クタビレ爺イの山日記

諸先達の記録などを後追いして高崎近辺の低山中心に歩いています。

渋川白井宿・八重桜祭り H-30- 4-22

2018-04-23 15:26:30 | 伝説・史跡探訪
昨日のふじの咲く丘も暑かったが今日はそれ以上の気温になると
想定してそれなりに用意して渋川・子持に向かった。
恒例の「白井宿八重桜祭り」の武者行列見物だ。

うっかりしてこの日は渋川マラソンだと云う事を知らなかったので
走行予定ルートの交通規制でグルグル回されて時間を浪費、
漸くr-291を捕捉して北上、吹屋で右折してベイシア近くの
「ふれあい公園」に駐車。シャトルバスを待たずに人の流れに
乗って台地を一段降って会場へ。

会場入口の八重桜を見ると自慢の八重桜は予想通りの葉桜になっていたが
辛うじて雰囲気は残している。



物産館前に回ると既に大勢の観光客が寛ぎ



周りの商店も活気に溢れていた。



ここの広場では「六斉」の表現を使う店が目立つ。「六斉茶屋」
「六斉市」など。
六斎とは元々は仏教上の用語で月6日の戒を持して身をつつしむ
べき日のことで,六斎市も当初はこの六斎日にちなんで
開かれた。しかし南北朝時代以降になると,それとは関係なく,
もっぱら各地の経済的必要にもとづいて特定の日に開かれるように
なり江戸時代中期には各地で月6回開かれた定期市となった。
この白井では白井藩廃藩後の1624年以後は5日・10日を市日
とする六斎市が立てられ市場町として発展してきたのでその名残で
あろう。



広場から用水路のあるパレードルートに来ると大きく「白井宿」の
表示。「白井」は「シライ」ではなく「シロイ」と読むが歴史を
見るとこの地には1888年まで「白井村」が存在したが1889年の
帝国憲法発布の年に市制・町村制も施行され、北牧・横堀・吹屋村と
合併して「長尾村」となり1960年に子持村、そして2006年に
渋川市白井と云う変遷を辿って来た。
それにしても宿場町でもないのに「白井宿」?
1624年の廃城後は城下町から市場町になったのだが、
町並の形態は宿場町そのもので、街道の真ん中に宿場町特有の
用水路まであったため?
かつては、どの宿場も道路の中央に用水路が設けられていたのだが、車の普及と
ともに60年代の終りから70年代の初めにかけて、全国の宿場跡から用水路は消えて
いった。結果として白井は、本来の意味での宿場ではないが、宿場の形態を
十分に伝えているといっていいだろうーーーと云う事かな。



用水路の始点の大きな石灯篭にも白井宿の彫り。



その用水路はこんな雰囲気。
この白井堰は、成長した市場町の町並みの中央を流れる生活用水路だつた。
だが明治時代に現在の国道17号が開通したため通りから外れ、白井宿は
市場町から農業集落へ変容して白井堰は用水路へ変わったが8つの古井戸、
草津・江戸等への道しるべ、古い家並みなどが残っている。
但し老朽化した水路を「せせらぎ水路」(雑割石積)に改修して
いるので昔の姿そのものではない。



沿道の八重桜の内でも僅かではあるが満開が残って居るのもあり
花見は十分満足できた。
(画像左クリックで拡大、元のページに戻るには左上の左向き
矢印をクリック)



周囲を見ると今日の主役はこの方らしい。この長尾景仲(1388-1463)の代に
享徳の乱などの戦乱のため、白井城が築城されたと推定されている。
沼田の真田信之、箕輪の長野業政、倉賀野の金井淡路守秀景、
上田の真田親子などと同じ流れのご当地の英雄だ。



別にこんな本多広孝の幟も。
本多広孝(1528年-1598年)ー元は徳川家譜代家臣で1590年まで田原城主。
徳川家康の関東入部にともない、子の本多康重が上野国白井城主2万石に
封ぜられたので広孝も白井城に移っているが1623年に孫の紀貞に
嗣子無く白井藩は廃藩、白井城は廃城となり破却された。つまり
白井城の最後を看取った御仁。



ブラブラ時間潰しをしている間にパレート開始の時間になり密着。
先ず画像でスライドショー。

白井宿武者行列画像


雰囲気はこのyoutube動画で。

白井宿武者行列


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3 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (toboketaG)
2018-04-25 17:18:44
早速のご返事ありがとうございます。
2011年までは探しませんでした。それでかような事をしてしまいました。ご容赦ください。
無理をせずに最初は南林道から沢に添って入り、東側の尾根にあるのだろうと思われるコースをたどって天狗山まで行ってみます。そこで994mに下る尾根の偵察程度にしておきます。改めて別のコースを経験し、大まかに南面の様子を頭に入れます。
返信する
天狗山 (クタビレ爺イ)
2018-04-26 06:02:58
前回申し遅れましたが国土院地形図に標高点と
山名が表記されているのは「天狗山西峰」で
石碑が林立し石宮のある東峰は何も記載なしの山。
従って天狗からの南進直滑降ルートは「西峰」からです。
返信する
天狗山探索 (toboketaG)
2018-04-26 21:02:54
重ねての情報ありがとうございます。
石碑乱立の頂は東峰ですね。初回の際、爺さまがマムシを見かけたところに間違いなく立ちました。そこから神社方面に戻りかけたら林間に丸い感じの盛り上がりが見え、そこまで行ってみました。これが西の峰なんですね。かなりのっぺりとした場所との記憶があります。地形図を改めて見直すと、994m地点に続く尾根は慎重に見ないと間違いそうです。幸い今はGPSで現在地はおろか歩いてきた軌跡までバッチリと判るので、慎重に行けば問題ないでしょう。
ありがとうございました。
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