さぬき市地方は、高気圧に覆われて晴れていたが、気圧の谷の接近で夕方から曇る見込みらしい。気温は14.7度から22.7度、湿度は90%から52%、風は1mから2mの北西の風が少しばかり。明日の15日は、気圧の谷の影響で曇るが、昼前からは高気圧に覆われて晴れる見込みなのだとか。
今日の気圧は1015ヘクトパスカル、湿度は91%、気温は18度、朝の間は呼吸が苦しかったが、午後からは普通になっていた。
今度の日曜日の21日に、観光ガイド「志度寺班」が主催する「海士の玉取伝説を歩く」が行われる予定。で、勉強のために随行したいのだが、私は歩けないので車でついていくことにした。ところが、この案内に出ている「真珠島」というのを知らない。
確か、初期の研修で、ここに案内されて山の上のお堂でお経を読んだような記憶が残るが、こんな陸地の中に「島」なんてあったんだろうか・・・と、不思議な感じ。そこで、「現地に行こう」「現物にさわろう」ということで出かけてみた。
タダノとかの工業団地の中に、突然、このような小山が現れた。
そうそう、小雨の降る中、マイクロバスの送迎で、ここに来て、この石段を登った記憶がある。これが「真珠島」か・・・。
こんな看板があった。
これが戦前の海水浴場だったころの写真らしい。こうしてみれば、まだ、島だった様子がわかる。
これが海岸線の渚だった部分らしい。藤原鎌足の女百光が、唐の高宗皇帝の妃となり、奈良の興福寺に奉納のため、3個の宝を送った。そのうち面向不背の玉が讃岐志度の沖で竜神のために奪われたので、淡海公藤原不比等は都から志度にきて、海女に命じて海中を探らせたが見当たらない。その後、純情の海女と恋仲になり一子が生まれた。それが藤原北家の房前だという。
で、これが「面向不背の玉」である。現在は、琵琶湖北部に浮かぶ竹生島、宝巌寺にあって、志度寺にあったものだとされている。玉の中には「釈迦三尊像」があり、どちらに玉を回しても、必ずこちらを向いていて背中を見せないという。この赤い光はデジカメの光である。
竜神に奪われた面向不背の玉を海女は取り返し、乳房を切り裂いて、その体内に玉を隠して竜神から逃げたが、力尽きて海女は亡くなってしまう。そんな海女を引き上げて供養したのが、この真珠島だったというわけらしい。
藤原不比等は、海女の真情に心を打たれ、海辺に墓をたて堂宇を建立して「死度寺」とした。不比等は心を残しながらも、宝珠と共に房前を伴い、奈良の都へ帰って行った。それから13年後、持統7年藤原北家の祖となった房前は、僧行基を伴って志度浦を訪れ、母供養のため千基の石塔を建立したという。今も、その千基の石塔の一部といわれる石塔20基が残っている。
これが志度寺の書院奥にある「無染庭(むせんてい)」で、この玉取伝説をテーマにして作庭されたもので、七つの石を配置してあるが、どこから見ても6個か5個にしか見えない。七つ全部は見えない配置になっているそうな。作ったのは「重森三玲(しげもりみれい)」で1962年の作庭である。
今日の掲示板はこれ。「いくら長生きしても幸せのド真ん中に居ても おかげさまが見えなけりゃ一生不幸」という、いつもの赤松先生のお寺の掲示板から。
夏がきたら 冬がええといい
冬になりゃ 夏がええという
太りゃ やせたいといい
やせりゃ 太りたいという
忙しけりゃ 暇になりたいといい
暇になりゃ 忙しい方がええという
かりた傘も 雨があがればじゃま
金を持ったら 古びた女房もじゃま
所帯もったら 親さえじゃま
義理も 人情も 愛情も 両親も
肉親の情も あればこその 世の中となる
誰も彼も どこもかしこも
かさかさ かわききった あじけない このころ
衣食住は昔に比べりゃ 天国やが
上を見ては 不平不満のあけくれ
隣を眺めては グチばっかり
なんで 自分を 見つめないのか
静かに 考えてみるがええ
一体 自分てなんやろうか
親のおかげ 先生のおかげ 世間のおかげ
おかげの固まりが 自分やないか
いくら長ごう生きても
幸せのド真ん中に居ても
おかげさまが 見えなけりゃ
一生 不幸
「おかげさま」
(かみどころ・じゅうすけ)
じゃぁ、また、明日、会えたら、いいね。