ある雨の夜、テラスでぼんやり山を眺めているとダニエルが声をかけてきた。
「ヘッジ、下へ来て一杯やらないか?」
「うーん、どうしようかな。もうちょっとのんびりしたら行くよ」
正直ちょっとおっくうだった。
行けばそれなりに楽しいだろうが、仕事の疲れが多少残っていた。
こんな日は家でゴロゴロとヘナレが借りてきたカンフー映画でも見ようと思っていた矢先だ。
いやいや、こういったチャンスは逃してはいけない。自分に言い聞かせて重い腰をあげた。
彼らの家に入るとダニエルの兄ナイロがギターを抱えていた。
ナイロは数日前にロニーと入れ替わるようにクィーンズタウンへやって来たばかりだ。
巨漢のダニエルに比べれば一回り小さいが、がっしりした体格でジャージの上下など着ているものだからまるで体育の先生のようだ。
後で聞くとマオリの武術をやっているとの事。納得。
右目の上にピアスがぶら下がっているのは何か意味があるのだろうか。
兄弟の会話は英語半分マオリ語半分で、僕には全く理解ができない。
唄う歌はマオリの歌だけだ。意味はわからないが音の響きが実に心地よい。
それに加えナイロのギターが素晴らしく、思わず聞きほれてしまう。
彼はぎっちょなのかギターを右向きに持つ。
小さい時からそれでやってきたのだろう。ギターは右利き用のままで器用に弾く。
ダニエルやロニーのギターも上手いと思ったがそれとは次元が違う。
周りでは若いヤツラがビールを片手にナイロのギターに合わせて唄う。
のってくると床を踏み鳴らし、腕を振り回しマオリのダンスを踊りながら唄う。
女の子達はポイと呼ばれるヒモの先にボールが付いた物をパタパタと器用に回しながら唄う。
女達のポイも男達のダンスも何十回かマオリのショーで見たことはある。
思い込みとは恐ろしいもので、こういったものをやるのはショーの時だけだと思っていた。
ショーが終りメイクを落とすと普通の兄ちゃん姉ちゃんであり、この家では普段着の彼等が誰に見せるわけでもなく自分達の為に唄う。
パケハの文化に屈服しないマオリの文化はこうやって生きる。
僕は一人観客となり彼等の音楽を楽しんだ。
歌を終え各自ビールやお茶を飲む。僕はテラスでナイロと山を眺めた。彼と2人きりで話すのは初めてだ。
「ナイロ、君のギターは素晴らしいよ。今夜はいい思いをした」
「そう言ってもらうとうれしいな」
彼はスパイツをがぶりと飲んで言った。
「うん、このビールも悪くないな」
ナイロは南へ来てまだ日は浅い。ロニーが去り、入れ替わるようにやって来たのだ。
「普段は何を飲んでいるんだ?トゥイか?」
「いや、ワイカトだな」
トゥイもワイカトラガーも北のビールだ。
「南ではみんなスパイツだろう」
「ああ、このビールもなかなか良いぞ。悪くない」
「ここでは安いしね」
「本当はウィスキーが好きなんだ。グラスに氷を浮かばせて飲むのが好きだ」
「ナイロ、オレはウィスキーは飲めないんだ」
「ふーん、他には何を飲む?サケか?」
「ああ、美味いサケはいいぞ。飲んだことはあるか?」
「オレが教えてもらったのは、オーブンに入れて温めて飲む。あれも美味かったなあ」
「ナイロ、本当にいいサケは冷やしても美味いんだぞ。そうだなちょうど白ワインみたいにな。そうだ、今度日本の土産に上等のサケを買ってくるよ。びっくりするぜ」
「それならオマエが帰ってきたらウェルカムホームのライブをやろう」
「うわ、そりゃ嬉しいや」
ビールを持った手を軽く上げて、僕の目を見ながら彼は言った。
「なに、これが俺達マオリのやりかたさ」
ある午後、仕事を終え家へ戻るとナイロがいた。
「キオラ ブロ ノー マヒ トゥデイ?」
彼等との会話にはマオリ語が混ざる。キオラは挨拶、ブロはブラザー、兄弟、マヒは仕事のことだ。
「おう、ちょうどマヒを終えた所だ。家へ来てお茶でも飲むか?」
「いいねえ兄弟、御馳走になるよ」
お茶を煎れながら僕は言った。
