識を見てから、伊香保に向かった。
目標は伊香保温泉最古の歴史を誇る千明仁泉亭。この旅館の正面の築地の
脇に珍しい標示看板があるとは上西氏の話。それが上の写真。
もっと大きくしてみるとこんな事が書いてある。
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明治十二年に標高測定値が尺貫法で、明治四十年には標高と緯度経度。
さて、これからが疑問。何でこの時期にこの場所で?切っ掛けは?目的は?
旅館の関係者に聞いてもハッキリしなく、古い記録は蔵の中なのでと。
上西氏もそれを知りたくて来たので残念そう。後日調査とした。
ここに名前のある「小林一知」とは著名人らしい。何しろ戊辰戦争の時の
「咸臨丸」最後の艦長さんだよ。新政府に出仕して測量事業を担当し、
地理局観測課長を経て第二代中央気象台長になった人とか。
推定では測量司時代に各地の区域測量をしたと言うから、ここもその
一環なのか?それにしても色々な文献を調べてもこの件に触れた物は現在
皆無。何方かご存知の方、ご一報下さい。
旅館の庭園から子持山
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小野子三山を眺めて
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帰途につき上西氏を高崎駅に無事に届けた。
その替わり、伊香保に関する事を色々と知ることが出来た。一寸長くなるが
二つほどご披露。
伊香保には450年の歴史を誇る老舗の旅館が三軒ある。「千明仁泉亭」「岸権」
「ホテル木暮」がそれである。
伊香保村伝には「天正年間、白井城長尾氏の遺臣七氏(岸・木暮・千木良他)
来住して漸く村落をなすーーー」とあるが、これは一寸違うかも。
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白井落城は1回目が1572年の眞田幸隆の攻略で元亀年間であるので、
武田滅亡の後、上杉・北條・滝川・北條と主を変えた挙句の天正十八年・
小田原攻めに巻きこまれた二回目の時となる。が、伊香保衆は武田滅亡後に
白井城に属していたから遺臣になる前に監視役で駐在したのか?
だが、別資料ではこの地の有力者であった木暮・岸・千木良の面々は
永禄の頃より武田に属し、長篠の戦いの翌年・天正四年に石段付近の
土地・農耕地・山林を分け与えられ、湯元より引き湯して湯の支配権を
数軒が得て営業していたらしい。だから「岸権」の創業はこの天正四年と
称している。1576年。
もっと古い伝承もある。「文亀年間、宗祇法師千明氏に浴泉しその室を
仁泉亭と名くーー」がそれだ。ここに出てくる「宗祇法師」とは室町時代の
連歌師で「和歌の西行、俳句の芭蕉、連歌の宗祇」と言われる著名人。
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写真は裾野市定輪寺のもの。
宗祇の年表を調べると1502年に弟子数人を伴って越後を発する旅に出るが
同年7月、箱根の湯本で82歳の生涯を閉じている。伊香保の伝承は多分
この旅の途中と思われるが、千明仁泉亭の創業もこの1502年をとってるのだ。
岸権の創業より74年も遡るが、千明氏は元々千年来の土着の豪族とされていて
現在の場所とは違う湯元(現・橋本ホテル付近)で湯小屋と称する小規模の
湯治湯を営業していたらしい。岸権の先祖は其の後の1520年以降に
信州から戦火を逃れてきたとのこと。
従って現在では千明が伊香保最古の温泉宿との言われ方が多い。
我慢してもう一つ聞いて下さい。
現・仁泉亭当主は22代目の三右衛門氏だが、先代三右衛門氏が伊香保
CATVの父と云われているのをご存知だろうか?
