
札幌市南区にある石山緑地は、石切り場の跡を、市と彫刻家集団CINQ(サンク)がよみがえらせた、スケールの大きな公園です。
CINQ のメンバーは札幌の彫刻家5人。その一人として、取材に出向いた筆者にあれこれ説明してくれたのが國松明日香さんでした。石山緑地の開園と筆者が文化部に異動したのが同じ1996年なので、同年だったはずです。
話の内容は覚えていないのですが、石を細工する喧騒やほこりが現場に満ちていました。
最近で記憶に残っているのは、冒頭画像の「大地」の取材です。
オホーツク管内遠軽町白滝の広いゲートボール場の一角に立っている大作です。
このとき筆者は遠軽にいて、オホーツク面に記事を書くことになったので、札幌の國松さんに電話取材しました。
突然の電話だったにもかかわらず、快くお話に応じていただきました。
近年は、南区がアートでまちおこしに取り組む「ミナミナク・アートプロジェクト 南区アートシーズン」でも、代表を務めていました。
國松さんは実は中央区民でしたが、札幌市立高専教授(南区)を長く務めていて、白羽の矢が立ったのでした。
少なくとも筆者が見聞きしている限り、実に穏やかな人柄のアーティストでした。
いつも柔和な笑顔を浮かべて優しい口調で話しておられたという印象です。
人当たりの良さについて言うと
「ぼくは八方美人なところがあるから…」
と謙遜気味に話すところがまた、控えめな人柄をあらわしていました。
昨年2月に開かれたトークイベントではさまざまな問題提起や発言が相次いでいましたが、明日香さんだからこそ、話し合いのかじ取りができたのだろうと推察します。
最後に会ったのは昨年10月、ほくほく札幌ビルにらいらっく・ぎゃらりいが移転オープンするのをきっかけに開かれた2人展「國松明日香展 with Kelly Detweiler 」でした。
そのときは、かなりの頻度で在廊しておられ、お元気だったので、訃報を聞いたときには耳を疑いました。
77歳。
まだ新作を作ってほしかったです。。
3月8日、豊平区の北海斎場で葬儀が営まれました。
妻に車で送ってもらったのですが、国道36号が、美園から豊平に入るあたりから道路が渋滞しはじめました。
どうやら斎場を訪れる車が詰まっていたようです。それほど多くの人が会場に駆けつけていました。焼香を終えて遺族にあいさつするまで、長い列ができ、20分以上待つほどでした。
教え子や公職の多さ、交友関係の広さを物語っていたのだと思います。たとえば、札幌彫刻美術館友の会の会報「いずみ」の題字を書いたのも明日香さんでした。
会場に並んだ花輪の多さにも驚きました。
道内の美術界が失ったものは大きいと思います。
あらためて、ご冥福をお祈りいたします。
CINQ のメンバーは札幌の彫刻家5人。その一人として、取材に出向いた筆者にあれこれ説明してくれたのが國松明日香さんでした。石山緑地の開園と筆者が文化部に異動したのが同じ1996年なので、同年だったはずです。
話の内容は覚えていないのですが、石を細工する喧騒やほこりが現場に満ちていました。
最近で記憶に残っているのは、冒頭画像の「大地」の取材です。
オホーツク管内遠軽町白滝の広いゲートボール場の一角に立っている大作です。
このとき筆者は遠軽にいて、オホーツク面に記事を書くことになったので、札幌の國松さんに電話取材しました。
突然の電話だったにもかかわらず、快くお話に応じていただきました。
近年は、南区がアートでまちおこしに取り組む「ミナミナク・アートプロジェクト 南区アートシーズン」でも、代表を務めていました。
國松さんは実は中央区民でしたが、札幌市立高専教授(南区)を長く務めていて、白羽の矢が立ったのでした。
少なくとも筆者が見聞きしている限り、実に穏やかな人柄のアーティストでした。
いつも柔和な笑顔を浮かべて優しい口調で話しておられたという印象です。
人当たりの良さについて言うと
「ぼくは八方美人なところがあるから…」
と謙遜気味に話すところがまた、控えめな人柄をあらわしていました。
昨年2月に開かれたトークイベントではさまざまな問題提起や発言が相次いでいましたが、明日香さんだからこそ、話し合いのかじ取りができたのだろうと推察します。
最後に会ったのは昨年10月、ほくほく札幌ビルにらいらっく・ぎゃらりいが移転オープンするのをきっかけに開かれた2人展「國松明日香展 with Kelly Detweiler 」でした。
そのときは、かなりの頻度で在廊しておられ、お元気だったので、訃報を聞いたときには耳を疑いました。
77歳。
まだ新作を作ってほしかったです。。
3月8日、豊平区の北海斎場で葬儀が営まれました。
妻に車で送ってもらったのですが、国道36号が、美園から豊平に入るあたりから道路が渋滞しはじめました。
どうやら斎場を訪れる車が詰まっていたようです。それほど多くの人が会場に駆けつけていました。焼香を終えて遺族にあいさつするまで、長い列ができ、20分以上待つほどでした。
教え子や公職の多さ、交友関係の広さを物語っていたのだと思います。たとえば、札幌彫刻美術館友の会の会報「いずみ」の題字を書いたのも明日香さんでした。
会場に並んだ花輪の多さにも驚きました。
道内の美術界が失ったものは大きいと思います。
あらためて、ご冥福をお祈りいたします。
蛇足ながら、昨年の胆振管内白老町の個展会場でインタビューのビデオを見て、独特の作風が生まれた背景を初めて知りました。ただ2005年の時点で筆者は
「彫刻は、一般的には量塊性が求められるものですが、國松さんは一般的な量塊性に依ることなく空間を成り立たせようという、ほかの人があまりやらないことをやろうとしているように、筆者には見受けられます。」
と書いていて、多少はその核心に触れていたのかなと思いました。