難聴者の生活

難聴者の日々の生活から、人工内耳など難聴者のコミュニケーション、聴覚障害者の制度改革について語る。

新聞記事「無償の指導の弱点は?」から

2006年09月03日 22時12分43秒 | 要約筆記事業
060728_0846~001.jpg少年サッカーの地域指導者の問題について、ボランティアの指導者の問題点を指摘する新聞記事を読んだ。「無償のボランティア指導は確かに崇高な活動」だが、「ボランティアは仕事ではありませんから、義務や責任といったことに関して弱い部分も」あり、「ボランティアの恩恵を受けている側としては、あくまでもボランティア指導者の意思と都合に百パーセント依存するしかなくその行為に感謝こそしても、指導内容に厳しい要求をつきつけることはなかなかできません」。

要約筆記も、ボランティアで提供されていると、それが無償あるいはわずかな謝金によって行われていることを知っている利用者としては、もっとキチンと書 いて欲しい、利用者を主体者として厚かって欲しいと思っても、「してもらっている」立場では言えないのと似ていないだろうか。
要約筆記者派遣サービスは、市町村が実施しなければならない事業になった。行政の責務ということは、それは利用者(市民)がそのコミュニケーションの保障を受ける権利を持っているからだ。これが、要約筆記が社会福祉サービスになったということだ。
要約筆記が、行政の提供する福祉サービスとして提供されるためには、要約筆記奉仕員というボランティアに依拠するのではなく、専門性のある要約筆記者によって行われなければならないということだ。
コミュニケーション支援事業は、手話通訳と要約筆記者を派遣する事業だ。要約筆記者には要約筆記奉仕員が含まれるとされていても、行政が責任あるサービスを提供する以上、要約筆記奉仕員をそのまま派遣に出すことは出来ないだろう。なぜなら、役割が全く違うからだ。
60時間の講習を受けた要約筆記奉仕員であっても、社会福祉サービスとして提供される事業を担うこと、中途失聴・難聴者のコミュニケーションの権利の保障として実施されることを学んでいなければ、要約筆記者と名乗ることは出来ない。要約筆記者の「者」とは、社会福祉サービスとしての要約筆記できる人という意味だからだ。単に技術的にできるという意味ではない。

このことは、これまで要約筆記奉仕員の担ってきたことを否定したりするものではなく、逆にボランティアでありながら福祉サービスの責任を果たさなければならなかったことを感謝とともに今後とも新しい役割を担って頂きたいということだ。
難聴者、中途失聴者は自らの権利を守ることの出来る要約筆記者の派遣が実現できるように、行政にも要約筆記をして来た人にも、きちんと要求しなければならない。自らの権利に関わる問題だ。

ラビット 記


会社の近くの南瓜の花



「老会話」の必要性

2006年09月03日 12時54分49秒 | 生活
060827_1635~001.jpg今朝の新聞の見出しに「86歳、90歳夫を刺殺」とあり、老老介護の悲劇かと記事を読み進めると、お互いに耳が遠くなり大声で言い合っているうちにカッとなってというようなことが書いてあり、ショックだった。
聞こえる家族の中に難聴の高齢者がいる場合は、聞こえる家族がコミュニケーションに工夫したりすればよいが、難聴の高齢者どおしの家庭では筆談すれば良いというだけではすまないだろう。確かに重要な問題だ。

最近、東京都中途失聴・難聴者協会で講演した http://blog.p-work.net/index.php?itemid=199 梶原しげるさんが「老会話親子からビジネスまで、どう話す?どう接する?」(東洋経済新報社)を出している。

梶原しげるwebの左側の「お仕事の様子その2」
http://www.spgroup.co.jp/kaji/kaji_index.html

「老会話」は著者の造語だろうが、高齢化社会では聞き取りにくくなった高齢者に伝わる会話法の方が英会話よりも実用性が高いと主張する。
社会全体がうるさくて早口の現代では、難聴者は聞き取りにくく、外国語同然だ。前にドーナツチェーン店の接客の工夫を求めたが、同書でも高齢者の多い地域のファストフーズ店がSサイズ、Mサイズ、Lサイズありますがどれにしますかというのを「カップは大中小がありますがどれにしますか」と言い、実物の見本を示して話していることが紹介されている。

「ぷんすか?」は著者がコンビニ店で言われて分からなかった例として紹介している。

市町村の要約筆記奉仕員養成事業はこうした聞こえの問題を啓発する「聞こえのサポーター」を養成して、町の隅々まで配置するような事業としたい。

ラビット 記

写真は、芝増上寺にあるホテルニュージャパンの犠牲者を追悼する観音菩薩像。