先代三右衛門氏は「LIFE」に載ったCATV の記事を見てテレビ受信に
難のあつた伊香保地区を考えてNHK前橋に懇請し、大変な苦労と奮闘の
末、昭和31年からの運用にこぎ着けたのである。当初は伊香保ハイランド
ロープウェイ終点近くにある「物聞山」に30Mのアンテナを設置して
日本初のCATVでNHKと民放ニ社の電波を伊香保にもたらした。
其の後、昭和40年に二つ岳の雄岳にUHFの中継局が出来てCATV の
使命は終り現在デジタル用中継搭も完成して雄岳の頂で輝いている。
この伊香保方式は全国の山間部難聴解消のモデルとなっているとの事なので
千明氏の功績は大きい。
余談ばかりで肝心の看板表示の事は不明、後日の情報にまつしかない。
利根川改修に絡む水準点、観音山・乗附山の亜炭坑鉱区に使われた
「東鉱」標識を見てから、伊香保に向かった。
目標は伊香保温泉最古の歴史を誇る千明仁泉亭。この旅館の正面の築地の
脇に珍しい標示看板があるとは上西氏の話。それが上の写真。
もっと大きくしてみるとこんな事が書いてある。
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明治十二年に標高測定値が尺貫法で、明治四十年には標高と緯度経度。
さて、これからが疑問。何でこの時期にこの場所で?切っ掛けは?目的は?
旅館の関係者に聞いてもハッキリしなく、古い記録は蔵の中なのでと。
上西氏もそれを知りたくて来たので残念そう。後日調査とした。
ここに名前のある「小林一知」とは著名人らしい。何しろ戊辰戦争の時の
「咸臨丸」最後の艦長さんだよ。新政府に出仕して測量事業を担当し、
地理局観測課長を経て第二代中央気象台長になった人とか。
推定では測量司時代に各地の区域測量をしたと言うから、ここもその
一環なのか?それにしても色々な文献を調べてもこの件に触れた物は現在
皆無。何方かご存知の方、ご一報下さい。
旅館の庭園から子持山
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小野子三山を眺めて
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帰途につき上西氏を高崎駅に無事に届けた。
その替わり、伊香保に関する事を色々と知ることが出来た。一寸長くなるが
二つほどご披露。
伊香保には450年の歴史を誇る老舗の旅館が三軒ある。「千明仁泉亭」「岸権」
「ホテル木暮」がそれである。
伊香保村伝には「天正年間、白井城長尾氏の遺臣七氏(岸・木暮・千木良他)
来住して漸く村落をなすーーー」とあるが、これは一寸違うかも。
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白井落城は1回目が1572年の眞田幸隆の攻略で元亀年間であるので、
武田滅亡の後、上杉・北條・滝川・北條と主を変えた挙句の天正十八年・
小田原攻めに巻きこまれた二回目の時となる。が、伊香保衆は武田滅亡後に
白井城に属していたから遺臣になる前に監視役で駐在したのか?
だが、別資料ではこの地の有力者であった木暮・岸・千木良の面々は
永禄の頃より武田に属し、長篠の戦いの翌年・天正四年に石段付近の
土地・農耕地・山林を分け与えられ、湯元より引き湯して湯の支配権を
数軒が得て営業していたらしい。だから「岸権」の創業はこの天正四年と
称している。1576年。
もっと古い伝承もある。「文亀年間、宗祇法師千明氏に浴泉しその室を
仁泉亭と名くーー」がそれだ。ここに出てくる「宗祇法師」とは室町時代の
連歌師で「和歌の西行、俳句の芭蕉、連歌の宗祇」と言われる著名人。
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写真は裾野市定輪寺のもの。
宗祇の年表を調べると1502年に弟子数人を伴って越後を発する旅に出るが
同年7月、箱根の湯本で82歳の生涯を閉じている。伊香保の伝承は多分
この旅の途中と思われるが、千明仁泉亭の創業もこの1502年をとってるのだ。
岸権の創業より74年も遡るが、千明氏は元々千年来の土着の豪族とされていて
現在の場所とは違う湯元(現・橋本ホテル付近)で湯小屋と称する小規模の
湯治湯を営業していたらしい。岸権の先祖は其の後の1520年以降に
信州から戦火を逃れてきたとのこと。
従って現在では千明が伊香保最古の温泉宿との言われ方が多い。
我慢してもう一つ聞いて下さい。
現・仁泉亭当主は22代目の三右衛門氏だが、先代三右衛門氏が伊香保
CATVの父と云われているのをご存知だろうか?
