まほろば自然博物館

つれづれに、瀬戸のまほろばから自然の様子や民俗・歴史や見聞きしたおはなしをしたいと思います。

梅雨寒で今年は蝉が啼かぬらし

2020年07月16日 | 自然ありのままに

 さぬき市地方は前線や湿った空気の影響で概ね曇っていた。気温は21.5度から27.6度、湿度は86%から70%、風は1mから2mの東北東の風が少しばかり。明日の17日のさぬき市地方は、前線や湿った空気の影響で曇る見込みらしい。

 

  102/54/79 36.2c-96% 59.8Kg 25.1c-71%-1003hPa 体重がまた微増している。特に飲み物が増えたとか食べ物が増えたとかという話はない。

 

 今朝の朝食である。特にこれという話題もない。

 

 で、今日も植木屋さんをやっていた。今日は残った残りの梅の木1本である。ここは木の根元に「ロータス・ポンド」という蓮池があって足場が悪い。ここにはメダカも泳いでいる。

 

ここに何かがいる・・・。

 

 近づいてみた・・・。

 

 私の装備である。ノコが二丁とハサミが1本である。これで充分足りる。

 

 あちらこちらと回ってみたり、降りたり登ったりしながら枝を切り落としていく。

 

 で、梅の木の枝切りは終わったが、この頃になると気温も上昇してきて汗が噴き出してくる。

 

 最後の「サンシュユ」サンシュユ(山茱萸、学名:Cornus officinalis Sieb. et Zucc.)は、ミズキ目ミズキ科の落葉小高木。中国原産で、春先に葉が出る前に黄色い花を咲かせ、秋にグミに似た赤い実をつける。別名でハルコガネバナ、アキサンゴ、ヤマグミとも呼ばれる。季語は春。これの枝切りに掛かったが、暑くなったのと、時間が来た(9時)ので今日はここまで。朝の7時半から9時までが限度だ。

 

 シャワーを浴びたが、こういうかすり傷が両腕にたくさん・・・。か弱くなったもんだ。着て居たものを洗濯して干した。

 

 今日のお昼はおそうめん。でも、普通のおそうめんでは面白くないので、今日は、「アサリとわかめのチーズカレーそうめん」になった。右はいつもの野菜サラダ付き。チーズカレーうどんがあるならば、チーズカレーそうめんでもいいじゃないか・・・という発想である。

 

 このカレーうどんは、マイルドで新鮮な味がしたが、我が家の「五十崎そうめん・我輩ハ麺デアル」は100gと言いながら量が多いと思う。それだから、どんぶりからカレーがあふれそうになったし、食べても食べても量が減らないのには難儀した。おかげでおなかはパンパンになった。

 

 ふと、今日が7月16日であることを思い出した。これは昨年の画像で、今年は開帳は16、17日とも10:00~15:00。拝観料500円。両日は空海が弘法大師号を贈られて今年が1100年を記念して大師堂の弘法大師像も開帳し、恒例となっている香川県有形文化財の閻魔(えんま)堂と奪衣婆(だつえば)堂の公開も行っていた。

 

 これが、普段見ることができない国指定重要文化財の本尊「十一面観音立像」で、16日、17日の両日に限って開帳する。開帳は志度寺に伝わる「海女の玉取り縁起」にちなみ、藤原不比等の妻である海女の命日とされる旧暦6月16日に合わせて毎年実施。本尊は像高146センチのヒノキ材の一木造りで、脇侍の不動明王像、毘沙門天像と共に国の重要文化財に指定されている。(近年は撮影不可)

 

 志度寺の縁起によると、志度寺の閻魔大王は、本尊の十一面観音と同体とされ、頭上に十一面の仏面を頂くお姿で、極楽往生・蘇生の閻魔とされている。閻魔堂に安置されている閻魔大王像は、室町時代の中頃に、等身大の像を作るように命じて自ら体を採寸して与え、「弥阿」という尼僧を蘇生させたと伝わる。閻魔大王の顔は、参拝する人のその時々の心の在りようによって、怖い顔に見えたり優しい顔に見えたりすると言われている。

 

 奪衣婆(だつえば)は、三途川(葬頭河)で亡者の衣服を剥ぎ取る老婆の鬼。脱衣婆、葬頭河婆(そうづかば)、正塚婆(しょうづかのばば)姥神(うばがみ)、優婆尊(うばそん)とも言う。 多くの地獄絵図に登場する奪衣婆は、胸元をはだけた容貌魁偉な老婆として描かれている。日本の仏教では、人が死んだ後に最初に出会う冥界の官吏が奪衣婆とされており、奪衣婆は盗業を戒めるために盗人の両手の指を折り、亡者の衣服を剥ぎ取る。剥ぎ取った衣類は懸衣翁という老爺の鬼によって川の畔に立つ衣領樹という大樹にかけられる。衣領樹に掛けた亡者の衣の重さにはその者の生前の業が現れ、その重さによって死後の処遇を決めるとされる。

 

 今日の掲示板はこれ。「針を踏んで痛む足が蟻をつぶして平気だ」というもの。いつもの赤松先生のお寺にあったものだと記憶をしている。「クギを踏んで痛む足が、アリを潰して平気で、身勝手な被害者」というものが出拠だと思う。「アリを踏まずになんて、そんなことをいちいち気にしていたら 歩けない。それは仕方がないことだ」と思うものだが、その「仕方がない」「しょうがない」という自分の思いこそが、自分を正当化し、自分を中心にしてしか 物事を受け止めていない自分の身勝手さの象徴ではないかと言うているのである。人が生きるということは、多くのつながりの中に生きていて、他の人や動植物、自然にも迷惑をかけながら、しかも傷つけながら生きているのだということ、そういう自分の身の事実を見つめ直すことの大切さを噛みしめたいものである。

 

じゃぁ、また、明日、逢えたら、いいね。


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