武田光弘画楽多製作日記

暇をもてあそび造形してます。作品として形としてまとめたものなどを見ていただきたい
と思っています。

中国妖気伝・西湖の女

2008年04月20日 | Weblog
南宋の栄えていた時代のことであります。
ある男が酔いつぶれて西湖の端で眠りこんだ。酔いが覚めた頃、白衣をまとった女が近づいてきた。女はたいそうな美貌で、男は情事におぼれ、熱病にかかったようにみるみるやせてきた。知り合いの男は、それは草木の妖怪だ。銭塘江の向こうににげろ。妖怪は銭塘江は越えれないといった。男はよろよろと銭塘江を渡し舟でこえた。女は本性をあらわし、目をつりあげ、口はさけ、大声で後をおったが逃がしてしまった。三年たってもういないだろうと男は帰ってきたが、妖怪はまっており
男は妖怪のなすがまま・・・・・そして死んだ。

西湖には行ったことがあるが、底にドロがたまってとりさる作業をしていた。

雁の童子

2008年04月19日 | Weblog
これも宮澤賢治作の物語である。
西域に題材をとったうちのひとつです。「がん」と最初は読んでいたのですが、「かり」だと後で気がつきました。

西域の架空の「ルサ」?が舞台です。悲しくもある砂漠の町の物語を「石」に刻まれたように表わしてみました。

熊谷直実

2008年04月18日 | Weblog
庭のクマガイソウが咲いた。
昔1184年、一の谷の合戦で熊谷直実は平敦盛と合いまみれた。組み合って
敦盛をおさえつけた直実は、兜の下から現れたわが息子と同じような敦盛に驚ろいた。しかし、ここは戦場。直実の刃は敦盛の首に・・・・・・・・・・
そんなとこから、このらんの花のやさしい感じの方にアツモリソウ、力強い感じの方にクマガイソウとつけました。

両方ともらん科です。

ちんちんてつびん

2008年04月17日 | Weblog
なかなか最近ではチンチンと音たてる姿は見れないが、南部が東北の方と思うが、南部鉄瓶が有名かな。
鋳鉄とか炭とか鋳砂とか粘土とか原料と材料がそろっているから伝統作品ができる。
それと、それを続ける人がいることが最も大事なことだろう。こまかい鋳型をつくったり、砂塵とか舞い上がる工程があったりして、簡単な仕事ではない。年期のいる仕事だ。
 
伝統工芸はいずれもそういうものだ。

カハワッパ・・・・

2008年04月16日 | Weblog
とは河童の約である。
きゅうりを河童とも呼ぶ。
河童とくれば芥川龍之介を連想する。
水陸両性。他の動物を水の中に引き入れ、血を吸うという。

「屁の河童」とは、そんなこと、どうってことないさということ。
人生訓。なにごとも、そういう気分でやらなきゃ。

西域への旅・西遊記

2008年04月15日 | Weblog
そもそも話は西暦629年・・・・長安の僧、俗に三蔵法師が西に向かって仏教の聖地に旅立ちます。それが「西遊記」のモデルになって、孫悟空など登場するのですが、特に考えもなく大きな作品に彫ったのが棚から出てきました。
まだ、がんばれると思っているのに、若いころのいきおいも感じてしまいました。あーーーーあ。

狼森と笊森、盗森・・・2

2008年04月14日 | Weblog
森をこんもりと彫って見た。
あんまり良い出来でないなと思いつつ写真を撮った。

今日はマレットゴルフに行った。成績は最悪だった。そこの森はまだ裸木で芽吹きもまだだった。山もまだ眠っている。「山笑う」が春の季語であるというが、まだここらの山は笑っていない。

遥かな西域

2008年04月13日 | Weblog
うるさいバックの文字をいれかえてみました。

宮澤賢治は熱心な法華経の信者で、仏教の生まれた西域に関心があったようです。この物語もそのあらわれと言われてます。

中国の西方の出来事が最近ニュースなっていますが、報道が制限されたりすると真実が伝わりません。

北守将軍と三人兄弟の医者

2008年04月12日 | Weblog
宮澤賢治の西域を舞台にした作品である。
文字を入れたら画面がにぎやかになってしまった。

ソンバーユー将軍は三十年も国境の空気の乾いた砂漠の中で重いつとめを肩に負い
一度も馬を下りないため馬とひとつになってしまった。・・・・・・
という物語である。

八坂一の瀬の庚申堂

2008年04月11日 | Weblog
この版画は今は大町市に合併したが、その前の八坂村の風景である。八坂というくらいだから、坂でいっぱいである。山村留学がはじまった村でもある。
小さな庚申堂だが石仏に囲まれ、いい雰囲気を持っている。以前はトタン葺きでないはずだ。
その昔、大町市に住む芥川賞作家丸山健二氏が八坂村を訪れた時、こどもにカメラを向けても誰もVの字を出さないことに驚いたとエッセイに書いてあった。私が訪れた時は、やたらにVを出した。それでも私は4年この村にお世話になったが、純朴で素直なところが十分残っている子どもたちが多かった。
その子たちは、そろそろ三十後半になる。