先代三右衛門氏は「LIFE」に載ったCATV の記事を見てテレビ受信に
難のあつた伊香保地区を考えてNHK前橋に懇請し、大変な苦労と奮闘の
末、昭和31年からの運用にこぎ着けたのである。当初は伊香保ハイランド
ロープウェイ終点近くにある「物聞山」に30Mのアンテナを設置して
日本初のCATVでNHKと民放ニ社の電波を伊香保にもたらした。
其の後、昭和40年に二つ岳の雄岳にUHFの中継局が出来てCATV の
使命は終り現在デジタル用中継搭も完成して雄岳の頂で輝いている。
この伊香保方式は全国の山間部難聴解消のモデルとなっているとの事なので
千明氏の功績は大きい。
余談ばかりで肝心の看板表示の事は不明、後日の情報にまつしかない。
ご苦労様でした。
そうでしたか、白井長野氏の遺臣たちが移ってき
たのでしたか。国峰城の小幡氏の遺臣たちかと
思っていました。
お疲れ様でした。
白井・長尾家文書には「永禄ノ頃大島大膳、岸大学等ノ
七氏ヲ渋河ノ保ニ置キテ箕輪ヲ監視セシメ、信濃路ノ
要害伊香保ニハ木暮下総、岸弾正、等ノ十二騎ヲ移シ
守ラシム」
又、群馬郡誌には
「旧時伊香保は伊香保神社の領地と云。神官は天正中
岸筑前守、以後木暮下総守の子孫世々近傍を領すと
謂えども、温泉の地に於いては千木良氏尤旧しと云。
木暮氏は上杉憲政に従い、同氏滅亡後は箕輪・長野氏に
従い、長野氏滅後は武田氏に、更に武田滅亡後は
白井城の長尾輝影に属し本村を管す」
武田・上杉・北條の草刈場とされた西上州の豪族達の
苦労が垣間見える様です。
詳しく調べていただき有難う御座います。
話は違うのですが、長野業盛が武田軍と1週間ほど戦って破れたそうですが、そのとき上杉謙信軍はどうして援軍を出さなかったのでしょうか?。いつもそのあたりが不思議に思っていました。義に篤い謙信が関東管領を任せた長野氏の窮地をどうして見逃したのでしょうか。時は9月頃と思います、彼の支城のある六日町の坂戸城や沼田からならそれ程遠い距離ではないと思うのですが、鎌倉で忍城主の成田氏を殴打して以来、関東の武士団に見限られて、関東管領でありながら関東を見限ったのでしょうか?。それとも北陸の略奪に忙しかったのでしょうか?。私は謙信は義に篤く立派な武士との世間の風評に疑問を持っています。
永禄ニ年の「北越軍記」に「景虎腫物を患わせられ、上使大館輝氏見舞。即外科本道医師数人参向。程なく腫れ物平癒」とあり大館氏は足利義輝の使者。この病は六年後に重症として再発している。
関八州古戦禄8より。
「永禄八年の春、越後の謙信、虐疾を患へ日を経て寒熱甚だしく左足に風毒腫発して苦痛忍ひ難くーー。快復すれど進退以っての外憔悴し左足は一生趁破にて終られたり」
又、永禄の頃より信玄の陽動作戦にのせられ冬季の三国越えを繰り返すうちに軽い中風を病み、手先が震えて書状に花押をすえる事もできなかった。
と、謂うような体調不良説。
箕輪城の落城は永禄六年二月二十二日が定説であるが、攻城戦に関する信玄の感状が皆無で決め手がなく、出所は全て甲陽軍鑑をタネ本とする後年の江戸期の軍記物。最近の研究では長年寺に残る信玄の高札写しから永禄九年九月二十九日説が有力。が、ニの字と九の字が多過ぎ?