「とっておきのグリーンティーをいれてあげよう。オレのホームタウンから送られてきたものだ」
ナイロは日本の味がとても好きだ。
イクラを漬けた時にも、ダニエルや彼女のエレナはダメだったがナイロはウマイウマイと食った。
サンマを梅干と一緒に煮たもの、豚汁、カレー、セロリのキンピラ。
僕が料理を作っているところにヤツが来ると必ず味見をしていく。たいていのものは喜んで食べる。
お茶を飲みながら彼が言った。
「実はオレ、今日が誕生日なんだ」
「へえ、そうか。それはおめでとう。いくつなんだい?」
「31さ」
「本当かあ。オレより年上だと思っていたよ。それならビールでも飲むかい?」
「いやいや、今はこのお茶が御馳走だよ。ありがとう兄弟」
「いやいや、どういたしまして兄弟」
テラスでお茶を飲む僕達を午後の日差しが優しく包む。目の前にはワカティプ湖が広がる。
ワカティプというのはマオリ語で『巨人が横たわる』というような意味がある。
この湖を地図で見ると、人間が膝を抱えてゴロンと転がったような形をしている。
マオリの神話では、巨人が焼け死んだ所に水がたまって出来たのがこの湖だということになっている。
その話をそのまま鵜呑みにするとその巨人は身長70キロメートルにもなってしまう。
いくらなんでもそこまで大きい人間というのは考えにくい。カミサマなら別だが。
その日ナイロが話してくれた事はもっと理にかなったものだった。
「もともとこの辺りには巨人が住んでいたのさ。背丈は4mから5mぐらいかな。マオリのマントがあるだろう。あれは脇の下から地面まで、と長さが決まっていてその人の慎重に合わせて作る。そいつが3m以上あるのがちゃんと記録に残っている。それを考えると身長は4mぐらいになるわけだ。それに石で出来た武器があるだろう。マオリの決まりであれは片手で扱う物なんだ。あれも巨大なものが残っている。とても普通の人間なら片手で持ち上げられないような大きな物だ。だが4mの身長の人が持つにはちょうど良いサイズだ」
「そうかあ、4mの人間だったらあの辺の山なんか簡単に登れちゃうね」
僕は目の前に構えるセシルピークを指差して言った。
「そうそう、オレ達が歩くよりはるかに楽にこの辺りの山を歩いていたのさ」
ワカティプ湖は鉤型に曲がっていて、空からでないと全体を見渡す事はできない。
地図で見ると確かに人がゴロンと転がっているように見える。
だが西洋の文明が入ってくる以前、航空機や正確な地図がない頃、人々は自分の足で山々を歩き、この湖の形を知り巨人が横たわると信じた。
「食べ物の変化などで巨人はどんどん背が縮み普通の人のサイズになってしまったのさ」
「その話は説得力があるよ」
「他の人達は迷信と言うかもしれない。だが俺達マオリは今でもここに巨人が居たと信じている」
山を見ながらナイロが呟いた。
僕等の目の前でフラックスに鳥が止まる。
フラックスは刀のような歯が2m程、地面から草のように生える。
葉は繊維質で強く、マオリはこの葉を編んで、カゴや腰蓑など色々な物に使っていた。
花は葉よりも一段高い所に咲く。トゥイやベルバードなどの鳥はこの花の蜜を好んで吸う。
ものの本によると、鳥のクチバシが花の形に合っていて、密が吸い易いようにできていると。ナルホド、納得である。
自然界には人がどう考えても『何故こんなことになっているのだろう』と思うものと『見れば納得、ナルホド上手く出来てるなあ』というものが混在する。
これらの鳥の鳴き声は素晴らしい。鳴き声を集めたCDもあるぐらいだ。もちろん僕の家にもある。
同じ種類の鳥でも谷間が変われば別の音色を奏でる。ルートバーンなどの森とクライストチャーチの林では全然違う。開けた所に住むベルバードの音階はわりと似通っている。鳥の声にも地方訛りと標準語がある。
特に森の中だと音が響いて雰囲気をより盛り上げる。トレッキング中の最高のBGMだ。
