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長島有里枝『「僕ら」の「女の子写真」からわたしたちのガーリーフォトへ』

2021年01月02日 09時15分46秒 | つれづれ読書録
 1990年代に若手写真家としてシーンを席巻し、2001年に木村伊兵衛賞を受賞した写真家が、当時主に男性側からなされた批評の数々に対し、当事者として異議申し立てを行った痛快な一冊。
 修士論文に加筆したものなので、あくまで学術書の体裁をなしていますが、男性批評家の無意識を完膚なきまでに批判しています。一番のターゲットは「女の子写真」なるカテゴリーをこしらえた飯沢耕太郎氏ですが、もし自分が飯沢氏だったら、写真評論の筆を折りたくなるでしょう。それぐらい徹底的に、彼の言説を丹念に追い、そこにひそむ差別的意識をえぐり出しています。

 この本の趣旨は、前書きにあたる「当事者から、異議を申し立てます。」に要約されています。
 飯沢氏は、撮影機材のコンパクト化で、シャッタースピードや絞りなどのメカニズムを身につけなくても撮れるようになったことが「女の子写真」の擡頭につながったと何度も書いていますが、それ自体が性差別的ではないかという指摘です。
 そして
「表現主体の性別は、アートの系譜にひとつのジャンルを築く根拠となりうるのか」
と、根源的な問題提起を行うのです。
 確かに(例はだれでもいいのですが)森山大道と篠山紀信と入江泰吉をひとくくりにして「男性写真家」として論じるというのは、考えられません。いや、それ以前に、石内都と笹本恒子と今道子をまとめて「女性写真家」として論じることだってありえないでしょう。

 この前書きは次の文でしめくくられています。

本書は写真を撮ることや、観ることが好きなすべての人々に向けて書かれている。わたしたちの持ってしかるべき自尊心が、特定のジェンダーだからという理由で傷つくことがもう無いように、という願いがわたしのなかにあり、本書に込めたその思いが必要な人に届けば、これ以上嬉しいことはない。


 熱いよね。
 著者の本気度がわかります。

 さて、本文では、さまざまな論点にわたって、1990年代につくられた「女の子写真ブーム」について語られていきます。写真を撮ることや見ることが好きな人はできれば、論じる人はかならず読んでほしい一冊なので、そのすべてを追うことはここではしませんが、最も多くページが割かれているのは、長島有里枝自身とHIROMIXです(同時に木村伊兵衛賞を受けた蜷川実花や、あるいはやはり同時代に登場した川内倫子については、あまり振れられていません)。
 筆者が、この論点は鋭いなと思ったのは、先に挙げた
女性だからといってメカに弱いとか決めつけんじゃねーよ」(乱暴な要約ですんません)
のほかに、飯沢耕太郎があまりに「日本の写真史の流れ」だけに女性写真家の登場を位置づけしすぎているのではないか、という点。つまり、長島有里枝やHIROMIX が出てくる背景には、当然ほかの文化であるポップミュージックやファインアートなどの潮流もあるのに、飯沢氏はそれをまったく無視しているという点(これは、ジェンダーとか以前の話だよな)。
 もう一つ重要なのは、飯沢氏が男性原理だの女性原理だのを持ち出して女性写真家を称揚するのは、どうも、よかれと思ってしているのではないかということ。
 しかし、批評される側からすれば
「女性という共通点だけで、なんでもかんでも一緒くたにすんじゃねーよ」(乱暴な要約ですんません)
という感想がまず出てくるのではないでしょうか。
 おじさんの善意は、余計なお世話なのです。

 そして、8章では、当時のヘアヌード写真ブームと「女の子写真」ブームが軌を一にしていることを掘り下げ、次のように結論づけています。


その意味で、「ガーリーフォト」の担い手によるセルフ・ポートレイトは社会の“視線”に対するプロテストだったのであり、ヌードという写真表現に内包された暴力と性差別を問い直すフェミニズム的実践であったといえるのである。
(336頁)
 


 というわけで、繰り返しになりますが、とてもためになる本でした。
 少なくとも、写真について何か文章をこれから書いていこうという人は「読んでません」では済まされない一冊であることは間違いないと思います。
 また、とくに男性は、自らの内なる無意識をあらためて知るためにも、読んでおいて損のない一冊です。そのすべての見方に賛成せよというのではないにせよ、気づかないうちに「時代遅れの見方をしてしまう」ことは、ままあるからです(白状すると、筆者も「女性ならではの細やかな感性」なんて書いたことが昔はありました…)。

 なお、筆者は、たぶん世間一般の人と順番が逆で、この本の後に、サイードの名著『オリエンタリズム』を読んだのですが、オリエンタリズムの構図と、「女の子写真」をめぐる言説の構図があまりにも似通っているので、ほんとうにびっくりしました(これも雑に要約すると、まなざしの権力性と、対象をちゃんと見ないで十把一絡げにしてしまうあり方)。
 ただし、いまはマルクスが『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』(サイードが『オリエンタリズム』の題辞に引用しています)で指摘したような、フランスの農民が物言えぬ存在であり代弁者を探しているような時代ではありません。はっきり言って、飯沢氏が、女性写真家の作品を題材にして何かを言うことは自由です(これも乱暴な言い方ですが、ひっきょう、批評とはそういうものです)。それと同様に、女性写真家が「いや、その見方は違う。人の作品を材料にして言いたいこと言っても、そうじゃないから」と言い返すことも、もちろん自由なのです。


 大福書林。3300円。


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