あおしろみどりくろ

楽園ニュージーランドで見た空の青、雪の白、森の緑、闇の黒の話である。

史上最大の茶番劇

2021-04-25 | 日記
久しぶりに自分のブログを見て、そのまま最近の過去を振り返ってみた。
日記というか忘備録というか、忘れていたことが次々と思い出される。
考えてみれば、世界中がロックダウンになり、異常と呼べる社会になって1年が経つ。
それまでは夏はクィーンズタウンで忙しく働きながら面白おかしくやり、秋になれば仕事がなくなりクライストチャーチへ戻って庭のことなどをした。
冬が来れば当たり前のように雪山へ仕事で行きスキーをして、春になれば庭の種まきなどをして夏が来る前にクィーンズタウンへ行く。
そんな生活サイクルで十数年もやってきた。
それが今回の騒ぎで完全に崩壊して、早1年。
この1年の間にも色々な出来事があった。
ロックダウン、そして実質状の鎖国。
個人的な話では、仕事が無くなりその代わりに今までとは違う仕事もしたし、新しい経験もあった。
ケガや病気、親しい友達との別れもあったが、新しい出会いや全黒のイベントやライブなどの楽しい事もあった。
とにかくたくさんの出来事があり、1年というものがあっという間に過ぎ去った。
感覚的にはずいぶんと時が経ったように感じられるが、まだたった1年なのだ。

ここからは僕の個人的な意見なので、不快に思う人は読み進んでいただけなくて結構。
いや、それよりも多くの人の反感を買うことだろう。
そういう人はこんなブログなんぞ読んでいる暇があるなら、街のゴミ拾いでもしていなさい。
その方がよっぽど世のため人のためになる。
まずこの騒ぎの最初から言っていたこと(ブログでは言ってないけど)だが、「みんな馬鹿騒ぎをやめて普通の生活をしようよ」
人が移動すれば病気が蔓延するから行動を自粛しなさい。
そんなことを言う人を茶化して「あんたの心が感染源」などという曲も作った。
僕は今回の騒ぎは茶番劇だと思っている。
世界中を巻き込んだ壮大なる茶番劇だ。
実体の無い伝染病とでも言おうか。
確かに何らかの病気はある。
だが世の中は常に、病気はつきものだ。
生老病死。
生きて老いて病んで死ぬ。
人が生きる上で避けて通れないものだ。
地球上で一瞬たりとも風邪をひいている人がゼロになったことがあるか?
1年経ってそろそろこの病気がどういうものか分かってくる頃だろう。
働き盛りの人や子供がバタバタ死んでいくような病気なのか?
今までのインフルエンザだって、それで死ぬ人はいたよな。
ただの風邪だって死ぬ人は死ぬ。
それで人が死ぬのはしょうがないだろう。
死ねば誰もが仏様になるのだから、神様になってバカな人間の営みを見守ってもらえばいいじゃないか。
そして実体のない伝染病の感染経路は、マスコミやネットなどの情報だ。
人間の死や病に対する考えや怖れという感情を巧みに利用しているのだ。
最初の頃はそれらしい宣伝を見て、「ああ、そういうものか」と一瞬思うようなものもあった。
今落ち着いてそれを考えると、何を隠して、何を広めたいのか、はっきりと分かる。
死なないために病気にならないために人間はいろいろなことをする。
それはある意味正しい。
ただ極度に死や病気を怖れるあまりに、違う方向に進んでいるのが今の社会だ。
思えば10年前にクライストチャーチの地震、そして日本の震災が起こった時に、ふと湧き出た想い。
そのうちにこれよりもはるかに大きく、世界規模で人々の生活を変えるような出来事が起こるぞ。
その時は漠然とした予感だったが、今となってはこのことだったんだなと思う。