たまに若い人がウォークマンを聞きながら歩いているのを見る。人に迷惑をかけない限りその人がどう歩こうとその人の勝手だ。
しかし、つい『ああ、もったいないなあ』と思ってしまう。大きなお世話と言えば大きなお世話だ。
そんな鳥たちが僕達の目を楽しませてくれる。フラックスを見ながら僕はナイロに聞いた。
「あのフラックスの根本にゼリー状のものがあるだろう」
「おう、あるある」
「あれはマオリの人達は使うのかい?」
「おう、普通に使っているよ。フラックスのジェルは皮膚病、火傷によく効く」
「じゃあアロエみたいなものだね。日本では医者要らずって名前だ」
「医者要らず、面白いじゃないか。フラックスの葉は細工物を作る。オレの家にあるだろう」
「うん。あるねえ」
「それから葉を煎じて飲むと胃腸薬にもなる」
「へえ、それは知らなかった。オレもためしてみようかな。他には?」
ナイロはどの木がどんな薬になるか、どの植物が食べられるか、いろいろな例をあげて説明してくれた。
まったくためになる勉強で、ヤツはとても良い先生だ。
そういえば、実際にどこかでマオリの講師をやっていると言っていたな。納得。
「オレが好きな日本の言葉で『医食同源』というのがある。もともと中国の言葉だけど、『食べる物と医療の物は元を正せば同じ物』という考えだ。どこかしら通じるものがあると思わないか?」
「医食同源ねえ。いい言葉だなあ。人はそうあるべきだろうな」
「なあナイロ、今オレ達が生きているのは西洋の文明の中だろ」
「どういう意味だ?」
「うん、この家だって、テレビ、コンピューター、自動車、飛行機、電気、ガス、全て西洋のものだろう。マオリとか日本のアイヌとかアメリカンインディアン、エスキモー、アンデスのインディオ、そういった文化とは違うものだよな」
「ああ、そうだ」
「この文明のおかげでオレ達はすごい楽に生活ができている。水一つとっても、蛇口をひねれば水は出てくるわけだ。それが無ければ湖や川へ水をとりに行かなければならない」
「その通り」
「それどころかもう一つの蛇口をひねればお湯まででてくる。火を起こして水を温める手間を考えれば、とんでもなく楽だ」
「フムフム」
「今さら人間は原始の生活にもどる訳にはいかない。だけど、この西洋の文明が行き詰まりになっているんじゃないか、と思うことがよくある」
ナイロは深く頷いて言った。
「それはもう目に見える形であらわれているじゃないか」
「えっ?どんな形で?」
「考えてみろよ。目に見えているよ」
「うーん、何だろう。戦争か?」
「違う。ガソリン代の高値だ」
「あ」
僕は言葉を失ってしまった。ジグソーパズルをはめるように全ての質問の答えがつながっていった。
ナイロが続けた。
「人々は今までとは違うものが必要だ」
「そこでだ、オレはこういったマオリの知恵やアメリカンインディアンの教え、その他迷信や神話と呼ばれていたものが大切になってくるのだと思う」
「よく言った。兄弟。その通りだ」
「人というのは結局、自然の中の一部だろうとオレは思う。木とか鳥とか動物などと同じ。オレもオマエも全体の一部なのさ」
「その通り、全体の一部だ。オマエがそれを分かっていれば大丈夫だ、兄弟」
ナイロはマオリのテレビにも出ていて、マオリの世界ではかなり有名な人らしい。
クィーンズタウンに来て間もない頃によく「あのテレビに出ていた人かい」と声をかけられたと言う。
その度に「シッ、ここにいるのは内輪だけの話だよ」とやったそうだ。
一度彼が指揮したカパハカをビデオでみせてもらった。
カパハカとは部族ごとに歌やハカと呼ばれるマオリのウォーダンスなどを披露する大会が何年かに一回開かれるものだ。
ナイロのグループは彼自身が歌を作り、振り付けなども彼が指揮した。
彼自身はその部族の酋長となり、マオリの呪文を唱え、周りの人を引っ張る。
伝統衣装のマントを羽織り杖を持ち頭に羽根飾りをつけた様子は立派なマオリのリーダーだった。
それには弟のダニエルも出ていた。
彼は酋長の号令に従う若き戦士だったのだ。
続
「ヘッジ、下へ来て一杯やらないか?」
「うーん、どうしようかな。もうちょっとのんびりしたら行くよ」
正直ちょっとおっくうだった。
行けばそれなりに楽しいだろうが、仕事の疲れが多少残っていた。
こんな日は家でゴロゴロとヘナレが借りてきたカンフー映画でも見ようと思っていた矢先だ。
いやいや、こういったチャンスは逃してはいけない。自分に言い聞かせて重い腰をあげた。
彼らの家に入るとダニエルの兄ナイロがギターを抱えていた。
ナイロは数日前にロニーと入れ替わるようにクィーンズタウンへやって来たばかりだ。
巨漢のダニエルに比べれば一回り小さいが、がっしりした体格でジャージの上下など着ているものだからまるで体育の先生のようだ。
後で聞くとマオリの武術をやっているとの事。納得。
右目の上にピアスがぶら下がっているのは何か意味があるのだろうか。
兄弟の会話は英語半分マオリ語半分で、僕には全く理解ができない。
唄う歌はマオリの歌だけだ。意味はわからないが音の響きが実に心地よい。
それに加えナイロのギターが素晴らしく、思わず聞きほれてしまう。
彼はぎっちょなのかギターを右向きに持つ。
小さい時からそれでやってきたのだろう。ギターは右利き用のままで器用に弾く。
ダニエルやロニーのギターも上手いと思ったがそれとは次元が違う。
周りでは若いヤツラがビールを片手にナイロのギターに合わせて唄う。
のってくると床を踏み鳴らし、腕を振り回しマオリのダンスを踊りながら唄う。
女の子達はポイと呼ばれるヒモの先にボールが付いた物をパタパタと器用に回しながら唄う。
女達のポイも男達のダンスも何十回かマオリのショーで見たことはある。
思い込みとは恐ろしいもので、こういったものをやるのはショーの時だけだと思っていた。
ショーが終りメイクを落とすと普通の兄ちゃん姉ちゃんであり、この家では普段着の彼等が誰に見せるわけでもなく自分達の為に唄う。
パケハの文化に屈服しないマオリの文化はこうやって生きる。
僕は一人観客となり彼等の音楽を楽しんだ。
歌を終え各自ビールやお茶を飲む。僕はテラスでナイロと山を眺めた。彼と2人きりで話すのは初めてだ。
「ナイロ、君のギターは素晴らしいよ。今夜はいい思いをした」
「そう言ってもらうとうれしいな」
彼はスパイツをがぶりと飲んで言った。
「うん、このビールも悪くないな」
ナイロは南へ来てまだ日は浅い。ロニーが去り、入れ替わるようにやって来たのだ。
「普段は何を飲んでいるんだ?トゥイか?」
「いや、ワイカトだな」
トゥイもワイカトラガーも北のビールだ。
「南ではみんなスパイツだろう」
「ああ、このビールもなかなか良いぞ。悪くない」
「ここでは安いしね」
「本当はウィスキーが好きなんだ。グラスに氷を浮かばせて飲むのが好きだ」
「ナイロ、オレはウィスキーは飲めないんだ」
「ふーん、他には何を飲む?サケか?」
「ああ、美味いサケはいいぞ。飲んだことはあるか?」
「オレが教えてもらったのは、オーブンに入れて温めて飲む。あれも美味かったなあ」
「ナイロ、本当にいいサケは冷やしても美味いんだぞ。そうだなちょうど白ワインみたいにな。そうだ、今度日本の土産に上等のサケを買ってくるよ。びっくりするぜ」
「それならオマエが帰ってきたらウェルカムホームのライブをやろう」
「うわ、そりゃ嬉しいや」
ビールを持った手を軽く上げて、僕の目を見ながら彼は言った。
「なに、これが俺達マオリのやりかたさ」
ある午後、仕事を終え家へ戻るとナイロがいた。
「キオラ ブロ ノー マヒ トゥデイ?」
彼等との会話にはマオリ語が混ざる。キオラは挨拶、ブロはブラザー、兄弟、マヒは仕事のことだ。
「おう、ちょうどマヒを終えた所だ。家へ来てお茶でも飲むか?」
「いいねえ兄弟、御馳走になるよ」
お茶を煎れながら僕は言った。
「とっておきのグリーンティーをいれてあげよう。オレのホームタウンから送られてきたものだ」
ナイロは日本の味がとても好きだ。
イクラを漬けた時にも、ダニエルや彼女のエレナはダメだったがナイロはウマイウマイと食った。
サンマを梅干と一緒に煮たもの、豚汁、カレー、セロリのキンピラ。
僕が料理を作っているところにヤツが来ると必ず味見をしていく。たいていのものは喜んで食べる。
お茶を飲みながら彼が言った。
「実はオレ、今日が誕生日なんだ」
「へえ、そうか。それはおめでとう。いくつなんだい?」
「31さ」
「本当かあ。オレより年上だと思っていたよ。それならビールでも飲むかい?」
「いやいや、今はこのお茶が御馳走だよ。ありがとう兄弟」
「いやいや、どういたしまして兄弟」
テラスでお茶を飲む僕達を午後の日差しが優しく包む。目の前にはワカティプ湖が広がる。
ワカティプというのはマオリ語で『巨人が横たわる』というような意味がある。
この湖を地図で見ると、人間が膝を抱えてゴロンと転がったような形をしている。
マオリの神話では、巨人が焼け死んだ所に水がたまって出来たのがこの湖だということになっている。
その話をそのまま鵜呑みにするとその巨人は身長70キロメートルにもなってしまう。
いくらなんでもそこまで大きい人間というのは考えにくい。カミサマなら別だが。
その日ナイロが話してくれた事はもっと理にかなったものだった。
「もともとこの辺りには巨人が住んでいたのさ。背丈は4mから5mぐらいかな。マオリのマントがあるだろう。あれは脇の下から地面まで、と長さが決まっていてその人の慎重に合わせて作る。そいつが3m以上あるのがちゃんと記録に残っている。それを考えると身長は4mぐらいになるわけだ。それに石で出来た武器があるだろう。マオリの決まりであれは片手で扱う物なんだ。あれも巨大なものが残っている。とても普通の人間なら片手で持ち上げられないような大きな物だ。だが4mの身長の人が持つにはちょうど良いサイズだ」
「そうかあ、4mの人間だったらあの辺の山なんか簡単に登れちゃうね」
僕は目の前に構えるセシルピークを指差して言った。
「そうそう、オレ達が歩くよりはるかに楽にこの辺りの山を歩いていたのさ」
ワカティプ湖は鉤型に曲がっていて、空からでないと全体を見渡す事はできない。
地図で見ると確かに人がゴロンと転がっているように見える。
だが西洋の文明が入ってくる以前、航空機や正確な地図がない頃、人々は自分の足で山々を歩き、この湖の形を知り巨人が横たわると信じた。
「食べ物の変化などで巨人はどんどん背が縮み普通の人のサイズになってしまったのさ」
「その話は説得力があるよ」
「他の人達は迷信と言うかもしれない。だが俺達マオリは今でもここに巨人が居たと信じている」
山を見ながらナイロが呟いた。
僕等の目の前でフラックスに鳥が止まる。
フラックスは刀のような歯が2m程、地面から草のように生える。
葉は繊維質で強く、マオリはこの葉を編んで、カゴや腰蓑など色々な物に使っていた。
花は葉よりも一段高い所に咲く。トゥイやベルバードなどの鳥はこの花の蜜を好んで吸う。
ものの本によると、鳥のクチバシが花の形に合っていて、密が吸い易いようにできていると。ナルホド、納得である。
自然界には人がどう考えても『何故こんなことになっているのだろう』と思うものと『見れば納得、ナルホド上手く出来てるなあ』というものが混在する。
これらの鳥の鳴き声は素晴らしい。鳴き声を集めたCDもあるぐらいだ。もちろん僕の家にもある。
同じ種類の鳥でも谷間が変われば別の音色を奏でる。ルートバーンなどの森とクライストチャーチの林では全然違う。開けた所に住むベルバードの音階はわりと似通っている。鳥の声にも地方訛りと標準語がある。
特に森の中だと音が響いて雰囲気をより盛り上げる。トレッキング中の最高のBGMだ。
たまに若い人がウォークマンを聞きながら歩いているのを見る。人に迷惑をかけない限りその人がどう歩こうとその人の勝手だ。
しかし、つい『ああ、もったいないなあ』と思ってしまう。大きなお世話と言えば大きなお世話だ。
そんな鳥たちが僕達の目を楽しませてくれる。フラックスを見ながら僕はナイロに聞いた。
「あのフラックスの根本にゼリー状のものがあるだろう」
「おう、あるある」
「あれはマオリの人達は使うのかい?」
「おう、普通に使っているよ。フラックスのジェルは皮膚病、火傷によく効く」
「じゃあアロエみたいなものだね。日本では医者要らずって名前だ」
「医者要らず、面白いじゃないか。フラックスの葉は細工物を作る。オレの家にあるだろう」
「うん。あるねえ」
「それから葉を煎じて飲むと胃腸薬にもなる」
「へえ、それは知らなかった。オレもためしてみようかな。他には?」
ナイロはどの木がどんな薬になるか、どの植物が食べられるか、いろいろな例をあげて説明してくれた。
まったくためになる勉強で、ヤツはとても良い先生だ。
そういえば、実際にどこかでマオリの講師をやっていると言っていたな。納得。
「オレが好きな日本の言葉で『医食同源』というのがある。もともと中国の言葉だけど、『食べる物と医療の物は元を正せば同じ物』という考えだ。どこかしら通じるものがあると思わないか?」
「医食同源ねえ。いい言葉だなあ。人はそうあるべきだろうな」
「なあナイロ、今オレ達が生きているのは西洋の文明の中だろ」
「どういう意味だ?」
「うん、この家だって、テレビ、コンピューター、自動車、飛行機、電気、ガス、全て西洋のものだろう。マオリとか日本のアイヌとかアメリカンインディアン、エスキモー、アンデスのインディオ、そういった文化とは違うものだよな」
「ああ、そうだ」
「この文明のおかげでオレ達はすごい楽に生活ができている。水一つとっても、蛇口をひねれば水は出てくるわけだ。それが無ければ湖や川へ水をとりに行かなければならない」
「その通り」
「それどころかもう一つの蛇口をひねればお湯まででてくる。火を起こして水を温める手間を考えれば、とんでもなく楽だ」
「フムフム」
「今さら人間は原始の生活にもどる訳にはいかない。だけど、この西洋の文明が行き詰まりになっているんじゃないか、と思うことがよくある」
ナイロは深く頷いて言った。
「それはもう目に見える形であらわれているじゃないか」
「えっ?どんな形で?」
「考えてみろよ。目に見えているよ」
「うーん、何だろう。戦争か?」
「違う。ガソリン代の高値だ」
「あ」
僕は言葉を失ってしまった。ジグソーパズルをはめるように全ての質問の答えがつながっていった。
ナイロが続けた。
「人々は今までとは違うものが必要だ」
「そこでだ、オレはこういったマオリの知恵やアメリカンインディアンの教え、その他迷信や神話と呼ばれていたものが大切になってくるのだと思う」
「よく言った。兄弟。その通りだ」
「人というのは結局、自然の中の一部だろうとオレは思う。木とか鳥とか動物などと同じ。オレもオマエも全体の一部なのさ」
「その通り、全体の一部だ。オマエがそれを分かっていれば大丈夫だ、兄弟」
ナイロはマオリのテレビにも出ていて、マオリの世界ではかなり有名な人らしい。
クィーンズタウンに来て間もない頃によく「あのテレビに出ていた人かい」と声をかけられたと言う。
その度に「シッ、ここにいるのは内輪だけの話だよ」とやったそうだ。
一度彼が指揮したカパハカをビデオでみせてもらった。
カパハカとは部族ごとに歌やハカと呼ばれるマオリのウォーダンスなどを披露する大会が何年かに一回開かれるものだ。
ナイロのグループは彼自身が歌を作り、振り付けなども彼が指揮した。
彼自身はその部族の酋長となり、マオリの呪文を唱え、周りの人を引っ張る。
伝統衣装のマントを羽織り杖を持ち頭に羽根飾りをつけた様子は立派なマオリのリーダーだった。
それには弟のダニエルも出ていた。
彼は酋長の号令に従う若き戦士だったのだ。
続