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納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

# 622 週間リポート・南海ホークス

2020年02月12日 | 1976 年 



オレ様は「名消防士」さ
連日の好リリーフでまさに「神様・仏様・佐藤様」
開幕から佐藤投手が火消し役で大活躍している。チームを窮地から救っては「神様・仏様・佐藤様」とかつての鉄腕・稲尾のように崇められている。今季の南海には阪神から江夏投手が移籍し抑え役を務めているが、その江夏が目を丸くするほどのタフネスぶりを佐藤は発揮している。何しろ過去6年間怪我知らずで「毎日投げないと調子が狂う(佐藤)」と出番を催促するくらいだからまさに火消し役をやる為に生まれてきた投手なのだ。「南海投手陣でタイトル争いが出来るのは江夏くらいって思われたら悔しいからね。オレだって " リリーフの佐藤 " で売ってきたんだ。軽く見られたら男がすたるぜ」とキャンプから江夏をライバル視していた。

良い意味での対抗意識が佐藤には常にあり、江夏と張り合う覚悟でいる。4月4日の開幕戦(太平洋戦)でリードした9回の頭から起用された佐藤だったが、一死後に白選手に安打を許し代打に左打者の吉岡選手が起用されると江夏に交代させられた。この時の佐藤の悔しがりようといったらなかった。「ちくしょう!吉岡ごときに交代とはオレも落ちたもんだぜ。今に見ていろ必ずスカッと最後まで投げてやるからな、憶えてろ」と吐き捨てた。こうした台詞をベンチで堂々と言ってのけるのが佐藤の良さでもある。陰でコソコソ言う陰湿さが無いので首脳陣も批判とは受け取らずシコリも残らない。

この負けん気は翌5日に早速実を結ぶ。中山投手をリリーフして今季初セーブ。更に7日の近鉄戦ではピンチを迎えた江夏をリリーフしてセーブを記録して開幕戦の汚名を返上した。「あの近鉄戦のリリーフは久しぶりに熱くなったね。江夏は潔くオレにバトンタッチしてくれたし、試合後も素直に感謝してくれて嬉しかったね。リリーフ投手の最高の喜びはこれ。本当にジーンときたよ(佐藤)」と。佐藤にはひとつのジンクスがある。それは1年おきにタイトルを獲ってきた。1年目は新人王、3年目は勝率第1位、5年目はセーブ王、そして今季は7年目だからタイトルと縁のある年になりそうだ。

「投手の夢はもちろん最多勝・勝率・防御率の三冠だけどリリーフ専門のオレに最多勝は無縁。狙うとすれば残りの2つかセーブ王。一番欲しいのはセーブ王だね」リリーフ専門で1000万円プレーヤーになったことに佐藤は誇りを持っている。年俸を更にアップするにはどんどんセーブを稼がねばならない。今季の目標は60試合登板。それだけ投げれば結果は付いてくる筈。「本当は先発投手が完投すればオレが登板する必要はない。その方がチームにとっては喜ばしいだろう。でも現実は甘くない。投手個人もチームにも好不調の波は必ずある。先発陣が苦しい時こそオレの出番だ」と佐藤は力強く話す。



雨が降ったら何もでけんでは
なんとか室内練習場を。ノムさん深い悩み
日本列島に深いツメ痕を残した台風17号。各地の災害もさることながら混戦が続くパ・リーグ戦線に大きな影響を残した。南海も8日からの6日間で消化したのは僅か1試合。しかもエース・山内投手の乱調で痛い黒星を喫し優勝戦線から一歩後退となってしまった。「雨ですっかりコンディションを狂わされた。ウチが雨に弱いのは伝統や」と野村監督が自嘲するのには根拠がある。各球団の雨対策はほぼ解消されつつある。巨人は多摩川グラウンド脇に、ヤクルトは神宮に室内練習場を完備させた。在阪パ・リーグの阪急や近鉄も本拠地球場の隣に打撃練習には十分な広さの雨天練習場を作った。

片や南海は中モズの合宿所の隣に申し訳程度の室内練習場があるだけ。実際は室内練習場とは程遠く「あれはブルペンだろ。しかも1人が投げるのが精一杯の。打撃練習をしても打球がすぐネットに当たるから飛距離も分からずかえって調子を崩してしまう」と選手には不評だ。そこで球団は大阪球場内に雨天練習場を作る計画を何度も立てたが広さが十分に確保できず実現しなかった。雨が降る度に調子を狂わされて雨天中止の翌日の試合に勝てない理由の一つが室内練習場を持っていないせいでもある。ただでさえ打力に不安のある南海打線。中でも新井・相原・片平・定岡など経験の浅い若手は打ち込まないと好調を維持するのは難しい。

「打ち込みをさせたい選手が沢山いるのにこんな状態ではな…(野村監督)」先発メンバーの半数以上が打ち込みを必要としながら練習場が無い。野村監督の悩みが深刻なのもこのあたりに原因がある。1試合の勝ち負けがペナントレースの結果を大きく左右する団子状態の現在、野村監督ならずとも万全の態勢で試合に臨みたいのは当然である。「ここにきてこんな事で頭を痛めるなんて情けない。でも無い袖は振れない。どこか打ち込みが出来る場所を探さなくては」と額に皺を寄せる野村監督であった。



わてらの町の英雄ノムさんだ
野村監督故郷に帰り引っ張りダコのモテモテぶり
テレビ局がシーズンオフの企画として野村監督の里帰り番組を制作した。今は両親も亡くし生まれ育った実家もない京都府竹野郡網野町だが故郷はやはり格別だった。愛車のコンチネンタルで町を一望できる高台を訪れると「ここは30年ほど前に遠足で来たなぁ。当時は終戦間際でね、満足な弁当も無くて腹をすかしていたを思い出すよ」とポツリポツリ語った。続いて海岸へ移動すると「夏に遠泳をした。懐かしいな」と今は冬の海で白い波が岩に砕ける荒々しい風景を前に当時の様子が昨日の事のように蘇っているようだった。

このあと創立101年目を迎えた網野小学校へ向かった。当時と変わらない校門脇の椎の木や二宮金次郎の石像に懐かしさもひとしお。職員室に入ると4年生時の担任だった川戸先生(現教頭)と対面した。「当時は軍隊帰りの先生によく殴られました(野村)」と昔を蒸し返して大笑い。その後、教室に向かう途中に在校生たちに捉まって立ち往生する場面も。更には川戸先生に「講演をやってくれないか?」と予定外のお願いをされた。人前で喋るのが苦手なノムさんだが恩師の頼みを無下に断るわけにもいかず渋々承諾。

冷や汗をタラタラ流しながら講演を終えたノムさんに川戸先生が「創立記念の原稿も頼む」と追い打ち。これ以上は勘弁してくださいと丁重にお断りし学校を後にしたノムさんに一難去ってまた一難。町へ戻ると今度は顔見知りから「どうしたんや?」と次々と声をかけられた。なにしろノムさんは町の英雄であり名誉町民であるから仕方ない。しかもこれらの人達から夕食の招待が続々と。こちらも川戸先生同様に断りきれず " はしご訪問 " するはめに。普段より多忙となった里帰りだったが「やっぱり故郷はええなぁ」のノムさんだった。

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