そしてこの1年で人類に起こった最大の悲劇は分断である。
家族や親戚、友人知人、そういった人達と直接会えないように仕向けられた。
僕も簡単には日本に帰れない。
このままだと親父の死に目にも会えないだろうし葬式にも出られない。
「俺の葬式に帰って来るな」というのが遺言(まだ死んでないけど)だから、まあそれでもいいのだろう。
今のご時世、我が家のように国境を越えた家族はたくさんいる。
今まで自由に行き来できたものができなくなり、家族は分断された。
確かにズームなどで顔を見ながら話はできる。
便利になったと言えば便利なのだろうが、何か違うような気がする。
直接会うことで伝わるモノは確実に存在する。
それは言葉を変えれば『氣』というものではなかろうか。
つい先日、女房と娘が旅行に行った時にテレビ電話(あえてこの言葉を使う)で話をしたが、やはりどうも好きになれない。
それなら普通の電話の方が好きだ。
人と人とのコミュニケーションというのも時代と共に変わりつつある。
今では同じテーブルに座っていながら話をせずに、携帯を使って文字で会話をするなんて冗談のような話もあるようだ。
僕はとりわけライブというものを重要視するので、できるだけ人と直接会うようにこころがけている。
人を家に招くのも好きだし、出かけて人に会うのも良し。
人との関係は、会える時にはすんなり会えるものだが、会えない時にはどう時間を工面しても会えない。
そういったもの全てが縁というものだと思う。
そう考えると今の、家族でも簡単に会えない世界は、それ自体がそういう縁なのかもしれない。
時代遅れという歌があるが、今の自分がそうなってしまったのだろうか。
それならそれでまあいいや、と開き直っている自分がいる。

分断と言えば直接会って話をしても通じない人もいる。
ある知人とワクチンの話になった。
「世界中でワクチン射って死んでる人がいるだろう」と言っても
「それはきっと別の理由があったはずでワクチンは関係ない」とマスコミの発表だけを信じていた。
宗教と同じで何を信じるかはその人の自由なので、それ以上は会話も深まらない。
この件に関しては、この人と僕の関係もここまでなんだなと思った。
第一、今も続いているPCR検査。
この産みの親のキャリーマリス博士が「この検査方法は感染者をあぶり出すための物ではない」と生前言っていたそうだ。
その人が死んでからすぐにこのバカ騒ぎだ。
死人に口無し、陰謀の匂いがプンプン匂うぜ。
作った人が「そうやって使ってはいけない」という検査が今の世の中のベースになっている。
ワクチンに関しては、僕は自分から進んでは射たない。
だこれからの将来で充分考えられることだが、ワクチンパスポート。
ワクチンを打たなければ飛行機に乗れない、ということになったら仕方なく射つだろう。
だが強制ではなく、射つかどうかは自分で決める、という状態であるならば自分から進んではやらない。
それぐらいのものだ。
そしてまた「ワクチンを射ちます」という人に「止めなさい」と言う気もない。
「たかだか注射を射つぐらいでニュージーランドに行けて聖のおっさんのビールが飲めるなら、俺は喜んで10本でも20本でも射つぜ」
そういう人がいるのも知っている。
それはそれでありなんだと思う。
要は自分で決めてやればいい話ということだ。
これはあくまで大人の話であり、年端もいかない子供は親の判断に従うしかない。
そうなると親がどういう考えを持っているか、ということになる。
そしてそれを決めるには、世の中のどういう情報に耳を傾けるかという話に繋がっていく。

この壮大なる茶番劇から早1年。
前代未聞の大いなる分断で世界中がめちゃくちゃになった。
そして誰もこの茶番劇の終わらせ方を知らない。
政府、マスコミ、権力者は相変わらず本当の事を言わない。
PCR検査の産みの親、キャリーマリス博士の言葉をマスコミは絶対に流さない。
ロックダウンという政策はたいして意味がない、それどころか悪影響だということを政府は絶対に認めない。
その代償があまりに大きすぎるからだ。
はてさてこの先一体どうなることやら。
僕にもわからない。
ただ一つ言えることは、分からないから面白い、ということぐらいのものだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする