少年カメラ・クラブ

子供心を失わない大人であり続けたいと思います。

定点観測

2006-03-10 22:07:50 | 哲学
勤務している会社では、仕事で関わりのある社内の他の人がどのように自分を見ているかを箇条書きにした「行動診断」という情報が人事部から定期的に送られてくる。10~20個程度の項目に対して点数をつけたものである。「ちゃんと会社の目的に向かって仕事をしているか」とか、「部下をきちんと育成しているか」とか、まあそんな内容である。

私は(内緒だが)、今までこういう情報をほとんど真面目に見た事がなかった。だいたい、他人にどう見られているかなんて関係ないと思っていた。そこに記載してある抽象的なことがらに関して、3.5とか4.0とかそういう数値を当てはめてな何になるのかとさえ思っていた。自分のことは自分が一番わかっている、人にわかってたまるものかとも思っていた。確かに、その数値は何の単位もなく極めて主観的に他の人がつけた定性的なデータに過ぎない。言ってみれば全く「科学的」ではないのである。その数値の裏付けを証明することさえできない。まっ、その程度のものである。

しかし、最近その考えに変化が生まれてきた。それはこれらの数値を絶対値として見るのではなく、相対的な変化として捉えるという視点である。つまり、ある項目の値が3か4かということは大した問題ではないのだが、去年3だった値が今年は2に変化したとしたらどうだろう。絶対値としての意味はなくても、同じものさしの上で測った数値が減少(あるいは増加)したのである。そして、その変化は私を取り巻く人々の私に対する見方の総体としてもたらされたのである。つまり、この変化は何らかの変化が私の中に起こりつつあることの兆候ではないかと考えるのは、あながち意味のないことではあるまい。まあ、周りの人が全体としてある方向にシフトしてしまい、その結果私の行動が周りから見ると変化したように見えるということもあるかもしれないから、その意味では私の変化の兆候だと断言はできないが、とにかく周りの人たちとの相対的な位置関係に変化が生まれたことは間違いない。

定点観測という言葉がある。これは、例えば温度や交通量やそういう数値を、同じ条件で同じ場所でずっと計測し続けることを指す。必ずしも科学的な計測ではなくても、都市の生活の移り変わりなどを長い期間にわたって記録し続けることなども定点観測の一つといえるだろう。このような計測や記録は、そのデータ一つ一つをとってみても、その情報の背後にある意味というのはなかなか見えてこない。しかし、それが長期間にわたる蓄積になったとき、時代の変化や地球規模の環境変化などのような重要な意味が浮かび上がってくるのである。

そんなことを考え始めたら、冒頭の行動診断の過去のデータを見たくなってきたのだ。果して自分はどのように変化しつつあるのかが気になりはじめたのだ。それは、自分自身さえも気がつかない変化なのかもしれない。もしかすると自分自身の変化というのを一番わからないのは、当の本人なのかもしれないという気もしてきた。なんと言っても基準になるベンチマークがないのだ。それは文字通り主観的な観測に過ぎないのだから。もしかすると内なる自分を知るためには、実は周りを見るしかないのかもしれない。