まほろば自然博物館

つれづれに、瀬戸のまほろばから自然の様子や民俗・歴史や見聞きしたおはなしをしたいと思います。

春めいて 挨拶はずむ 寺の庭

2017年03月20日 | 自然ありのままに

 さぬき市地方は、はじめ高気圧に覆われて晴れていたが、気圧の谷や湿った空気の影響で次第に曇り、夜遅くには雨が降るらしい。気温は3.8度から14.3度、湿度は98%から50%、風は0mから4mの東北東の風が少しばかり。明日の21日は、低気圧や前線の影響で雨が降るけれど、午後は冬型の気圧配置となって曇る見込みらしい。

 

 子供の頃には、お彼岸の中日には、近郷近在の人たちに混じって、大窪寺に行くのが年に二回の楽しみだった。我が家の横の山道を町内から歩いてきた子供や大人たちがぞろぞろと、蟻の行列みたいに歩いてくる。

 

 この赤い線のように、谷や尾根、たんぼ道を歩いて「山越え」で大窪寺に向かうのだ。親戚の子や友人知人らを待っていて、一緒に大窪寺まで歩くのであった。

 

 昭和30年台から40年頃には境内参道にたくさんの露店が出ていて、十徳ナイフとか拡大縮小器とかの変わったおもちゃがあるのが楽しみだった。50円玉を一個握りしめて山道を歩いたものだった。わが家からだと3時間も4時間も掛かって歩いたように思う。

 

 朝の7時過ぎにわが家を出て、大窪寺に着くのはお昼前。弁当を持って行ったんだろうか、その頃に、食べるものを買った記憶はない。お昼を食べて、お昼過ぎにお寺を出て、遊びながらわが家に帰り着くのは決まって夕方だった。帰り道は決まっていなくて、緑の線のように歩いて帰ったこともあった。

 

 さすがに高校生になった頃には行かなくなったのだが、気がつけば、そういう露店は少なくなり、植木屋さんが出ているばかりになって、いつしかそのお店も来なくなった。そして、近年は、こういう「柴灯大護摩供養(さいとうおおごまくよう)」というものが行われるようになった。四国内の霊峰や修験場で修行している山伏たちが集まって弘法大師の恩を報い、徳を慕って供養を営む八百年余りの伝統行事らしい。護摩焚きの後は、火渡りの式が行われる。この護摩供養は年に2回開催され、春は春分の日、夏は8月10日の山の日に行われる。

 

 修験道(しゅげんどう)は、山へ籠もって厳しい修行を行うことにより、悟りを得ることを目的とする日本古来の山岳信仰が仏教に取り入れられた日本独特の混淆宗教である。修験宗ともいう。修験道の実践者を修験者または山伏という。今回は若い青年が混じっていた。衣は「鈴懸(すずかけ)」といい、「結袈裟(ゆいげさ)をつけ、法螺貝を持つ。腕には「最多角念珠(いらたかねんじゅ)」を巻いている。そして、腰には「手錫杖」や「檜扇(ひせん)」、「柴打ち」という刀を差している。今日は「般若心経」と不動明王真言を称えていた。

 

 腰の左にあるオレンジ色のものは「走縄」というもので、行者入峰の際の補助的な物であるが、今は修行者の無明を縛する不動明王の剣索の意とされている。新客は十六尺、度衆は二十一尺、先達は三十七尺である。これを左の腰に束ねてぶら下げている。おしりの部分にあるのは、「引敷(ひっしき)」というもので、入峰修行の際の座具であるところの腰に当てる敷き皮のことである。

 

 またこの引敷は何の動物の物であっても獅子の毛皮であると観念する。何故なら畜類は無明に例えられ、その畜類の王の上に座すという事で行者は仏であるから凡聖不二(煩悩即菩提)の極地を表しているのである。また引敷の引くとは、衆生を法界に引導するという意味も含まれている。修験でいう所の獅子とは、鹿の事であり、これは縁覚の乗り物だからである。

 

 この人が大窪寺の住職さんで、今日の「導師」を勤めている。この方が着けている袈裟は「梵天袈裟」という。

 

 この人の袈裟を「輪宝袈裟」とも「結(ゆい)袈裟」とも呼ぶ。額につけている黒いものは「頭襟(ときん)」といい、大日如来の「宝冠」を意味しているという。色が黒いのは「無明」を意味し、12本の筋は、「十二因縁」を表しているのだという。腕には「最多角念珠(いらたかねんじゅ)」を巻いている。

 

 願文を奉読する院代の光容師。

 

 この大護摩供養で、お遍路さんが収めた金剛杖や納め札、祈祷札などが「お焚き上げ」される。

 

 今日の掲示板はこれ。「病は口から入り 禍は口から出る」というもの。病気は口から、はいる食べ物や飲み物が原因で起こり、禍は口から出る ことばが原因となって起こされる、ことが多いということ。 人の口という重要な部分についての言葉で、口をしっかり 慎むことによって、悪いことが起きないようにする、いましめの言葉のようです。 食べ物などは、食中毒、栄養素、食べすぎに気をつけて口の中に入れ、しゃべる時も余計なことは言わないように 気をつけて言葉を発するべきだということのようである。

 

じゃぁ、また、明日、会えたらいいね。


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