謙信は永禄七年吾妻に二千騎を派遣して岩櫃奪還を図るが謀略に掛けられて撤退、同八年には城虎丸の篭もる嵩山が落城、吾妻は全て信玄のもの。
それ以前に倉賀野・和田・松井田・安中・後閑などは既に信玄に帰順。
箕郷町誌の「推定箕輪攻め作戦命令 1 」
箕輪方は十年に及ぶ我が軍の作戦行動により、既に全ての支援兵力を失い核堡及びその支砦に拠り最後の抵抗を試みんとするものの如しーーー。上杉謙信は目下、常陸の国に行動中にて箕輪城方面への転進並びに本国残留部隊による信州方面への作戦行動は不可能なる状況と判断――」
以上は謙信転戦中の説
同箕輪城包囲陣の項より
「長野業盛以力独力守城を決意して謙信の後詰めも求めず、全兵力を本城に終結し防御の体勢を固め、信玄も二万五千の軍を配してーー」
「長野氏が松井田・安中・倉賀野を支援しなかったのは、業政既に亡くその実力著しく低下した故であるが業盛が越後への援軍要請もせず武田に屈しなかったのは潔いと言える。しかし、其の対応の程度が戦国大名として長野氏が育ち得なかった原因であり宿命であろう」
以上業盛は謙信に応援を求めなかった説。
謙信の佐竹義昭への書状「景虎こと、依怙にて弓箭をたずさえず候。ただただ筋目を以っていずかたへも合力いたすまでに候」で判る様に領土拡張の野心なく天下正義の為に戦ったのであり、信玄の実利主義とは相容れない筈だった。頼めば来たかも?
したがってインレッドさん、爺イの見解は頼まれなかったか又は
体調不良だったと思いたい。
詳しくお調べ戴き有難う御座います。大変良く解り胸の重荷がスッキリとしました。
しかしながら彼は関東管領として、関東を無事に治める役目と思います。関東が危険な時に頼まれなかったから守らないというのは、やはり納得がいきません。病気説の方が正しいのでしょうか?。
私は管領職を受けたが、成田氏の事件以来、彼は関東の武将に見放されて、「関東はどうでもいいやー」と管領職を放棄したように思うのですが、そんな主だから長野氏も援軍を頼まなかったのでは、と今回の爺さんが調べて戴いた記事を読んで思いました。哀れなのは一途に仕えていた長野氏と思います。歴史は勝者が正義のようですが、私は敗者にロマンを感じます。
有難う御座いました。
何か判ったら又、お知らせします。
業政は其の生涯を通じて鎌倉府・管領体制の保持を願って行動したと思われ、その一徹さは建武秩序の防衛に殉じた楠木正成に匹敵と言われます。
しかし、その管領家の現実に幻滅を感じ、絶望していたのではないでしょうか?
1336年の斯波家長に始まり1578年、謙信で終る242年間は殆ど公方を絡めた自らの騒乱の連続です。「永亨・亨徳・長亨の乱」を始めとして管領体制は殆ど機能していなかったようです。最も酷い失策が扇谷上杉が早雲を関東に引き入れてしまい、以後の後北條が関東騒乱の台風の目になった事でしょう。
絶望の兆候は天文十五年(1546)に現れます。晴信が義清に手酷くやられたとの噂を聞いた憲政騎下はそれに乗じた武田討伐を策しますが、業政一人それに反対し「今は手を尽くして北條に対抗すべき時、何の拘わりもない武田に向かって何の益があるのか?闘えば必ず負ける」と主張して席を蹴って
退出。
結果はご存知の様に小田井原で大敗し管領の権威を失墜。
天文二十二年の憲政平井城退去にも大反対であったとか。本来なら守護代の長尾氏が後を守るべきのところ、長尾氏自体の信望と実力がなかったため重臣の一人であった業政に西上州防衛の負担が重く圧し掛かってしまった。
ご指摘の成田殴打事件は永禄四年に起きていますね。この年、輝虎は小田原攻めを途中で諦めて鎌倉鶴が丘八幡に参詣し、近衛前嗣の鎌倉公方就任と自身の関東管領職の継承の儀式を行っていますが、この席で一番に参陣した長野氏を戦功第一とした事に各武将が猛反発、太田資正・成田長康(武州忍城主)が辱められたとの事。関東諸将の輝虎軽蔑と輝虎焦慮の衝突と言われます。
