風景や花のビデオ写真を見ることは楽しいし、癒しになる。けれども人物となると単純にそういうわけにはいかない。そして、インパクトとなると人物のほうは絶大だ。それほどに、人の映った映像の持つ力は大きい。現在のような映像技術の無い時代、それを実現するのは演劇だった。ギリシャでもローマでも、そこここに劇場が建設されて演劇が上演されていたし、ロンドン近郊にもローマ時代の流れをくむ小さな円形劇場があってはるか昔、ローマからみればこんな辺境でもギリシャ悲劇が上演されていたことに感慨をもったことがあった。
一方、見ることと見られることあるいは演じることは全く違う。映像を伴ったコミュニケーションに対して抱くのはそのための準備をしなければならない、ということだ。ありのままの自分、飾らない自分を見せるというのは、単に何もしないということではなく、そうしようという意思があるはずだ。文字や音声を伝える以上に、自分の姿を他人に表すということは、どのように自分を相手に伝えるか、ということが大きく問われる。かつてはそれほど意識しなかったが、最近では、伝えること、表現することに負担感、苦痛をおぼえるようになった。
高校時代、演劇をやっている級友をみて、芸術として評価するというより、そこに不自然さ、わざとらしさを感じ言いようのない抵抗感を持った。普通の映像や舞台では、観客は、演じている人の日常を知らないから、演じられている役に感情移入できる。しかし、もし、日常の姿を知っていたら、それと演じている役の間の断絶を、例えば、彼女は表情も声も普段はこんな人ではない、といった風に先入観が感情移入を妨げてしまう。
しかし、人間はある意味でいつも演技をしているのではないかと思う。子供のころ、親に「堂々としていなさい」と言われれば、居住まいを正して普段(のゆるい姿勢)より背筋を伸ばして見せたいう記憶があるし、仕事をしていれば、特に面談時には交渉内容や相手が持つ印象について意識したうえで表情や声を作ろうとしていたのは当然だと思っていた。
だから、ビデオ通話(TV電話)になったからと言って、それほど肩肘をはることもないのだが、そこに映るであろう自分の顔や姿を考えると負担感を徐々に重く感じるようになってきたのは年齢のせいか。元気そうだ、というのは顔を観ればよくわかる、ということはわかってしまうということでもある。先日、10年くらい音信不通だったかつての部下からご機嫌伺の突然のメールがあり、メールの最後に、「良かったらSkypeかLINEでビデオ通話をしませんか」とあった。自分の姿を晒すことには、言ったような抵抗がわずかにあったのでそれには答えずに差しさわりの無いことを書いて返事をしておいたらその後は誘いもない。彼にとっては自宅に籠って人との接触を図ろうとして声をかけた多くの知り合いの中の一人だったのだろうか。
キンポウゲ科のラナンキュラスが鉢の中で花を付けた。
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