昭和54年11月に発行された漁業高等学園十周年記念「学園のあゆみ」という冊子があります。
当時の後援会長である滝口佐左ヱ門氏が記念誌の発刊に寄せて、次のように述べています。
想えば、今から14年前になる。
昭和40年10月7日未明、アグリカン島付近に出漁中の静岡県かつお漁船は、
折からの台風29号に遭遇し、遠洋かつお船7隻と209名の乗組員が、
一瞬にして南海に貴い海の犠牲となった。
「くじけちゃいけない海の子は」の悲痛な歌声が人々の心を抉(えぐ)った。
この遭難事故を契機に漁業者の資質向上と育成が叫ばれ、
昭和42年漁民研修所の設立を見るに至ったのである。
時の県知事 竹山祐太郎 氏は、県内産業の均衡をもった発展を遂げるためには、
人手不足の解消もさることながら、幅広い視野と高度の技術を身につけた、
質の高い後継者養成こそ急務と考えれ、昭和44年2月の県議会の承認を得て、
昭和45年4月業界を挙げての協力の下、ここ焼津市に漁業高等学園の開設を見るに至った のである。
以来、学園は43年が過ぎようとしていますが、竹山知事が述べたように、
幅広い視野と高度の技術を身につけた質の高い後継者養成が、今でも変わらない学園の使命、役割と考えています。
園長室には、竹山知事が「誠実」と揮毫された書が飾られています。
アグリカン海難は、学園設置の原点になりました!

当時の後援会長である滝口佐左ヱ門氏が記念誌の発刊に寄せて、次のように述べています。
想えば、今から14年前になる。
昭和40年10月7日未明、アグリカン島付近に出漁中の静岡県かつお漁船は、
折からの台風29号に遭遇し、遠洋かつお船7隻と209名の乗組員が、
一瞬にして南海に貴い海の犠牲となった。
「くじけちゃいけない海の子は」の悲痛な歌声が人々の心を抉(えぐ)った。
この遭難事故を契機に漁業者の資質向上と育成が叫ばれ、
昭和42年漁民研修所の設立を見るに至ったのである。
時の県知事 竹山祐太郎 氏は、県内産業の均衡をもった発展を遂げるためには、
人手不足の解消もさることながら、幅広い視野と高度の技術を身につけた、
質の高い後継者養成こそ急務と考えれ、昭和44年2月の県議会の承認を得て、
昭和45年4月業界を挙げての協力の下、ここ焼津市に漁業高等学園の開設を見るに至った のである。
以来、学園は43年が過ぎようとしていますが、竹山知事が述べたように、
幅広い視野と高度の技術を身につけた質の高い後継者養成が、今でも変わらない学園の使命、役割と考えています。
園長室には、竹山知事が「誠実」と揮毫された書が飾られています。
アグリカン海難は、学園設置の原点になりました!