この年は業政の亡くなる年なので老齢のため参陣は業盛でしょうが、管領に尽す長野勢は関東の二又膏薬の連中からは疎んじられたのかも知れないと言う事はインレッドさんのご指摘の通りでしょう。
厩橋に撤退を開始した輝虎に対する北條の追尾は厳しく、部隊は四散し直接厩橋に帰りついたのは越後勢三千のみと伝えられ、関東勢は二派に分裂。
業政の遺書に「――降人となりて父祖の名を腐すへからす。運尽は城を枕とし腹切て死すへし。――」とあり孤立無援の覚悟を伝えています。
其の後の輝虎の管領としての事蹟は名目のみで倉賀野城攻防でも北信濃で武田を牽制するから長野氏中心に奮闘せよ、と謂うばかり。重要な拠点には精強な甲州兵を入れていた信玄とは大分違う流儀。確かに関東を治めるのには武田の跳梁する北信濃を押さえないと越後本体が危機に瀕するから。
しかし、武田もさる者、1558年に「信越国切り」の内書を将軍から取ってしまつている。つまり越後は輝虎、信濃は晴信とし国外への侵略を禁ずるというもの。だが武田の本来の狙いは南北朝以来の守護・小笠原を滅ぼしているのでその守護職空席を狙っていたもの。守護になれば侵略者へは討伐の大儀名分
が立つからである。従って輝虎は常時武田の執拗な牽制出兵に悩まされ本音は関東どころではなかったらしい。小田原の後、休む間も無く川中島の大決戦に臨んだのは余程、武田の侵略が腹に据えかねたのでしょう。
一方、業政と輝虎の関係が冷たい関係と謂われるのは輝虎から業政への書簡が見付らないのは箕郷落城のためとも謂えるが、其の業政から輝虎への書簡もない事も証拠。
それにも拘わらず業政は一度たりとも輝虎に離反の態度を示す事もなく、かくして箕輪は上杉・武田・北條の三氏間に介在して孤立の態となり輝虎側に立ちながらも何れにも隷属せず、又自ら立つて戦国大名への野望を燃やす事無く、ひたすら管領
体制による秩序の維持を理想として努力したのでしょう。しかし、業政の遺書を見る限り死期に望んでその不可能を悟り箕輪の城と共に長野氏の最後を飾るように一族を励ましたと思われ、業盛もそれを律儀に守ったと言う事かな?
全くその通りと思います。足利将軍も名ばかりになった時世では、関東管領も名ばかりですね。扇谷上杉家が大田道灌をだまし討ちにして以来その衰退は始まったようですね。
群馬に住む人間としては、業政・業盛そして上泉伊勢守を始めとした武将の活躍には信玄や謙信に勝る誇りを感じます。下克上の時代、信玄が来ればそれに付き、謙信・北条が来ればそれに付き家の安全を図った武将より信玄の誘いを断り、一途に上杉のみに仕えた長野氏に群馬の気性を感じます。「真田氏よ見習いなさい」と言いたいくらいです。
長野氏が信玄に降ったとしても、長篠の戦あたりで最前線に出されて、やがては滅びたことと思います、そうならば、やはり箕輪で討ち死にしたほうが潔かったかも知れません。やはり栄枯盛衰「奢れる者久しからず・・・」世の無常を感じますね。
さすがに人気ブログに載っている、お二人のコメントのやり取りは、同じ群馬県人として、楽しくまた勉強になりました。内容の濃いコメントにすっかり楽しくなりました。
コメント有難うございました。
爺イの様に年をとると何事にも疑い深くなります。
年表に載っている正史と称するものも江戸期以前は所詮は膨大な虚実混在の資料から学者がこれが真実に近いと判定したものに過ぎません。特に戦国史は江戸期に大いに振るった
現代なら小説・講談の類の軍記物を下敷きにした小説が
氾濫しているのでそれらにかく乱されて我々素人には最早ドレがホンとなのか判りません。が、其れだけに勝手な解釈も
成り立つので人夫々で楽しめます。